どう生きるかは、どう死ぬか?
生きるとは人が土になる書きます。
それは何もないところからご先祖様や両親の縁があり命が産まれ、最後には土に帰り最終的にはさまざまな縁によって地球となることを意味するのだと私は思っています。
しかし、今では遺体は火葬にされるので、土に帰るのは灰くらいですね。
それはさておき、人生を考える上で「死」をどう位置づけるか?なしにはどう生きるかは語れないような気がします。
それはゴールのないマラソンを走っているようなもの。
いくら走っても、どれだけ頑張ってもゴールがない・・・・・・
それなのに走れといっても・・・・・・・
私たち人間はいつの間にか「死」を自分の生活から遠ざけてしまっています。
死ぬのは恐怖。
悲しいこと。
お別れ・・・・・
私も癌になる前、なったときは100%そう思っていたので、怖くて怖くて、悲しくて悲しくて、いつ来るかわからない家族との別れが寂しくて寂しくて、不安に慄いていました。
しかしあるとき死をゴールと決めたのです。
死とはマラソンでいえばどれだけ走ったかの結果だと。
すると、癌になる前までは一番を目指して必死に全力疾走していていたことに気づいたのです。
一番になるための他を追い抜いき、追い抜いたら追い越されないように必死に!
それなので、周りの景色すら見ることもできずに、常に他人を意識して、走り続けていた自分に出会いました。
そんな自分を遠巻きに見たとき、それは死というゴールに一刻でも早く付くことを目指していたと感じたのです。
マラソンなどの競技は何度でも走ることができますが、人生のゴールは一回きり。
距離も時間もはるかに長い道のり。
だったら、一直線に思いっきり走って力尽きるよりも、無理せずその工程の中で多くの人と関わり縁を大切にして楽しくゴールに向かいたいと思いました。
ここ最近まで生き急いできましたから(笑)
そしてゴールに近づいた時、その道のりを振り返り「良かった!」と笑いながら眠りにつけたら最高!
私は自分の人生にそんなイメージを抱いています。
人生のゴールはいつ見えててくるかわからないし、どこにあるかはわからない。
だからこそ、いま走っていることを楽しむ。
その先にある人生のゴールの瞬間をどれだけ感謝と涙に溢れる感動的なもののするために。
私はそんなことを思いながら生きています。