まもなく2024年も終わろうとしていますが、18年前がんになった年の年末年始は「どうしてガンになんかなってしまったのか?今年は年を越せそうだが、来年は果たして越せるのだろうか?」なんて考えてばかりいました。


そんなとき、ため息ばかりつく私をみてある人に「そんなに悪い方ばかりに考えるのは止めて、もっと前向きでプラス思考にならなければいけない」と言われました。

それはごもっともな意見で、励ますつもりで言ってくれていることはよく分かりましたが、本音は「できないから悩み苦しんでいるのだ!」というのが正直な気持ちでした。

そんなことは解っているのです。

解ってはいるけど、すぐ最悪のことが頭に浮かび消えなくなってしまうから落ち込んでいるというのが本音でした。

がんや鬱になる前はかなり前向きだった私でさえそうなってしまうのですから、日ごろからあまり物事を良い方に捉えなかったり、くよくよ考えてしまったりする人は、もう目の前が真っ暗で何も考えられなく泣いてばかりいるなんて状況になって当然だと言えるでしょう。

そんな状態なのに無理にプラス思考になろうとすると、最悪の現実との乖離に苦しきできないからダメなのだと、さらに落ち込む原因となってしまうのです。

ではそんな時、私はどうするようにしたか?

ガンになったという出来事をプラスに思ったり考えたりは到底できなかったので、ガンになったことで、自分がどうするかという行動(身体と心の使い方)を変えたのです。

その結果、徐々にもしかしたらいい方向に進むかもしれない?と考え方がプラスに変わってきました。

プラス思考は遠い先(未来)を見ているので、今の自分が最悪の状況の場合はその未来との乖離に苦しんでしまいます。

特にがんのように、自分のこれからの未来が見えなくなって苦しんでいるときに、「プラス思考にしなければ!」なんて言ったって出来る訳がありません。

だから未来をプラスに考える必要なんてこれっぽっちもありません。

大切なのは未来ではなく“今”

今に集中して出来ることをするだけでいのです。

今を昨日よりひとつプラス

口に+と書いて叶うという漢字になりますが、プラスのことを口に出すだけでも、それは行動です。

とにかく今をほんの少しでも良くするだけ。

未来なんてその今の積み重ねでしかありません。

したがって未来に意識を向けるプラス思考は、“今の先送り”

だから先のことを考えるのは止めにして、今できることをただ積み上げることに集中すればいいのです。

私はそうやって今を積み上げることだけに集中するために、それまでは絶対大丈夫だとプラス思考で考えながらも、やっぱり現実に直面し先のことが心配になる病院の定期検査に行くのも止めました。

そして、ただ毎日体を動かし、楽しいことや良いことを探しながら今日一日生きられたことに感謝して翌日を迎えるという日々を過ごすようにしたのです。

その毎日を積み上げてきた結果、5年生存率20%をクリアし、さらには10年生存率10%前後をクリアすることができました。

そして、これから先もただ、この一瞬という今を楽しみながら積極的に生きるだけ。

未来はその積み重ねだからこそ、人生はいつでも変えられるし、価値があるのだと私は思います。

 

 

人は生まれ、そして死ぬ。


人生とは、その間。

だから人が生きている間が人生で、その人生のゴールが死


どう生まれて、どう死ぬか?を通して人生。

そして、その結果は最後にしか、わからない。

それなのに多くの人は死から目を背けるし、恐


そんな私もガンという病を宣告されたとき、それまで目を背けて来た死が突然目の前に現れてパニックになった。

しかしある時から、生きることの積み重ねたた結果が死であり、何を積み重ねるかでその結果も大きく変わるという仮説を立てた。

どう生きるかが、どう死ぬか?

いつ来るかわからない死に怯えるのではなく、今生きているという生に集中しようと決めた。

それなので、検査で病院にいくこともやめた。

生きることだけを意識すれば、検査なんて必要ないと思った、

いつ死んでもいい生き方をしようと覚悟を決めた。

死ぬ覚悟と、生きる覚悟を同時にしたのだ。

それから、目標を立てない(立てればその半ばで死んだら後悔が残る)

自分に何かを残すのではなく、未来に何かを残す。

そして自分の死の向こう側を生きる目的とした。

死は人間のゴール。

しかし、自分で走るコールだが、その向こうに他人の感動や自分の軌跡がのこる。

自分のゴールで他人にバトンを渡すリレーのようなもの。

だからこそ、ゴールに目を背けたら、恐れたら、いい人生は送れない気がした。

そう思って生きてきたらとても楽しく幸せになった。

人は生まれた時は真っ白○

しかし、人生なかなか上手くは行かず●が多くなってきて徐々に真っ黒に

○○●●●●●●●●

しかし最後のゴールがよければ○

するとオセロのように人生はまっ白になる。

○○○○○○○○○○

たとえどんなに悪いことがあっても、幸せなゴールを迎えれば幸せな人生となる。

人生はいつからでもやり治せるし、幸せになることはできるのだ。


「孤独を楽しむ」

 

私がこれまでの人生の中で一番孤独を感じたのは、人工呼吸器に繋がれた2日間でした。

 

 

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話すことも動くこともできず、自分の意志を伝える術はなく、もしかしたらこのままあの世に行ってしまったら・・・・・

 

しかし今になって振り返ってみると、あの時の孤独があったから私は自分を信じ突き進むことが出来たような気がするのです。

 

人は他人との関係性がないと孤独になりますが、私に人工呼吸器に繋がれた孤独は他人どころか自分でも何もできない無力で絶望的な孤独でした。

 

その孤独から比べれば、自由に動き話せる自分さえいれば、それは孤独なんてものではないと思えるようになったのです。

 

またあの時、私は結局最後は自分一人ということも解ったのでした。

 

人が死ぬときは1人、間違いなく孤独で旅立つのです。

 

その孤独の中でも自分が満ち溢れた状態でいることが出来るのは、自分の人生に悔いを残さず自分らしく生きることだと思ったのでした。

 

だから孤独を楽しめるような人生を送りたい。

 

それは、自分が自分を信じ行動すること、自分を好きになることだと思いました。

 

そう思えるようになったことで、私は孤独を埋めるために人に同調することを止めました。

 

これまでの人生は、孤独にはなりたくないので、どうしても人に合わせることが多かったような気がします。

 

その結果、他人に合わせた自分が多くなり、その数だけ自分は薄れてしまっていたのです。

 

もう絶対そうならないために、自分を自分が信じ行動しようと思いました。

 

孤独を感じるということは、自分らしく生きているということだと思うようになると、孤独を楽しめるようになってきたのです。

 

人から何を言われようと、どう思われようと、自分は自分。

 

その自分を自分が信じてあげずして、誰が信じてくれるのだろうか?

 

そんな経緯を経て、

 

自分を信じていれば、自分を好きであれば、少なからず人は孤独になります。

 

他人はたくさんいるけれど、自分は一人しかいないのですから。

 

様々な問題や課題に接したと、私たち人は何らかの答えを求める。

私もサラリーマン時代、そしてガンになった当初、常に答えを求めてあれこれ考え、行動してきた。

がんになったときは


どんなサプリが効くのか?

どんな食事をしたらよいのか?

など正解という”答え”を求める。

その理由は「答えを出す」それが現代の教育であり、社会のあり方だから。

そして、その結果が○か×で評価され、○=正解、×=不正解となる。

しかし、本来答えとは返事、返答のこと。

返す事が答えなのではないのか?

そこに幾通りもの返事があるからこそ答え。

なのに一つが正しく、それ以外は間違い。

そして間違った答えを出した人は評価されない。

学校のテストで、雪が解けたら?の答えに”水”と答えれば正解で、”春”と答えれば不正解



だからほとんどの人は”水”と答える。

でも、どっちの答えのほうが心を和ませ、明るい未来を感じるのだろいうか?

すべての出来事に結果をつけるのは私たち人


その結果に一つしか正解がなかったら・・・・・・・

それなので、心の病や犯罪が増えるような気がしてならない。

理性より、感性。

それが生きているということではないか?

答えは理性で求めるではなく、感性で求めることが自分らしさであり、自然・・・自ら然るべき姿。

一つの問いに対して、どれだけの答えを創造でき、その答えを正解にするためにどれだけの行動ができるか?

それが結果であり、正解でも不正解でもない。

不正解。

それは行動が足りなかっただけのこと。

正解を作るのは”自分”

自分が正解であれば、他人がすべて不正解といおうと正解なのだ。

間違ったことが正解になることさえある。

答えは自分でつくる。

そのために行動する。

そして、正解を求めて行動し続ける限り、不正解はない。

それが答えだと思う(笑)
疑い

それはフィルターを通してみる幻

そう、現実でも真実でもなくただただ自分の心が生み出す副産物なのだ。

つまりどんなことでも、自分の心というフィルターを通すことで疑いとなってしまうのだ。

私は会社の人間ドックで、ガンの疑いがあるがあると言われた。

そのときの現実、そして真実は癌があるとか無いとかではなく、今まだ生きているということだけなのだ。

しかしそれを、癌=死、人生の終結 という自分で作ったフィルターを通して見てしまった。

その結果得たものは、恐怖そして不安・・・・・・・

つまり、私自身が癌に目を向かわせた結果なのだ。

疑うことで心は揺れる。

そして疑がわず信じることで心は落ち着く。

しかし、その信じることが難しい。

結局は疑うことのほうが簡単なのだ。

信じたら責任は自分。

疑えば責任は他人。

責任を他人にすれば自分は何も非がないことになる。

自分はそのままでい良いから楽なのだ。

疑うこと、それは自分を楽にすることであり、正当化する手段でしかない。

つまり疑っている限り、変わることはできない。

疑い

それは自分に固執する行為であり、成長を阻む重りでしかないのだ。