心と体と健康と豊かな人生ととことん向き合うブログ 太田 直 -28ページ目

心と体と健康と豊かな人生ととことん向き合うブログ 太田 直

元カイロプラクター&インストラクター

現在は心理学を学び、更にヘルスコンサルタントとしての道を歩んでおります。

皆様の心と体と健康と豊かな人生のお役に立つような情報をお伝えしていきます。

メモ代わりに記します。



カイロをやってて、患者さんを観る一つの基準として、

『相手が困っているか、困っていないか』

そういう基準を持って色んな判断をしてきた所があるんだけれども、

(結果、責任は助け合いの中にのみうまれるという考え方をして困らないような思考を生み出してみた。ただそれだけでは不十分だった。)

『相手が幸せか幸せでないか』

ということを、言動の基準としてみてもいいんじゃないかと、治療家としてもね、そう思った。

いや、思ってたんだけど、治療家という観点から患者さんの幸せを実現しようとするのって、

並大抵のことではないんですよ。

人を哲学的に、科学的に、技術的に、芸術的に、幸せにスタンダードを上げていくってことは、

少なくとも病気や症状に注目したままでは、実現不可なわけです。



開店当初から(お店自体はいま閉めたけど)「ライバルはディズニーランドだ」としてきた。やっぱり同じ5千円くらい払って頂くなら、

その時の幸せとか、未来への希望とかそういうものを提供したいなってずっと思ってた。


それはある程度までは実現できたんだけど(僕個人としての技術的な意味では)

ただそういう人を具体的に増やしていく為の方法とすると、普通の治療院では不十分だなって、


それで拡大可能な方法を研究していて今の勉強漬けの生活に入ってるわけです。


(勉強自体は好きだけど、果たしてそんなこと出来るのか不安でしかないけど、ただ楽しいからやる。それだけ)




話がそれたけど『相手が幸せか幸せじゃないか』っていうのは結構奥が深くて、

それこそ矢野先生の心理学学んでなかったら、僕は功をなさない勉強の為に死んでたw本当素晴らしいですよ、矢野先生。ある意味命の恩人です。



(結局は自分の思考をまとめなきゃいけないから、矢野先生とは関係のないことを沢山書いてるけれども、)


幸せを考える前に、

じゃあ不幸って何?ってことをちらっと見てみる。

紙とペンを用意して不幸だと思うことを書き出してみて下さい。



例えば、



・お金がない
・健康でない(病気だ)
・体調を崩しそうなくらい忙しい
・あいつよりも資産がない
・あいつほど能力がない
・産まれもったものが悪い
・環境が悪い
・国が悪い
・翻弄されている



ある程度書き溜まったら、それらの共通の問題を考えて見て下さい。

自分なりに答えを出してみて下さい。




チーン




はい。僕なりの今の答えですが、



『自分で行動していない。
  行動は何をしたらいいのか分からない。』

『自分がやらないことで誰かがやっていることの信用の仕方が分からない。』

更に
『こういうことが問題だと思ってしまっている。そこが問題』



だから、それへの対応としては


・自分で具体的に何をすればいいのか?を明らかにする
・できることをやる
・できる方法と出会う(探す)

・それらの不幸がもし仮に人の善意によって起きているのだとしたら、どうだろうか?私はそれに対して何ができるだろうか?と問うてみる。
  問題への対応ではなくて、次のステップを考えていく。

・自分が楽しいことをやる、幸せだと思うことをやる。楽しいことや幸せをどんどんと感じていく。感謝もする。




というような、
『自分の行動』
『前提・当たり前』
『幸福の拡大』


このあたりのキーワードに取り組むことで、治療家もディズニーランドに負けない存在になるのかなと思うのです。


治療の技術の上達も大切ですが、

・患者さんが幸せを感じる行動を見つけたり
・患者さんが苦しむような「前提や当たり前」を、楽になる楽しくなる幸せになるような「前提や当たり前」に書き換えたり
・幸福に集中して幸福を日頃から選び続けるように話を聞いてあげたり、気付いてない忘れてる様な幸せに気付かせてあげたりして感謝の気持ちを味わってもらったり


そういうことって大切なんだなって思うのですよ。

今回はこれで
前記事の続きです







ある仕事で職責についた人のところで問題が起きました。

その時に問われる「責任」は、

「あの職責につく人がこの問題を解決する為に、私は何ができるのか?」
という事であり、それは

・アイディアや視点の提供かもしれないし、
・その問題を解決する事ができる人物の紹介かもしれない。
・解決の為の具体的な行動かもしれないし、
・科学的・分析的なデータから解決の方法を明示することかもしれない。


或いは、他に問う「責任」があるとすれば、

「何故、我々はあの人が問題を起こすことのない様に、事前の問題提案と具体的な予防策・対応策・解決策について現実的な議論を重ねてこなかったのだろうか?
その為に必要なことは何であり、誰の支援であり、行動であり、情報であったのか?」

そういう問いの中に自然体な「責任」というものを感じていて、

それはとても教育的であるし、学習を前提とする生き方であるし、


7つの習慣でいう、

依存ー自立ー相互扶助

の価値観とも重なってくる様に思うのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


学んで助けられる人や状況を増やしていくこと、

それが責任ある態度だと思うし、


その人の段階や選択によっては助けられない人もいるでしょう。


それは社会に生きる人々にも同じことが言えて、


能力や経験を超えた事態に直面して困っている誰かを助けてあげられるかどうか、

年齢、経験、知識、
満たしたニーズの量と質によって変わってきて当たり前だと思う。



①社会において、与えられた仕事を懸命にやっていくというのは大切な事でもあるし、

②その為に学びを拡げたり深めていくことはもちろん大切で、

③学びや仕事の質を高める休養も外せない良いもので、


④相互扶助を実行できるかどうかは、ある意味ドライにできるかできないかは判断してよくて、できると思ったらやればいい。

⑤日常の中でこれが欲しいということを明確にするようにして、

⑥世界中の殆どのニーズを満たしていこうとすることで

⑦「責任」というものは、自分にもみんなにもあるもので、助け合える素敵なものであるという、イメージが出来るようになりました。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


ちなみに僕が「自己セキニン」の基準を持っていた時は、

人に助けてもらったり、弱音を吐いたりすることが出来ませんでした。


心身共に病んでしまい、家族や友人、会社の人や現代社会によって、助けてもらうことで、

タブーとしてきた弱音もきちんと吐けるようになってきました。

自分のセキニンの世界でコチコチに固くなっていた頭も柔らかくなってきて、

人が優しく見えてきたり、恐怖を感じることもあった会社生活にも安らぎや希望などが見える様になってきました。


お陰様で今は働きながらも、お休みを頂ける(土日など)場所で責任を経験させて頂いております。


今迄が休まなさ過ぎた(休日返上当たり前だった)といえばそうなのかも知れませんが、

それ以上に、この責任を「セキニン」と履き違えて理解していたことが、働きすぎの原因だったと感じています。

現在は体を気づかいながら(③)も、少しでも社会の皆様にお役に立てる様(⑥)に成長(②)していくこと。また、全部を自分だけでやろうとはせず(④⑥)、懸命に働きながら(①)も、頼るところは頼って(④)、ワクワク楽しく(⑤)生きていきたいと思っております。

ーーーーーーーーーーーーーーーー


と、ここまで

体がリラックスする様な、

且つ人間的で社会的で、きちんと働いていけるようなマインドセットを模索してきたわけなのですが、

今迄使っていた「責任」の言葉の重さ「セキニン」を取り除いてみました。

言葉を重く感じるってことは絶対筋肉も反射的に緊張したりしているわけです。

その反応を変えることで、言葉の意味づけを変えることで、筋肉がリラックスして(体液循環も良くなって、新陳代謝や熱産生も良くなって、、、)、体も良くなっていけばいいなと思って今迄色々と書いてきたわけです。


筋肉もリラックスしてバランスが整えば骨格の歪みも改善されますから、もしかしたらこの記事を読んでいただいた方の中には体を動かしたくなった方とか、急に喉が渇いた方、関節がポキっと音を立てた方もいるかも知れませんね。


思考を整えることで、
筋の反応も整え、
骨格の位置を整え、
液の循環を整えていく

もう3-4年位挑戦してきていたわけですけど、やっと何とか本質の様なものができました。

思考を使ったカイロプラクティックの一例をここに記せた様な気がしています。


まぁ、人間は思考だけじゃないので、色々と骨格の歪みの原因はあるわけですけどね。

今は本格的に心理学を学んだりしていますし、
食事などについても色々と実践しながら確かめています。


カイロプラクティック理論をベースにどこまで行けるのか、楽しんで参りたいと思います。
責任の定義


責任て言われると、政治家や記者が

「責任をどう取られるおつもりですか?」

そう言っているシーンを思い出す。

メディアを見ていると、相手の「セキニン」を追求する時とかに良く使われるし、

社会の中で起きた事件なんかを見てると「我々にもセキニンがあるのでは、、、」という言葉なんかも耳にする。


そう言う時の「セキニン」って、任を責めてるというか、攻めてるというか、攻撃的に見えたりするんよ。

テレビっ子だったから、責任とはそんなものかと思って、社会人になるには自己責任を取れるようじゃなきゃいけないと思って、自分をせめてせめてせめまくっていた時がずっとあった。

ほんで「セキニン」取れてる俺って偉いって思ってた。

人の「セキニン」を攻めるのは好きじゃ無かったから、自分だけをせめるようにして生きてきた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

社会人になったら、そんな「セキニン」はどこにも無くって、そっか、ただひどいもの見すぎてただけなんだなって。

日常的では無いからニュースになるんだってことを、つい最近まで気が付かずにいた。恥ずかしいよね(笑)

メディアの情報を日常にし過ぎてたよw

ーーーーーーーーーーーーーーーー


でね、「あいつが悪いんだ」って「セキニン」を問うじゃない?

あれは相手の内に「責任」があるよっていう"内在論"なんだよね。


『ある職責についている人が、処理できない問題が起きました。』

じゃあどうしようか?という建設的な話じゃなく、あんたは変だよ駄目だよおかしいよ?って俺は思うよって言ってるだけなんだよね。

言語能力なのか、処理能力なのか、判断力なのか、性格・ものの見方なのか分からないけれども、

今その人がついている職責をあんたは全うできないと思うよっていう発言者の意見に加えて、人事をコントロールしてやろうという意図があるよね。


純粋に「責任」を論じようとした時には、その野心とか政治的な意図の色眼鏡を外してやる方が分かり易くていいと思うんだけど、まぁやっていくね。

ーーーーーーーーーーーーーーーー


ちなみに攻める「セキニン」があれば、

攻められるのが嫌だからって「無セキニン」になる人はいるよね。

身を守りたいもの、当たり前だと思う。
「セキニン」は外に出したくなる。それは生理的なもので自然のものだと思う。


更に、「無セキニン」は駄目だからって事で「セキニン」を持とうとする人もいて、

僕はその口なんだけども、結果自分をせめ続けることになっちゃった。体を壊すほどにね。

僕は「反セキニン」ってところにいたのかな?

「セキニン」を軸にしてみても、色んな人がいる。面白い。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

では、「セキニン」を軸にした

セキニンー無セキニン

の世界があって、その世界に反する

反セキニン

があって、10何年もその「セキニンの価値観の世界」で生きてきてたんですけど、


ずっと違和感を感じていた「セキニン」「責任」の違いについて、ちょっとだけ気付いたことがあるのでそれを書いてみたいと思ってるんです。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「責任」って何なの?

って聞かれて、何と答えますか?


一言では言いにくいのですし、質問とズレる答えになるのですが、


「責任」というのは、「相互扶助の世界観の中に感じられるもの」だと言えると思います。



社会が成り立っていくには、誰かが何処かで仕事をしてくれなければならなくて

その何処かで行われている仕事。それは私にはできない仕事かも知れないし、やりたいと思えない様な仕事かも知れない。

そんな仕事を、直接的では無いけれども、お金の流れや社会的な背景などを通じて間接的にやってもらっているのが社会ならば、

社会の周りの人達が、その人に責(せき)をお願いして任せているという見方をしてもいいんじゃないかな?と思うのです。


責(せき)というものを、現代風に意訳してみると

責=ニーズを満たす働き

になるんじゃないかと。


お互いがお互いの為に働き、お互いが受け取り満たされていく。

感謝もし、助け合い、インスピレーションを与え合い、社会を変えていく力となっていく。


だから、「責任」というものは、ニーズを持ってその職責を任せている我々の側にあるのであって、

いわゆる「セキニン」の様に職責についている一人の人が全て背負う性質のものでは無いと思うのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
つづく