前記事の続きです
ある仕事で職責についた人のところで問題が起きました。
その時に問われる「責任」は、
「あの職責につく人がこの問題を解決する為に、私は何ができるのか?」
という事であり、それは
・アイディアや視点の提供かもしれないし、
・その問題を解決する事ができる人物の紹介かもしれない。
・解決の為の具体的な行動かもしれないし、
・科学的・分析的なデータから解決の方法を明示することかもしれない。
或いは、他に問う「責任」があるとすれば、
「何故、我々はあの人が問題を起こすことのない様に、事前の問題提案と具体的な予防策・対応策・解決策について現実的な議論を重ねてこなかったのだろうか?
その為に必要なことは何であり、誰の支援であり、行動であり、情報であったのか?」
そういう問いの中に自然体な「責任」というものを感じていて、
それはとても教育的であるし、学習を前提とする生き方であるし、
7つの習慣でいう、
依存ー自立ー相互扶助
の価値観とも重なってくる様に思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
学んで助けられる人や状況を増やしていくこと、
それが責任ある態度だと思うし、
その人の段階や選択によっては助けられない人もいるでしょう。
それは社会に生きる人々にも同じことが言えて、
能力や経験を超えた事態に直面して困っている誰かを助けてあげられるかどうか、
年齢、経験、知識、
満たしたニーズの量と質によって変わってきて当たり前だと思う。
①社会において、与えられた仕事を懸命にやっていくというのは大切な事でもあるし、
②その為に学びを拡げたり深めていくことはもちろん大切で、
③学びや仕事の質を高める休養も外せない良いもので、
④相互扶助を実行できるかどうかは、ある意味ドライにできるかできないかは判断してよくて、できると思ったらやればいい。
⑤日常の中でこれが欲しいということを明確にするようにして、
⑥世界中の殆どのニーズを満たしていこうとすることで
⑦「責任」というものは、自分にもみんなにもあるもので、助け合える素敵なものであるという、イメージが出来るようになりました。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ちなみに僕が「自己セキニン」の基準を持っていた時は、
人に助けてもらったり、弱音を吐いたりすることが出来ませんでした。
心身共に病んでしまい、家族や友人、会社の人や現代社会によって、助けてもらうことで、
タブーとしてきた弱音もきちんと吐けるようになってきました。
自分のセキニンの世界でコチコチに固くなっていた頭も柔らかくなってきて、
人が優しく見えてきたり、恐怖を感じることもあった会社生活にも安らぎや希望などが見える様になってきました。
お陰様で今は働きながらも、お休みを頂ける(土日など)場所で責任を経験させて頂いております。
今迄が休まなさ過ぎた(休日返上当たり前だった)といえばそうなのかも知れませんが、
それ以上に、この責任を「セキニン」と履き違えて理解していたことが、働きすぎの原因だったと感じています。
現在は体を気づかいながら(③)も、少しでも社会の皆様にお役に立てる様(⑥)に成長(②)していくこと。また、全部を自分だけでやろうとはせず(④⑥)、懸命に働きながら(①)も、頼るところは頼って(④)、ワクワク楽しく(⑤)生きていきたいと思っております。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
と、ここまで
体がリラックスする様な、
且つ人間的で社会的で、きちんと働いていけるようなマインドセットを模索してきたわけなのですが、
今迄使っていた「責任」の言葉の重さ「セキニン」を取り除いてみました。
言葉を重く感じるってことは絶対筋肉も反射的に緊張したりしているわけです。
その反応を変えることで、言葉の意味づけを変えることで、筋肉がリラックスして(体液循環も良くなって、新陳代謝や熱産生も良くなって、、、)、体も良くなっていけばいいなと思って今迄色々と書いてきたわけです。
筋肉もリラックスしてバランスが整えば骨格の歪みも改善されますから、もしかしたらこの記事を読んでいただいた方の中には体を動かしたくなった方とか、急に喉が渇いた方、関節がポキっと音を立てた方もいるかも知れませんね。
思考を整えることで、
筋の反応も整え、
骨格の位置を整え、
液の循環を整えていく
もう3-4年位挑戦してきていたわけですけど、やっと何とか本質の様なものができました。
思考を使ったカイロプラクティックの一例をここに記せた様な気がしています。
まぁ、人間は思考だけじゃないので、色々と骨格の歪みの原因はあるわけですけどね。
今は本格的に心理学を学んだりしていますし、
食事などについても色々と実践しながら確かめています。
カイロプラクティック理論をベースにどこまで行けるのか、楽しんで参りたいと思います。