責任の定義
責任て言われると、政治家や記者が
「責任をどう取られるおつもりですか?」
そう言っているシーンを思い出す。
メディアを見ていると、相手の「セキニン」を追求する時とかに良く使われるし、
社会の中で起きた事件なんかを見てると「我々にもセキニンがあるのでは、、、」という言葉なんかも耳にする。
そう言う時の「セキニン」って、任を責めてるというか、攻めてるというか、攻撃的に見えたりするんよ。
テレビっ子だったから、責任とはそんなものかと思って、社会人になるには自己責任を取れるようじゃなきゃいけないと思って、自分をせめてせめてせめまくっていた時がずっとあった。
ほんで「セキニン」取れてる俺って偉いって思ってた。
人の「セキニン」を攻めるのは好きじゃ無かったから、自分だけをせめるようにして生きてきた。
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社会人になったら、そんな「セキニン」はどこにも無くって、そっか、ただひどいもの見すぎてただけなんだなって。
日常的では無いからニュースになるんだってことを、つい最近まで気が付かずにいた。恥ずかしいよね(笑)
メディアの情報を日常にし過ぎてたよw
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でね、「あいつが悪いんだ」って「セキニン」を問うじゃない?
あれは相手の内に「責任」があるよっていう"内在論"なんだよね。
『ある職責についている人が、処理できない問題が起きました。』
じゃあどうしようか?という建設的な話じゃなく、あんたは変だよ駄目だよおかしいよ?って俺は思うよって言ってるだけなんだよね。
言語能力なのか、処理能力なのか、判断力なのか、性格・ものの見方なのか分からないけれども、
今その人がついている職責をあんたは全うできないと思うよっていう発言者の意見に加えて、人事をコントロールしてやろうという意図があるよね。
純粋に「責任」を論じようとした時には、その野心とか政治的な意図の色眼鏡を外してやる方が分かり易くていいと思うんだけど、まぁやっていくね。
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ちなみに攻める「セキニン」があれば、
攻められるのが嫌だからって「無セキニン」になる人はいるよね。
身を守りたいもの、当たり前だと思う。
「セキニン」は外に出したくなる。それは生理的なもので自然のものだと思う。
更に、「無セキニン」は駄目だからって事で「セキニン」を持とうとする人もいて、
僕はその口なんだけども、結果自分をせめ続けることになっちゃった。体を壊すほどにね。
僕は「反セキニン」ってところにいたのかな?
「セキニン」を軸にしてみても、色んな人がいる。面白い。
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では、「セキニン」を軸にした
セキニンー無セキニン
の世界があって、その世界に反する
反セキニン
があって、10何年もその「セキニンの価値観の世界」で生きてきてたんですけど、
ずっと違和感を感じていた「セキニン」「責任」の違いについて、ちょっとだけ気付いたことがあるのでそれを書いてみたいと思ってるんです。
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「責任」って何なの?
って聞かれて、何と答えますか?
一言では言いにくいのですし、質問とズレる答えになるのですが、
「責任」というのは、「相互扶助の世界観の中に感じられるもの」だと言えると思います。
社会が成り立っていくには、誰かが何処かで仕事をしてくれなければならなくて
その何処かで行われている仕事。それは私にはできない仕事かも知れないし、やりたいと思えない様な仕事かも知れない。
そんな仕事を、直接的では無いけれども、お金の流れや社会的な背景などを通じて間接的にやってもらっているのが社会ならば、
社会の周りの人達が、その人に責(せき)をお願いして任せているという見方をしてもいいんじゃないかな?と思うのです。
責(せき)というものを、現代風に意訳してみると
責=ニーズを満たす働き
になるんじゃないかと。
お互いがお互いの為に働き、お互いが受け取り満たされていく。
感謝もし、助け合い、インスピレーションを与え合い、社会を変えていく力となっていく。
だから、「責任」というものは、ニーズを持ってその職責を任せている我々の側にあるのであって、
いわゆる「セキニン」の様に職責についている一人の人が全て背負う性質のものでは無いと思うのです。
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つづく