がんフーフー日記 -49ページ目

闘病でいちばんショックだった瞬間

ダンナです。




今回は、ふりかえってみるの巻。



昨年9月、ヨメががんであるというニュースを聞いたとき、

それはもちろんショックだった。


それまで私の人生にもヨメの人生にも

「がん」というお友達はいなかった。

ヨメの「私、がんだったわい」という言葉は、

「私、さっきUFOにさらわれてロボトミー手術受けてきたわい」という言葉と

同義であり、我が家に横からダンプカー的に突っ込んできた災難だった。



そのときの心の動きを思い出してみると、

「アタマ真っ白」 → 「強い不安」 → 「必死の情報収集」

 → 「気持ちひと段落」 → 「現実対応への準備完了」 →

「なんとかなるだろう!という根拠なきポジティブシンキング」 ということになる。



もちろん、がんはショックだった。

そもそも「がんって何よ!?」っていう、チンプンカンプンな状態である。

そこには未知なるものへの不安、という要素も強くあった。


私はそれをがんにまつわる本や、いろんな方々の闘病記を読むことで

なんとか現実的に捉えようとした。

そして「ステージ3の生存率は60%程度」(注:本当はヨメは発見時、

リンパの遠隔転移でステージはすでに4だった)という記述を読んだとき、

「絶対これはいける!」と確信した。



60%なら、なんとかいけるだろう。

これから最先端の治療も受けられるし。

ぺ~も無事産まれ、彼を抱くことでヨメの母性も目覚め、

生きることへの執念が必ずその身体に湧きあがってくるはず。

そんなアドバンテージもこっちにはあるのだから!



いま考えれば、それは治療前ゆえの無邪気さだったのかもしれない。

未体験のものは、必要以上に怖れることもできるし、

逆に必要以上に軽んじてしまうこともできる。


私はそこからはガンガンに「完治させる方向」で突き進み、

「やっぱ、大腸がんは食べ物からだよな」とヨメに食事療法を

執拗に進めてみたりもした。



でも、私にとって本当のショックは

その「ヨメががんだと知らされたとき」ではなかった。




帝王切開の回復を待って化学治療、放射線治療を始めたヨメは

その後、腸閉塞を併発して、しばらくがん治療をストップした。

ストーマを作って腸を安定させ、再び治療に入ろうということになった。


そのとき、会社で私の携帯が鳴った。

病院からの直電は、本当に心臓が止まる思いがする。


ひとりで病院に来てくれということだった。

そこで、肺への転移とお腹の脂肪に播種があることを知らされた。

別々のルートで、すでに2ヶ所に飛んでいる、ということだった。



10ヶ月に及んだヨメの闘病生活だったが、

私が一番ショックを受けたのは、この瞬間だ。



がんだとわかったときではない。

がんだとわかって、でもがんばろうと話し合って、気持ちを立て直して、

苦しい治療を受けてきたのに、でも病態は治まるどころか進行している、

それも急速なスピードで進行している……

それを知ったときである。



「あ、これはもう助からないわ……」

直感的に思った私の心は、そこで簡単にへし折られてしまった。

ふんばりは利かなかった。

現実は圧倒的すぎた。



以後、私はヨメに対して「治す」ということから

ホスピス的アプローチにはっきり変わったように思う。

残り時間で何ができるか。人生でのやり残しがないように。


おそらくヨメは相当不審に思っていただろう。

だって、あれだけ食べ物に関して口うるさく言っていたダンナが、

急に「なんかやりたいことないかー」「行きたいとこないかー」とか

言い出したのだから。


もっとうまく切り替えたかったが、そこはスマンとしか言い様がない。





それ以降は、ご存知のように怒涛の日々である。

体調の急変、病院の移動、ぺ~の暴飲暴食など、

なんとかリアクションをとるのに精一杯の毎日である。


ただ、ブログに書いてきたそういうデキゴトの裏では、

ずっと、転移情報のコントロール(口裏あわせとか)、

ご両親への通達(ひときわ辛い時間だった)、告知どうする論議など、

たくさんの水面下の動きがあった。


数日間は、私ひとりが転移のことを知っているという状態で

その期間はなかなかギリギリの気分ではあった。





がんという病気にぶつかったときの、

心の動き方、そのひとつの症例として

参考にしていただければ幸いである。