麻雀プロ弁護士津田岳宏のブログ -3ページ目

麻雀プロ弁護士津田岳宏のブログ

麻雀の話とか法律の話とか

昨日の続き。
賭博場開張図利罪についても,ちゃんと理解している人は少ない。



こんなケース。




AとBが将棋をして,負けた方が勝った方に1万円をやるという約束をした。Aが勝ってBから1万円をもらった。

このケースなら,勝負をしているAとBに相互的得失の関係が成立するので,賭博罪が成立する。

では,1万円を賭けた勝負をするから使用料500円で場所と道具を貸してくれと頼まれて貸した将棋クラブ店主Cの罪責はどうなるか?




この場合,Cに賭博場開張図利罪は成立しない。
Cは罪を問われるとしても,賭博罪のほう助にとどまる。

判例上,単に賭博の道具や場所を貸しただけでは,賭博場開張図利罪は成立しない。


同罪の成立には,それを超えて「賭博を主宰した」といえる事実が必要である。
そのためには,当該賭博を管理支配したと認められるだけの事実がいる。


上記のCは,単に場所を貸しただけで,AとBの勝負を管理支配したとは言えないので,賭博場開張図利罪は成立しない。


同じ理由で,いわゆるセット雀荘に同罪が成立することもない。


客が賭け麻雀をしているのを知っていてそれを黙認していたとしても,せいぜい賭博罪のほう助が成立するくらいで,賭博場開張図利罪の心配はない。


つい先日,違法パチスロ店が検挙されたとき,容疑の罪は賭博場開張図利罪ではなく常習賭博罪だった。


いわゆるゲーム喫茶とか違法パチスロ店が検挙されるときは,常習賭博でされることが多い。
これについてネット上で「なぜ賭博場開張図利じゃないの?」とコメントがされているのを見かけることがあるが,これは,ゲーム店型賭博場の場合,「主宰性」の立証が若干面倒だからである。

ゲーム店型賭博場の被疑者は,「私は客に機械を貸していただけだから主宰性がない」という主張,つまり上記Cの立場と同じ立場であるという主張をして否認することが可能なのだ(まあ賭博罪に詳しい弁護士が付かない限りこんな否認はしないであろうが)。


この否認はおそらく裁判所では通らないであろうが,少なくとも,当該被疑者の主宰性を検察側が詳細に立証する必要は生じる。


これはなかなか面倒であるし,常習賭博罪で挙げたところで最終的な量刑は変わらないので,立証が容易な常習賭博罪で検挙されるのである。
ゲーム店型賭博の場合,客の勝ち負けがそのまま店の勝ち負けになるので,店に常習賭博罪が成立するのは明白である。


フリー雀荘の場合は,勝負の結果に関わらず一定のゲーム代を徴収するので,店が客と賭けているとはいえない。


よって,ゲーム喫茶とは異なり,店を常習賭博で挙げることはできない。


そこで,フリー雀荘が検挙されるときは,賭博場開張図利罪で挙げられる。


実はこのとき,主宰性がないという主張が通れば,店は無罪になるのである。

しかし現実には,この主張は難しい。


裁判所は


①レートを店が決めている
②レートごとにゲーム代が異なる


③レートとルールを店が客に説明している


④店が預かり金を徴収している


⑤店がトップ賞を徴収している

などを根拠に,フリー雀荘が賭け麻雀を管理支配していて主宰的地位にあると認定する。

逆に言うと,上記の点が弱くなっていけば,主宰性があると言われ難くなるということだ。


たとえば,④を強制でなく任意にする,⑤をやめるなどすれば,主宰性は弱まる。
②を同一にするのはなかなか難しいかもしれないが,もし実現すれば,主宰性は弱まる。
③については,少なくとも備え付けのルール表にレートを書くのは絶対にやめるべきだ。

もちろん,僕の提案は,経営上はなかなか困難であることは十分承知している。


しかし経営者としては,賭博場開張図利罪の成立に「主宰性」が要件であることを知り,その上で,「客が勝手に賭けているだけで,私たちは場所を貸しているだけです。管理支配はしていません」と主張できるような建前をできるだけつくっていこうという姿勢を示すことは大事だ。

賭博罪は風紀に対する罪。


これにかかわる商売をする者は,なるべく風紀を乱さないでおこう,とする姿勢がなにより肝要なのだ。











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「賭博」という言葉の意味が分からない人はいない。
しかし,刑法上の賭博罪の要件を正確に理解している人は非常に少ない。



たとえば,こんな問題。

「Aが,BとCに相撲を取らせて勝った方に1万円をやると約束した。相撲をしてBが勝ったので,AはBに1万円を支払った。A・B・Cの罪責を述べよ」

これは賭博罪を題材にした昔の司法試験の問題であるが,いわゆる引っかけ問題のひとつである。


正解は,3人とも何らの罪責に問われない。

勝負があってお金が動けば,全て賭博罪になるわけではない。


参加者各自に失うリスクと得られる期待」があって,はじめて賭博罪が成立する。


また,このリスクと期待は相互的な関係であることが必要である。


これが,相互的得失の要件である。

上記の問題だと,BとCは,1万円を得られる期待はあるが,お金を失うリスクはない。
一方Aには,財産的な利益が得られる可能性はない。Aからすれば,勝負をさせて楽しんでいるのかもしれないが,それは財産的な利益ではない。


よって3者間に相互的得失の関係がなく,賭博罪は成立しない。

ゴルフコンペでたまに検挙がされるのは,参加者全員が金を出し合ってそれを賞金にあてる,というケースである。


これがたとえば,上位者には社長から賞金が出る,というスキームならば賭博罪には該当しない。


さらに,上記の問題にこういう条件が加えられればどうなるか。


「AはBとCに相撲を取らせて勝った方に1万円をやると約束し,知人達に観戦料500円で観戦しないかと声をかけた」

この場合,Aからすると,観戦者が20人を超えれば利益が出るので,Aに財産的な利益を得られる期待が成立する。
またAの立場は,観戦者が20人以下なら赤字である。


利益が出るか赤字になるかは,やってみないとわからない。Aのしていることには,ギャンブル的要素がある。


しかし,Aには賭博罪は成立しない。
Aに成立している期待とリスクは,相撲という勝負(及びBとC)と相互的得失の関係にないからである。
ちなみに上記の問題は,スポーツイベント等のビジネスモデルを単純化したものだ。


冒頭の問題は,引っかかった受験者も相当数いたようだ。
相互的得失の要件は,案外見落としがちで難しい。

勝負事があってお金が動けば,必ず賭博罪が成立するわけではない。


ギャンブル的要素があるものの全てに賭博罪が成立するわけでもない。
さらに日本では,賭博罪が成立しても,ほとんどの場合,検挙されないww

ギャンブルは単純な遊びなのだが,賭博罪は難儀なシロモノなのである。





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事務所の顧問である警察OBに僕がよく聞くのは,賭博罪の捜査技術についてである。賭博罪を専門とする弁護士としては,取り締まる側の当局の考え方を知ることは必須事項だ。



捜査技術というものが内部的な側面が強いからなのかもしれないが,賭博捜査について詳述している本はほとんどない。


そんな中,「賭博事犯の捜査実務」という本は貴重な1冊だ。


今ではアマゾンでも手に入らないくらい古い本ではあるが,現役の検察官2人が賭博捜査について詳細に解説している。

この本は,賭博捜査の専門知識が細かく記してあって非常に勉強になるのだが,着目すべきは,著者の検察官が,賭博罪の違法性が「程度問題」であることをはっきり認めている点である。


たとえば,序文からこんな記述がある。


賭博は人間本能に根ざしているものである
「賭ける」こと自体を悪徳と断じ切れるものではない


なにゆえにその禁止は絶対的,一義的なものではなく,弾力的,相対的なものを含んでいるかを十分に理解しておくことは,賭博犯捜査に従事するうえで,基礎的な教養であるといえよう


賭博は絶対的な悪ではなく,賭博の禁止が「弾力的」「相対的」であることを理解するのが,賭博捜査をする者にとって基礎的な教養だ,と言っているのである。
ひらたく言えば,賭博だからといって何でも取り締まるのはダメだ,と言っているのである。

ページを進めると,こんな記述もある。


判例はかなり厳しい態度を示しており,金銭は,その額にかかわわらず「一時の娯楽に供するもの」にあたらないとしているが,これを文字どおり解釈し,現金の授受があったらなんの問題もなく犯罪が成立すると速断することのないように留意しなかればならない


現役検察官が記したこの本で口すっぱく書かれているのは,賭博については,むやみに検挙してはならないということである。


その理由については,むやみな検挙は国民からの反発を招くからだと書かれている。


たとえばこの本では,小規模賭博の検挙は現行犯検挙にとどまるべきだと書かれており,非現行の賭博犯の捜査をすべきでない理由としてこう書かれている。


過去の些細な事件で,根堀り,葉堀り調べつくすことにより,市民に,警察の市民生活に対する不当な干渉という印象を与え,民心の離反を招来する幣も考えねばならない


さらに,麻雀賭博については,よりはっきりとこう書かれている。


麻雀賭博は,いわゆる素人である一般サラリーマン,学生,さらに最近は主婦などの間にも広まっている(中略)あまりにも些細,軽微な事案まで検挙しようと試みることは,市民から無用の反発を買う結果となる


ささいな賭け麻雀を検挙すると,国民からの反感を買うのでダメだ,とはっきり書かれていることは注目に値する。


以上から考えたとき,麻雀店など賭博罪との関係を考慮すべき立場の営業者すれば,風紀を乱さないための配慮を徹底し,「ここを検挙すれば,逆に市民から反発を買うな」と当局に思わせるような体制・スキームをつくればよいということになる。



しかしそれはさておき,「程度問題」であり,「弾力的」「相対的」であることを検察官自身が認めるような刑罰規定の存在は,本来,明確性の原則からすれば許されない。


もうこのブログでも何度も書いているので,飽きられるかもしれないが,新年初の更新なので一応書いておこう。

現行賭博罪は,すみやかに改廃すべきである。



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開催中の臨時国会で,いよいよカジノ法案が提出される見込みだという。


まあ,これについては毎年のように「いよいよ今年・・」と言われていることなのではあるが,今年に関しては,五輪開催が決定したことがかなりの追い風になっているようだ。


大きな歴史的出来事が,カジノ解禁につながることがある。
1931年にネヴァダ州(ラスベガス)でカジノが解禁されたときには,1929年からの世界大恐慌による大不況がひとつの要因となった。
五輪開催でたくさんの外国人が日本に来るとき,そこにカジノがあれば大きな経済効果が生まれるのは明白だ。
とすれば,たしかに今年は本当に法案が提出されるかもしれないと私も思っている。

この先,カジノの是非が本格的に議論になるのであれば,冷静な議論がなされることを切に希望する。
先日私は,弁護士ドットコムというサイトにカジノについて記事を書いた。
そこで「ギャンブルへの偏見が合法化への一番のハードル」と書いたら,「それを偏見というのが,偏見だ」というコメントが付いた。
なるほどそういう見方もあるのかと思わされ,「偏見」という言葉を用いた点は,ちょっと反省した。
いずれにせよ,「偏見だ」「偏見ではない」という議論は,全く不毛である。
カジノについては,感情的な不毛な議論ではなく,メリットデメリットを冷静に考慮した議論をしないといけない。



カジノのデメリットについて,「カジノで犯罪が増える」という意見は,過去の調査によれば間違っている。






1996年,アメリカで,約5億円を投じて,「国内ゲーミングの影響調査委員会」がつくられた。同委員会のメンバーは,
カジノ反対派と賛成派をバランスよく含むことを条件として決定され,議長はカジノ反対派であった。


同委員会は,中立的な立場から調査した上で報告書を作成したが,そこでの結論は「カジノを原因とする犯罪は増えていない」だった。




ちなみに,「ギャンブル愛好者は犯罪に走りやすい」というのも言われがちであるが,これも誤解だ。


1949年,イギリスで,ギャンブルのあらゆる側面を調査・検証する目的で,第2次王室委員会が組織され,約2年間緻密な調査をして膨大な資料を集め,報告書を作成した。


そこに,ウエークフィールド刑務所という刑務所のデータが添付されている。


これによると,受刑者の犯行原因のうち,1位は家庭不和で24%,2位はアルコール中毒で13%,賭博が決定的な犯行原因となっているケースはわずか2%であった。しかも,その2%の受刑者の中に,殺人や傷害致死などの重罪を犯した人はゼロだった。


これらのデータを踏まえ,報告書は,「ギャンブルを重大犯罪の直接原因と考えるのは無意味である。ギャンブルを詐欺行為等の小犯罪の直接原因であると考えるのも現在では全く重要性がない。」と結論付けた。

上記のアメリカやイギリスの調査以上に大規模・緻密・中立的な調査がされてカジノと犯罪の因果関係が立証されない限り,「カジノで犯罪が増える」という意見には,何らの説得性はない。





未成年への悪影響やマネーロンダリング対策は,上記記事でも書いたとおり,法規制により対処すればよい。


現在の風営法では,パチンコ店が高校生を入店させても「高校生に見えなかった」と言い訳すれば許される,という緩い規制がされている。


未成年の入場には厳罰を科し,厳格な規制をすべきである。






カジノの唯一最大のデメリットといえるのが,ギャンブル依存症者の増加である。


上記「国内ゲーミングの影響調査委員会」の報告によれば,カジノ愛好者のうち1~2%がギャンブル依存症になるのだという。


これは私見だが,競馬やパチンコが市民権を得ている日本では,依存症になるような人は既になっていると考えられ,カジノによって新たに依存症になる人が劇的に増えるとは思えない。


ただ,そうなる人が一定数出ることはたしかであろうし,この点への対策は必須である。


カジノ収益の一部は,依存症対策に用いられるようにすべきである。

ちなみに上記報告では,カジノ側に対し,依存症対策として


 病的ギャンブラーを認識・監視し,あまり賭けないようカジノが指導すること


 ATMの数を減らし,クレジットラインを引き下げること


 相談用のホットラインを見やすい場所に提示すること


などが求められている。参考にすべきであろう。

また,個人的にはあまり賛成ではないが,日本人の入場に対する強い規制,たとえば「30歳以上」「一定の所得以上」の入場のみを許すという案もあろう。


「配偶者からの要請があれば入場できないようにさせる」というシステムの採用もあり得る。


一方,メリットについて,大きな経済効果があることは明白だ。


20世紀以降にスタートした街で100万人都市になった例は,世界中でただ1か所,ラスベガスのみである。


現在,ラスベガスの人口は180万を超える。


カジノは,何もなかった砂漠を100年足らずで巨大都市にするだけのパワーを持つ強烈なコンテンツである。


最近も,マカオやシンガポールで,カジノは劇的な経済効果をあげている。




一般の人は,カジノというと,ラスベガスやマカオにしかないと思っている人もけっこういるようだが,現在,カジノは世界120か国以上に存在している。


イギリスはもちろん,フランスにもドイツにも,イタリアにもロシアにも,カジノはある。




前回2010年のサッカーワールドカップ,日本は,グループリーグでオランダ・デンマーク・カメルーンと対戦し,決勝トーナメント1回戦でパラグアイと対戦した。


日本が戦ったこの4か国も,全て,カジノを持っている国である。


カメルーンにもパラグアイにも,カジノがある。

そして,これらの多数の国で,国に最初につくられたカジノが失敗した例はない。


「カジノをつくっても成功するかどうか分からない」という意見には,全く説得力がない。


結局のところ,カジノについては,大きな経済効果というメリットと一定のギャンブル依存症者を生むというデメリットがあることが明白で,議論はここに尽きる。
感情的で不毛な議論を排し,確実な論点に絞った身のある議論をした上で政策決定すべきである。



現代人が過去の歴史を見て,「昔の人はバカなことをしていたんだなあ」と優越感をおぼえることがある。


しかし,同じように,300年後の人が歴史を見れば,現代人がしていることを「何てバカなことを」と思うことはたくさんあるはずだ。


たとえば,「○○お願いします。どうか○○お願いします!」とひたすら名前を連呼する選挙カー,あんなのは,未来人にバカにされる最たるものだろう。

民主主義の歴史は浅く,まだまだ発展途上である。
カジノに絡み,とかく「臭いものにフタ」という扱いをしてきたギャンブルに対し正面から向き合って,冷静に国民的な議論することは,いまだ不十分な民主主義の階段をひとつ上がることにもつながるのではないか。




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雀荘でアルバイトしていたとき、毎日のように来るお客さんがいた。そのくせ「もう麻雀はあまり面白いとは思わない」なんて言っていた。
じゃあ何で毎日来てんだよwと不思議だったが、こういうのは科学的に説明できるようだ。


「快感回路」(河出書房新社)という本を読んだ。
アメリカの神経学者が、人が快感を覚えたり依存症に至るプロセスを脳科学の側面から書いた本である。非常に興味深かった。今日の記事は本書をもとにすすめる。


人が何かに快感を覚えるとき、脳内の小さな一領域である内側前脳快感回路(以下「快感回路」)と呼ばれる部分が、刺激されて興奮する。
薬物やギャンブルであれ、セックスや高カロリー食であれ、あるいは慈善的な寄付行為であれ、人が快感を覚えるときには、例外なく快感回路が興奮している。
ヤクでキマっている人と、ボランティア活動で喜びを感じている人とで、脳内で起きている現象は同じなのだという。

社会動物である人間は、社会的評価を受けると快感回路が強く刺激される。
とくに、快感回路内の「側坐核」「背側線状体」と呼ばれる部分が活性化し、それは、金銭的報酬で活性化する部分と同じらしい。
金持ちが政治家になりたがるのは、科学的に説明できるようだw



本書では、薬・食べ物・セックス・ギャンブルにそれぞれ1章が割かれ、依存症について詳細に解説されている。
依存症者は、快感を感じ取る快感回路に異常が生じている。
それは具体的に言うと”鈍く”なっているいうことである。
普通の人と同じ量では、快感がない。必然、より多くの量を求めるようになる。するとますます”鈍く”なる。さらに量を求める。
この悪循環が依存症を進行させていく。
薬物依存症者は、他の人よりも薬物を欲しがるけれども、他の人ほど薬物が好きではないように見えるものらしい。

「麻雀はあまり面白くない」と言いながら毎日来ていたあの人は、もしかしたら依存症の初期症状だったのかもしれない。
依存症予防の観点からは、昔ほど面白くないけど何となく・・となった時点で、その”楽しみ”から少し距離を置いた方がいいようだ。


依存症が進行していくときの快感回路の変化は、経験や学習によって記憶が貯蔵されていくときの神経回路の変化と同じである。
皮肉なことに、人は、経験によって学ぶ能力があるからこそ依存症にもなり得ると言えるらしい。


本書は、ギャンブル依存症についても詳細に記載されている。
ギャンブルの快感は、惜しい負け(ニアミス体験)によって増幅されていくのだという。惜しいリーチが空振りするほど続けたくなるのだと。
うーん、これは実感として納得できるw
また、ギャンブラーがもっとも快感を覚えるのは、結果が出るまでの待ち時間なのだという。スロットやルーレットが回っている時間や馬が最後の直線に入ったときに、快感回路がもっとも刺激される。



ギャンブルには快感が伴うが、当然ながら、全てのギャンブラーが依存症になるわけではない。誰もが食事をし、セックスをし、多くの人は酒を飲むが、ほとんどの人は依存症になららない。同様に、たいていの人はときおりギャンブルを楽しむだけで、病的にのめり込んだりしない。



しかし、少数のギャンブラーが依存症になるのは事実である。
ギャンブル依存症の特徴は、女性より男性がはるかに多いこと、遺伝することが多いこと。
そして意外なことに、ギャンブル依存症者にはビジネスの世界で大きな成功をおさめる精力的な人物も多いこと。
タネ銭があるからこそ依存症になるということか。なるほどそういやどこぞの紙屋のボンボンもw


著者であるリンデン教授は言う。
依存症は脳の病気である。
これには、依存症の発症は患者の責任ではないという考え方を伴う。
しかし、依存症からの回復は患者の責任である。
患者には、発症はさておき、回復への責任や、回復に伴うもろもろの問題への責任がある。
病気なのだから責任はなく何もしなくていいというわけでは決してない。


私は、ギャンブルについては、患者にはもちろん、利益を上げている胴元にも、依存症の予防・回復への責任があると思う。
ギャンブル産業は、大きな利益が上がる。
しかしその反面、ギャンブル依存症を生むことになる。リンデンも指摘するように、合法的ギャンブルが増えるほどギャンブル依存症者は増える。
とすれば、依存症への対策は、胴元の必須事項である。

海外のカジノでは、依存症と思われる客への入店を禁止するなどして、依存症対策をしている。
日本では、パチンコ店が実質的に庶民のカジノになっているが、そういう対策は一切していない。
これも、「パチンコは賭博ではない」というグレーな扱いゆえの問題であろう。
「賭博ではない」のだから、ギャンブル依存症への対策はしない。できない。対策をしたら、パチンコが賭博だと公認したことになるではないか。そういうことなのだろう。
それならば、パチンコの換金も合法化して、その変わりに依存症対策を法で義務付けした方がよほどいい。
また、麻雀店も、フリー雀荘を合法化したいのであれば、合法化のあかつきには依存症対策も完璧にする、と言っていかねばならない。

今の日本の法律は、ギャンブルを建前では違法とする一方で黙認されるグレーゾーンも広く、くさいものにはフタをするような扱いで、ギャンブル依存症への対策も全く不十分である。
それならば、合法領域を増やし、その変わりに依存症への対策も強化徹底したした方が、依存症者は減るはずだ。
依存症者のためにも、グレーは撤廃し完全合法化した方がいい。






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全国麻雀業組合総連合会(通称 全雀連)という組織がある。要するに麻雀店の組合である。



そこの理事長を平成23年まで14年間にわたって務め、現在は会長である木下裕章氏の著作「麻雀屋からマージャン倶楽部へ」を読んだ。



ちなみに、氏は日本麻雀政治連盟の副会長も務めていて、私が政治連盟のシンポジウムに招かれたきには大変親切にしていただき、卓を囲ませてもらったこともある。
そのときは、木下氏と私のほか、政治連盟会長・今の全雀連理事長・小島武夫プロの5人で2抜けで麻雀したのであるが、小島プロがえんえんと濃いウイスキーを飲みながら打つのに度肝を抜かれた。
それでも結果は小島プロの1人勝ちだったのでさすがである。
小島プロというと華のある大物手が代名詞だが、実際打ってみると、守備が非常に巧みである。大きい手に打ち込まないように細心の注意を払って局を進め、チャンス手をしっかりモノにしてトップを取る、という麻雀だった。



木下氏は、一貫して麻雀のイメージアップに取り組んできた人である。
上記著作によれば、氏がはじめて全雀連の理事会に出席した昭和55年ころには、理事会の中にパンチパーマの人、サングラスの人、小指に大きな金の指輪をしている人などがいて、世間で雀荘は「麻雀屋」と呼ばれていて、若い女性が店の前を通るときに避けて通るほどいかがしい場所だと思われていたのだという。



氏は、いかがわしい「麻雀屋」を紳士の社交場である「マージャン倶楽部」へ変えるべく、平成6年に全雀連理事長に就任した後、様々な活動をした。
理事長就任直後の所信表明演説では、「月1回の理事会には必ずネクタイを締めてきてください。麻雀のイメージを麻雀店の店主から変えていきたい。万一ネクタイを締めるのを忘れた人は、その日の理事会を欠席してください」と言ったそうだ。


氏が14年間の理事長としての活動を振り返ったときの主な成果は、
①大学対抗麻雀選手権大会の主催を毎日新聞にしてもらえるようにした


②第1回世界麻雀選手権大会を10か国、120人の選手を集めて開催した


③厚労省へのアピールがみのり、ねんりんピックに麻雀が正式種目として参加できた


④麻雀店でクレジットカードを利用できるようにした


⑤インターネットで組合員の店を紹介できるようになった
などである。


私は麻雀のイメージが悪いと常日頃から嘆息しているが、氏の著作を読むと、数十年前の麻雀のイメージが今よりもはるかに悪く、それが現在はかなり改善されたということもよく理解できた。
今は少なくとも、街の雀荘を若い女性が避けて通るような光景は見られない。


それどころか、雀荘の客や従業員に、若い女性がどんどん増えてきている。
イメージアップに向けた業界の努力が状況を少しずつ改善させていることは事実であり、それが大きな花を咲かせる日も近いのかもしれない。


ただ、昭和55年ころは若い女性が街の雀荘を避けて通っていたのであり、そのときに若かった世代(現在の年配世代)は、今でも麻雀店には悪いイメージを持っている人が多いだろう。


人がいったん持ったイメージは、なかなか覆らない。


麻雀への法規制を変えるには政治が動かねばらならないが、今の日本の政治を動かしているのは、年配の世代である。若い世代は、数も少なく、投票率も低く、影響力も低い。
年配の世代が持っている麻雀のイメージをどう覆していくかが大きな課題だと個人的に思う。
木下氏も著作の最後に、麻雀界はまだまだ遅れている所があって、次の指導者が引き続き改革していかないといけないと書いていた。
イメージが劇的に変わる日、その日が待ち遠しい。



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裁判は、一定のルールのもとで勝敗を決めるものであり、その点では、囲碁、将棋、麻雀などと類似する頭脳ゲームの側面がある。

実際、法曹界には囲碁将棋や麻雀を趣味とする人も多い。
少額賭け麻雀がいかに健全か、ということを主張したある裁判で、弁論終結の直後、裁判官から笑顔で「先生も麻雀がお好きなんですか?」と聞かれてびっくりしたことがある。きっとあの裁判官も麻雀ファンのはず、と私は勝手に思っている。


将棋や麻雀と同じく、裁判も、勝つためにはそのルールに精通することが大事である。

私人同士が争う民事裁判でいちばん重要なルールは、「立証責任」である。
これを知らずに裁判することは、役を覚えずに麻雀することに等しい。それくらい大事なルールである。

「立証責任」とは、「ある事実の存在を主張する人が、それを証明する証拠を出して立証しないといけない」というルールである。

たとえば、A氏がB氏に金を貸したが、契約書はつくらなかった。金は手渡ししたので、銀行の振込記録も残っていない。貸したという事実を示す証拠はいっさいない。
こういう
ケースで、A氏が「貸した」と主張し、B氏が「借りていない」と主張したとき、真実は貸したという事実があったとしても、裁判では「貸した事実はなかった」という認定がされる。

「立証責任」のもと、「貸した」という事実の存在を主張するA氏が契約書などで立証しないといけない。
しかしA氏にはそれができないので、たとえ「貸した」という事実が真実でも、裁判では「貸した事実は存在しない」という認定がされて、A氏の負けとなる。
証拠がない事実は、裁判所では認められないのだ。


何だか理不尽だと思う人もいるかもしれないが、これは仕方のないことである。
なぜなら、
A氏とB氏と違うことを言っているとき、第三者の裁判官はどちらが正しいことを言っているのかは分からない。
このとき、「立証責任」のルールがなければ、
A氏とB氏で演技力が優れている方が勝つ、あるいは、A氏が大企業役員でB氏がフリーターなら「大企業役員のA氏の方がきちんとしたイメージがある」という理由でB氏が負ける、ということになりかねない。
これは、不公平で不合理である。

こういう不公平を避けられるので、「立証責任」が採用されている。
「証拠があれば認められる。なければ認められない」というのは万人に共通なので、「立証責任」は、ある意味で公平なルールなのである。

証拠がない事実は、裁判所では認めらない。
それが真実であっても、証拠がなければ裁判では負けてしまう。


大きなお金がからむような話は、絶対に証拠をつくっておく。つくった証拠はきちんと保存しておく。
こうしておかないと、「立証責任」のもと思わぬ大損をするかもしれないので、ご注意を。

なお、今日の話のように、一般の人が知っておいておけば助かると思われる法律の話をまとめたのが、拙著「弁護士には聞きにくい 知って助かる!法律相談(青春出版社)」である。
興味ある方は、ご購入ください。
最後は宣伝になってしまって失礼しました('~`;)









































「麻雀人口はかなりの数にのぼり、しかもそのほとんどが賭麻雀であることは公知の事実である。賭博行為の処罰根拠に照らしても、金銭を賭けた場合、理論上であるにせよ、一律に賭博罪の成立を肯定することは余りにも現実と遊離した思考といえよう」
(岡野光雄著「刑法要説各論」から)

「少額の賭麻雀等の構成要件該当性は否定されるべきである」
(前田光雄著「刑法各論講義」から)



賭博罪で検挙された麻雀店の弁護を私が担当したとき、私は無罪の主張をした。

その店のレートは、テンゴ(1000点50円)とピン(1000点100円)であった。

刑法185条ただし書は、「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるとき」は賭博罪にあたらない、としている。

テンゴやピンの麻雀で賭けられるお金は、まさに「一時の娯楽」という表現がぴったり当てはまる。

裁判でも、「一時の娯楽」に該当するので無罪である、と主張した。


しかし、裁判所は、私の主張をしりぞけた。


裁判所は、ピンはおろかテンゴについても、「一時の娯楽」にはあたらないと判断した。


この判断は、従前の判例を踏襲したものである。
「金銭は『一時の娯楽』にあたらない」とした大正時代の判例以降、裁判所はずっとこの見解を採っている。
この見解のもとでは、ピンだろうとテンゴだろうと賭博罪が成立してしまう。


これについては、刑法学者からの批判も強い。
冒頭で紹介したものの他にも、多数の刑法学者が、「少ない金銭を賭けた場合にまで賭博罪が成立するのはおかしい」という趣旨の記載を著書にしている。
そういう刑法学者計13名の記載を私は全て集め、裁判所に証拠提出した。冒頭のものも、もちろん提出した。

しかしそれでも、判例は変わらなかった。



裁判では、「競馬やパチンコが隆盛している中で、少額の賭麻雀を処罰するのはおかしい」との主張もした。



現在、競馬は盛んに宣伝されているが、誰も文句は言わない。
AKBを使って若者をターゲットにした宣伝をしても、「若者を賭博に勧誘してけしからん」と言う人は誰もいない。

パチンコは、これが「三店方式」で賭博にあたらないとしても、実質的には賭博と同じ機能を持つ。
しかもそこで動くお金は、ピンの麻雀の5倍、テンゴの麻雀の10倍程度である。
パチンコでは10万円の勝ち負けが日常茶飯事だが、ピンやテンゴの麻雀で10万円の勝ち負けはあり得ない。
しかし、パチンコを取り締まろうという動きはない。

競馬やパチンコが隆盛しても、誰も文句を言わない。
現代は、賭博に対して寛容な社会となったのである。
そのような中で、ピンやテンゴの麻雀を処罰して刑罰を与えるのは、一般社会通念に合致しないし、あまりにも不公平である。


こういう主張を強くしたのだが、認められなかった。


裁判所は、競馬について、
「関係法令の規制下にある公営賭博とそれ以外の賭博は一線を画している」
と判断した。

パチンコについては、何も根拠を示さず、
「パチンコに関する主張についても、それが本件行為の違法性に影響を与えるとはいえず」
と判断した。
パチンコがどうかと麻雀がどうかとは無関係である、という趣旨なのだろうが、その根拠を示してくれなかったのは残念である。


私としては全力を注いだのであるが、結論として無罪は勝ち取れず、みずからの力不足を痛感した。


ただ、言い訳になってしまうことを承知で書くと、裁判所は、従来の判例を覆す画期的な判断は、めったにしない。
それは、三権分立からの配慮である。

従来の判例を覆すというのは、ルールを変える、ということである。
ただ、国のルールを決める権限は選挙で選ばれた政治家が持つというのが、民主主義の大原則である。

裁判官は選挙で選ばれたわけではないので、ルールを勝手に変えてはいけない、と気を使う。
なので、ルールを変えるような画期的な判断をすることはめったにない。

仮に、判例を覆して、「ピンまでは合法」という判決を出したら、それは、裁判所が「ピンまでは合法」という新しいルールをつくった、ということになってしまう。


だから、なかなかそういう判断をしてくれない。


やはり、本気でルールを変えようと思ったら、政治に働きかけないといけないのである。



おととい、麻雀の業界誌「麻雀新聞」の取材を受けた。



雀荘が賭博罪で検挙された事件の弁護を私が担当したので、その件の取材だ。


日本人に親しまれている3つのギャンブルと言えば、競馬・パチンコ・麻雀であるが、法律的な扱いは各々異なる。


競馬は、競馬法のもと、合法賭博である。



パチンコは合法賭博ではないが、「3店方式をとっているので、賭博にあたらない」と解釈されており、検挙されることはない。


一番割りを食っているのは麻雀だ。


賭け麻雀が世間一般にされていることは周知の事実であるが、検挙されることはほぼ皆無である。


しかし、いわゆる「フリー雀荘」は、ごくまれに検挙される。



①店が暴力団とつながっている場合
②賭け額が大きい場合
などに検挙されることがあるのだが、今回は、暴力団とのつながりが全くなく、レートもテンゴ(1000点50円)とピン(1000点100円)という健全な店が検挙されたので、業界に大きな衝撃を与えた。


なお、雀荘などで「ピンまでは捕まらない」などと豪語している人がたまにいるが、これは間違っている。
警察がその気になれば、ピンはおろかテンゴであっても、賭博罪で逮捕されてしまう。


今回の事件については、おそらく、派手に宣伝していたので検挙されたのであろう。


賭博罪は風紀に対する罪なので、「公然性」が強くなると、違法性が強まる。

ドイツ刑法やフランス刑法は、公然性が賭博罪の要件となっている。
日本でも、明治初期の刑法草案では、公然性が賭博罪の要件となっていた。
「公然性」は、賭博罪のキーワードである。


大学生が部室でする麻雀やサラリーマンが同僚とする麻雀(セット麻雀)が逮捕されないのは、その麻雀が知れているのが仲間内だけで、公然性がないからである。

一方、フリー雀荘が派手に宣伝すると、多くの人の知るところとなり、公然性が増す。
そうなると、検挙される可能性が高まる。


店というのは、営業努力しないとつぶれる。
しかし現状の法律では、フリー雀荘は、営業努力すればするほど、検挙される可能性が増す。
捕まりたくなければ、宣伝などせずに、ひっそりと営業しながら少ない利益で細々とやっていくしかないのである。


ただ、賭け麻雀が世間一般にされているのはみんな知っている。
医者・弁護士・政治家・警察官・学校の先生など固い職業の人たちの中でも、賭け麻雀をしたことがある、という人はたくさんいる。
「賭け麻雀」という大きなくくりでとらえれば、賭け麻雀自体に、公然性があるといえるのだ。


そのような中で、「賭け麻雀はごくまれに捕まる」というあいまいな法律状態は、断じておかしいと思う。


著名な刑法学者の中にも、「一般的な賭け麻雀を違法とするのはおかしい」と著書に書いている人はたくさんいる。
法改正をすべきである。


賭け麻雀と法律の問題は、私が力を入れている分野である。
これからも、折にふれブログに書いていきたい。