2024年9月に発表されるエミー賞に『SHOGUN』が25部門にノミネートされたと7月に発表されました。
主なところでは、作品賞をはじめとして、主演男性俳優賞に真田広之、主演女性俳優賞に澤井杏奈、助演男性俳優賞に浅野忠信と平岳大。
エミー賞は米国のテレビ業界の授賞式ですが、そこに、劇中では英語を話さずに日本語で通した日本人俳優三人がノミネートされたのは大きな出来事です。

そして、劇中唯一の日本側英語話者として主演女性俳優賞ノミネートとなった澤井杏奈。
彼女に対する米国エンタメ業界の期待の大きさは、ハリウッドの業界誌『The Hollywood Reporter』の円卓座談会『OFF SCRIPT』で

ジョディ・フォスターやニコール・キッドマンといったハリウッドの錚々たる女性俳優のトップ級と円卓を囲んでいることからも分かります。一気に米国におけるアジア系俳優のトップとなったアメリカン・ドリームですね。

『SHOGUN』では美術部門も多くのノミネートがされていますが、その美術部門を支えるためにプロデューサーに名前を連ねた真田広之は京都から多くのスタッフを連れて来て「時代劇」の手法をハリウッド式と組み合わせたと語っています。

京都の時代劇業界の様子というと、今から十年前の2014年に発表された春日太一の『なぜ時代劇は滅びるのか』に描かれた情景を思い出します。
「衰退に向かう時代劇」というテーマについて語る際、必ず話題に上るのは、これまで幾多の時代劇を生み出してきた京都の撮影所の寂しい状況である。
たいていは、京都という「職人と伝統の町」というイメージと、「時代劇にこだわる古くからの職人たち」という撮影所のイメージが重なり、「滅びゆく伝統文化の世界」という文脈で語られることが多い。
~(中略)~
たしかに現在の東映・松竹の両京都撮影所は、たまに撮影班が重なって局地的に賑わうことはあっても、ほとんどの時期は閑散としている。
筆者が取材活動を始めた頃はまだ活気があった京都のどの撮影所も、足を運ぶ度に閑散の度合いが増していった。貸しスタジオ業務で生き残ろうとする東映京都では、東京から来た一見の若いスタッフが現場を走り回るのを、土着のベテランのスタッフたちが撮影所の喫茶店から眺めている光景をよく目にした。映像京都に行くと、みんなスタッフルームの前のベンチで日向ぼっこをしながら居眠りしていたり、ひたすら掃き掃除ばかりしていたり……。
京都の時代劇撮影所というと「太秦」の地名で知られますよね。
米国の映画産業がハリウッドという地名で知られるように、日本の時代劇といえば太秦です。
東映と松竹どちらも京都市右京区の太秦に撮影所を置いてきましたし、かつての日活と大映の京都撮影所も太秦にあり、オープンセットを疑似体験できる観光客向けの東映太秦映画村があることでも有名です。
ただ、現在の日本において時代劇というジャンルを専業にしてやっていくのはかなり難しいであろうことは容易に想像がつくし、春日太一が描く太秦の日常はとてもうら寂しい。

数々の時代劇作品に若い頃から出演し続けてきた真田広之は、『SHOGUN』のプロデューサーに名前を連ねるにあたって、こうした状況にあった京都の時代劇スタッフに大きな仕事を分配し、世界的大舞台という「出世払い」を果たしたわけです。


このまま『なぜ時代劇は滅びるのか』から続けていきます。
第一章「時代劇の凋落」より。
一九九〇年代の長引く不景気もあり、(数少なくなった)大口スポンサーに敬遠されその上に予算を食う時代劇が「お荷物」になっていくのは致し方ないことだったのかもしれない。
~(中略)~
「終わった……」
二〇〇三年五月のこと。新作テレビシリーズとして企画された『夜桜お染』撮影中のある日、撮影所近くの食堂で筆者と昼食をとっていたフジテレビの能村庸一・時代劇専任プロデューサーは、そうため息をつきながら、携帯電話を切った。山田良明という、時代劇になんの想いもない男がフジの編成局長に就任したというのである。
能村プロデューサーの落胆の表情が予言したように、あの日に何かが終わった。山田は就任早々、時代劇の連続枠を撤廃し、年に数回の二時間スペシャルのみを放送するという方針を打ち立てたのだ。危うく『夜桜~』もお蔵入りになるところだった
~(中略)~
「時代劇は連続ものだと、(出演する俳優は)ずっと京都にいないとダメでしょう。そうすると売れっ子は出てくれません。でも、スペシャルだと拘束時間が少ないから、誰でも使える。キムタク主演の時代劇だってやれるんです」
筆者が大学院に在籍していた頃、日大芸術学部の特別講義に招かれた山田は、檀上で得意げにそう謳っていた。彼の言葉どおり、フジは木村拓哉をはじめ、ジャニーズなどの「人気者」を主演にしたスペシャル時代劇をいくつも製作するようになった。
大映京都撮影所の系譜を引く映像京都で制作され若村麻由美主演の『夜桜お染』が放映されたのは2003年10月から04年1月にかけて。この作品をもってフジテレビの「時代劇枠」は終了します。日本テレビは既に1997年、テレビ朝日では2007年にレギュラーの時代劇枠を終了させ、テレビ地上波における時代劇の伝統は2000年代に"終わった"のです。
そして、TBSというよりは旧松下グループ提供枠として唯一残った『水戸黄門』も2011年にレギュラー放送を終えますので、民放の地上波に時代劇専門の枠は完全に無くなり、以後、単発のスペシャルドラマや現代劇枠のなかの1クールで時代劇を扱うことになります。

時代劇は現代劇に比べれば、衣装やセットなど美術まわりにカネがかかるわりに、「失われた〇十年」の始まりでもある1990年代にテレビ視聴率に個人視聴率の概念が持ち込まれると老人向け(とイメージされる)番組ではスポンサー企業が集まりにくくなります。
すると、2000年代前半に社会的ブームだった「改革」の流れに乗ってテレビ局でも既存の枠組みを改革する試みが始まり、「守旧派の老人たち」のものとして時代劇は改革「カイゼン」のターゲットとなったのです。

テレビ局側のカイゼン策として、「時代劇に若者を」として、既存ファンが下支えする数字を持つジャニーズ所属の男性アイドルが主演としてキャスティングされるようになると、次は忙しい"売れっ子"に合わせて拘束時間を短くするために連続ドラマや京都での撮影は出来るだけ避けるようになります。
コスパとタイパ(コスト・パフォーマンスとタイム・パフォーマンス)を追求するようになるのですね。

その結果は、
現場からすれば、山田の戦略は机上の理想に過ぎないものだった。
レギュラー枠の中での連続時代劇であれば、トータルで償却すればいいため、例えば「ある回で予算オーバー、日程超過になっても、次の回でそれを挽回すればいい」といった具合に、予算やスケジュールの融通が利く。が、スペシャルでは一回ごとに償却しなければならないため、予算管理はかえって厳しくなる。
そして、現場スタッフたちからすれば、年に数回のスペシャルしかないということは、年に数回の仕事しかないということを意味する。連続ものなら、毎日のように現場は稼働するが、スペシャルでは、それを撮る数週間以外はスタジオもスタッフも待機状態。生殺し状態でスタッフは、他に短期のバイトで生活費を稼ぐしかない。また、その数回を撮るために、普段は現場が稼働しないのにスタッフやセットを維持し続けなければならず、各プロダクションは多大な負担をともなうことにもなった。
加えて、スペシャルの一発勝負となると、より手堅い成功を狙って、メインどころのスタッフはベテランが占めることになりがちだ。レギュラーシリーズなら、その中の一本で若手を抜擢し、ローテーションすることも可能だった。京都では能村プロデューサーが中心になって、連続枠の中で若手の育成を進めてきたが、ようやく芽吹いたその種も完全に摘み取られることになった。
金がまわらない。
仕事がまわらない。
人がまわらない――。
テレビ局の経営層側主導の改革カイゼンは「現場」を混乱させます。
でも、これって、時代劇という限定されたジャンルだけの話ではありませんよね。「失われた〇十年」の日本において、数多の日本企業で陥った悪循環。
「カイゼンで」予算と納期に追われた現場が帳尻合わせに「数字」を偽装していた事件は日本を代表するような大企業でも次々と発覚していますし、「カイゼンで」大企業が下請けに負担を転嫁させて自社だけが数字を好転させる手法もよくある話です。
そして、未知数の若手を育てる余裕の無い現場では計算できるベテランに頼りきりとなり、その世代が引退すれば技能は継承されずに断絶する。結果、金も、仕事も、人もまわらなくなって目先の数字だけをイジって糊塗する現在。
コストとタイムではなく、本来重要なのは「パフォーマンス」のはずですが。

第五章「そして誰もいなくなった」より。
役者の育成に関しても、意識は高くないのが現状だ。プロデューサーにその意識があれば、長期的スパンからの役者育成は不可能ではないはずなのだが、近年はそれが許される余裕はなくなってきている。
これは役者に限った話ではない。監督もスタッフも同様のことがいえる。人材を育成するためには実地の経験を多く積ませ、時には失敗し、その試行錯誤の経験を通して《本物》に成長させるしかない。だが、近年の時代劇には、その失敗を許容する余裕がなかった。
かつて、映画には毎週のように看板が変わるプログラムピクチャー、テレビには連続レギュラー枠があり、量産体制の枠組みが保証されてきた。それならばプロデューサーも一度や二度の失敗は取り返しが利くので、若手の役者や自らが発掘した無名の役者を抜擢することができる。
~(中略)~
が、近年はそうではない。映画もテレビも量産の枠組みは無くなり、大作化が進んだ。一つ外れると損失が大きくなり、次に繋がらない。一回一回が一発勝負の賭けになる。そうなると、どうしても手堅い成功を狙って、メインどころのスタッフもキャストも既に定評のあるベテランや人気者が中心になってしまう。無名に近い若手を試して経験を積ませるのは、なかなかに難しい。また、たとえ抜擢したとしても、次の作品があまりないため、その経験を元に次なる試行錯誤をするのも困難な状況にある。
2000年代から10年代にかけての流行り言葉には「選択と集中」というものもありました。限られた予算と時間のなかでは、一見、このほうが効率が良いように思えます。
しかし、現実には何が成功するのかは分からない。選択し集中した作品が失敗しては目も当てられません。よって、プロデューサーは数字を足し算で積み上げて成功確率を上げようとします。実績のある計算できる原作、出演者、スタッフなどなどを足し算し、そして、実績がなく計算できない若手や無名の出演者、新奇だったり野心的なストーリー展開などなどを引き算していく。
その結果が現在の「テレビはつまらない」。
手堅く数字を稼ぐ作品も必要ですよ。だけど、それだけでは未来がない。現在の日本の閉塞感ってこういうところにありますよね。
人材育成の面で弊害が大きいにもかかわらず、テレビ時代劇が単発スペシャル中心になっていったのは、テレビ局上層部が「作品内容よりも人気者を配役できればそれでいい」という意識に変わったからだということは先に述べた。
~(中略)~
人気者を主演に据えた番組制作のため、プロデューサーには創造性より、人気者が多く所属する芸能事務所とのパイプが重視されるようになった。その結果、企画内容に合わせて適材適所の配役をすることが軽視され、
~(中略)~
役の向き不向きを度外視して主演俳優の人気のみを重視した時代劇が作られるようになる。
テレビ局のプロデューサーや旧ジャニーズはじめとする大手芸能事務所所属の個人個人を悪者にしても仕方がありません。日本社会全体がこうした方向に誘導されてきた以上は、構造上の問題であって個人個人が抗するのは難しい。

ハリウッド業界誌『DEADLINE』(2024年8月13日付)のインタビューで真田広之は『SHOGUN』の続編制作について問われ、こう語っています。
And now, we’ve got this big success, and a great opportunity to create more seasons. Why would I stop? Only in my opinion as an actor? No, no, no, no. ‘Producer me’ taught ‘actor me’, “You should continue do it for the next generation, of course.” And then that’s why I decided to keep this opportunity for Season 2 and 3. And it’s a great opportunity for the young actors and crew.
Netflixはじめとする外国資本による日本ドラマが面白い作品ばかりなのかと問われれば、当然ながら玉石混淆で平凡な「石」のほうが多い。ただ、外資の(相対的に)潤沢な予算を掛けた作品で経験を積めるのは日本の俳優やスタッフにとって悪い話ではないと思うのですね。
正直なところ私、全編を通して見て『SHOGUN』が面白かったかと問われれば、そんなに……。
ただ、このインタビューで真田広之は『SHOGUN』の続編制作を決めた理由として「次世代のため、若い俳優やクルーに素晴らしい機会を与えるため」だと言っています。この点において『SHOGUN』が成功すると良いな、と思っています。

日本国内の話に戻ると、2014年に発表された春日太一の文章ですが、この後こう続きます。
象徴的なのは近年のフジテレビ『鬼平犯科帳』だろう。局の看板時代劇として、本格時代劇の《最後の砦》として、周囲から絶えず一定以上のクオリティを期待されるため、スペシャルでしか制作できない今は「出来る役者」に頼るしかない。
~(中略)~
蟹江敬三、梶芽衣子、綿引勝彦、勝野洋らのレギュラー役者は『鬼平』では下働きの密偵・同心を演じてきたが、今の彼らは他の作品では重鎮の位置づけだ。最も若手の尾美としのりでさえ、現代劇ではもう大ベテランの役回り。彼らは揃って芸達者のため芝居の力でそう感じさせないようにはしているものの、その貫禄はもはや密偵や同心を演じるには苦しい部分も見受けられる。
だが、それでも動かすことはできない。「次の役者」を試せない状況下では、今のメンバーから世代交代することに不安感しかないからだ。それならば、多少の無理はあっても今のままで行った方が上手くいくと判断するのは当然のことだ。
この本が発表されて十年経った今年2024年に『鬼平犯科帳』は新たなドラマシリーズと映画が発表されました。テレビ地上波からは撤退し、時代劇の動画配信サービス時代劇専門チャンネルから。

新作『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵を演じるのは二代目中村吉右衛門の甥にあたる十代目松本幸四郎。若き日の鬼平は松本幸四郎の息子で八代目市川染五郎が演じます。
「鬼平」といえば中村吉右衛門。彼に合わせて配役も世代交代できずにいましたが、後継に実の甥を当てることで新作が発表できるようになったのですね。
かつてNET(現テレビ朝日)で放映された『鬼平犯科帳』で鬼平を演じたのも八代目松本幸四郎で、中村吉右衛門にとっては父で現在の松本幸四郎にとっては祖父。「火付盗賊改長谷川平蔵」を一族世襲によって役を引き継いでいく、ある意味、本当に江戸時代っぽい。
大ベテランに頼りたくとも2020年代の今現在、世代交代はせざるをえない。中村吉右衛門が亡くなったのは2021年ですが、『鬼平犯科帳』では甥の松本幸四郎が世襲し、勝野洋に代わって筆頭同心役を演じる山田純大は杉良太郎の息子です。『SHOGUN』はじめとする国際派時代劇俳優となった平岳大が平幹二郎の息子なのなどと併せつつ、日本はこういう世代交代の仕方をするのだな、と。

また、テレビ地上波以外の視聴環境の大衆化により、時代劇、さらには「テレビ」そのものの制作主体も変わっていくことになるのでしょう。
澤井杏奈が出演しているApple TV+のドラマ『PACHINKO』シーズン2が公開開始されたばかりですが、これはNHKの朝ドラには出来ない朝ドラって感じだし。



リンクしてあるのは、Megan Thee Stallionの『Mamushi』 ft. Yuki Chiba。

2024年の米国大統領選挙で現副大統領カマラ・ハリスが民主党側候補として、老いを理由に支持が伸び悩んでいたジョー・バイデンに代わり出馬しましたが、そのアトランタでの決起集会にミーガンが応援に登場。ここで披露したのが千葉雄喜との日本語曲『Mamushi』。MVに出演している笠松将はHBOドラマ『TOKYO VICE』で若手ヤクザ役を演じて知名度を上げました。
「本場アメリカ」の大統領選で日本語のラップが鳴り響くのって、凄い時代になったものです。

KOHH改め千葉雄喜の今年は上半期は東アジア全域で『チーム友達』が大流行。東アジア各都市でRemixが作られていて、それを追うのが面白かった。
なにが面白いって、東アジア各地の不良少年カルチャーが「Team TOMODACHI」として連結してく感覚。韓国台湾香港シンガポールマレーシアインドネシアフィリピンモンゴルなどなど、ギャル版として東京のギャルマレー半島のギャル中国のギャルなどと、ここ半年ほど次々と各国版が発表され続けてきました。
で、こうしたアジアの不良少年のムーヴメントが「本場アメリカ」に逆上陸したのがカマラ・ハリスの決起集会で歌われた『Mamushi』であり、そして、反エリートを掲げるドナルド・トランプへの対抗宣伝としてカマラ・ハリス陣営が選択したキーワードが「KAMALA is Brat(カマラは悪ガキ)」。カマラ側が「悪ガキ」を標榜することによってトランプの戦術は無効化されました。

でも、日本のテレビを中心とするマス向けメディアはあれだけ普段「日本の〇〇に外国人が~」みたいなネタに飢えているのに、東アジアだけでなく米国大統領選を通じて世界的な話題になった千葉雄喜の存在には触れない。カマラ・ハリスの集会直後に検索してみたけど日本語メディアでは一本もニュースになっていませんでした。これは意図的に無視しているのか? それとも純粋にアンテナの感度が鈍すぎて知らないのか?
このブログを書き始めた当初はパソコンで読んでいる人がほとんどでしたが、今はスマホからのアクセスがほとんど。スマホで読んでいる人とパソコンやタブレットで読んでいる人では見えているブログのデザインが違うのでほとんどの人が知らないのでしょうが、このブログの右側にはずっと私が直近で読み終えたエンタメ小説を紹介しています。
私はスパイ小説とミリタリー小説が大好きでよく読みます。また、SF小説やファンタジー小説も好きです。日本の歴史小説では忍者ものを好んで読むのはスパイ小説とかファンタジー小説と同じ枠で読んでいるからです。


冷戦時代以前を舞台とするクラシックではない現行シリーズで人気のあるものだと、2022年にNetflixで映画化もされたマーク・グリーニー(Mark Greaney)の〈暗殺者グレイマン〉シリーズなんてエンタメとして面白いですよ……映画版と原作シリーズはストーリーが全く違いますがイメージ映像として。
CIAの特殊工作部隊から脱走した主人公が悪党の暗殺だけを請け負う殺し屋となり、CIAはじめとする各国諜報機関や軍情報部、傭兵企業(PMC)やマフィアから次々と送り込まれる追跡の手を避けながら依頼を遂行していく物語が〈暗殺者グレイマン〉シリーズ。2009年にシリーズが開始され今年24年は13巻『The Chaos Agent』が出ています(日本語翻訳は現時点では12巻『Burner(日本語題:暗殺者の屈辱)』まで)。
また、グリーニーは、2013年に亡くなったトム・クランシーの〈ジャック・ライアン〉シリーズも引き継いでいます。……〈ジャック・ライアン〉シリーズは昔から映画化されてきましたが、最近ではAmazon Prime Videoがドラマ化していますね。

グレイマンに代表される現在のスパイ/ミリタリーのアクション小説の物語は日本の時代小説の忍者ものと相似しています。少年時代から戦闘技術や潜伏工作技術を叩きこまれた男が組織に裏切られて抜け忍となり、抜け忍狩りの追っ手を避けながら陰謀を暴くための戦いを繰り広げる。こうした作品では「抜け忍」という日本語はさすがに見たことないけれど、日本語のまま「Ronin」(浪人)という言葉が出てきたりもしますので意識はされているはずです。
なので普段は日本の時代小説を読んでいる方にも現代の忍者もの/浪人ものとしてお薦めできますし、エンタメとして楽しみながら現実のニュースに登場する兵器や組織の名前や機能も覚えられます。

そんな私ですから、日常的にたっぷりと「陰謀」をエンタメとして楽しんでいます。
しかし、エンタメとして楽しめるこうした「陰謀」に対し、今この瞬間にもインターネット上で流布されている「陰謀論(Conspiracy Theories)」の「小説として」成立するレベルのリアリティにも想像力にも欠けた低質さにはうんざりします。スパイ小説やミリタリー小説を「小説として」楽しめるレベルの解像度だとしても陰謀論者の語りの支離滅裂さには本当にうんざりできるはずです。

例えば、陰謀論者の振り回す「CIA」。彼らはまるで世の中の森羅万象を司る組織かのように語りますが、スパイ小説のなかで描かれるCIAはじめとする各種諜報機関は、どこも官僚主義に蝕まれいて後手後手に回り、その後始末に主人公たちが奔走する、というのがスパイ小説の基本的な物語。

英国諜報部の国内部門MI5と国外部門MI6の両方に所属経験を持ち、英国スパイ小説の第一人者となったジョン・ル・カレ(John le Carré)は2016年に発表した回想録『地下道の鳩』にこう記しています。
「とんでもないことをしてくれたな、コーンウェル」かつて同僚だったMI6の中年職員が叫ぶ。多くのワシントン関係者が集まった、イギリス大使館主催の外交レセプションでのことだ。「まったくひどいやつだ」ここで私に会うとは思っていなかったが、会ったからには、絶好の機会とばかりにふだん思っていたことをぶちまける。私がMI6の名誉を汚し――われわれの部署だぞ、こともあろうに!――国家を愛する職員を、反論できないのをいいことに笑い物にしたというのだ。
~(中略)~
「人でなしなんだろう、われわれは? 人でなしで無能! まったくありがたいよ!」
怒っているのはこの元同僚だけではない。ここまで激しくなくても、私はこの五十年間、同じような非難を浴びせられてきた。悪意のある攻撃や集団での嫌がらせに遭ったという意味ではない。必要な仕事をしていると考えている人々から、感情を傷つけられたとくり返し言われるのだ。
「なぜわれわれをいじめる? 現実はどうだかわかっているだろう」
~(中略)~
外交パーティーで私を殴り倒さんばかりに怒っている元同僚に対して、私はどう答えるべきだったのか。イギリスの諜報機関を現実よりはるかに有能な組織として描いた本も書いているなどと言っても無駄だろう。MI6のある高官が『寒い国から帰ってきたスパイ』について「うまくいった二重スパイ作戦はこれだけだ」と言っていたことを伝えてもしかたがない。
英国諜報部MI6を代表するキャラクターといえばジェームズ・ボンドでしょうが、ル・カレ言うところの"現実よりはるかに有能な組織"のジョージ・スマイリーがよりキャラクターとしてリアルにイメージされるのではないでしょうか。そして、そのル・カレが描く諜報部は、諜報部に残った者たちを"殴り倒さんばかりに怒"らせます。

陰謀や秘密が「存在しない」なんて言うつもりはありませんよ。
問題は、荒唐無稽な「陰謀論」が、現実に存在する危険を本気で追求する際にはノイズとなって邪魔をすること。

2020年にル・カレが亡くなった際、BBCは追悼文にスパイ小説の意義をこう記しています。
この小説でル・カレ氏は、民主国家でさえ自分たちの秘密を守るためには非合法な手段をとることがあるのだと、深刻な問題を提起した。

政府が何もかも隠し立てするような世界では、民主主義を守るためにスパイ小説は必要な役割を果たしていると、ル・カレ氏は主張した。小説が描くのは現実そのものではなく、映し出す姿は多少ゆがんでいるとしても、小説を通じて現実にある秘密の世界に光を当て、それがどれほどの怪物になり得るか示すのは大事なことだと説明していた。
こんな時代だからこそ、軽挙妄動せず、現実と虚構を切り分ける必要がありますよね。ル・カレ言うところの"民主主義を守るため"とまで大げさなことを私は言うつもりはありませんが、思考訓練として、そして本来のエンタメとして楽しみつつ、スパイ小説を読んでみるのはいかがでしょうか。
楽しむための基本的な知識があるだけでもおかしな陰謀論に耐性はつくように思いますよ。「ナラティヴ(物語り)」という言葉がここ数年の世界を説明する用語として流行していますが、現実を無知ゆえに改変してしまうよりは、まずはフィクションの物語を読むところから始めましょう。



現在では、頭のおかしい人たちの振り回すおかしな異説珍説を「陰謀論」で「陰謀論者」と呼んでいますが、私が若い頃の日本では、こういうのを「電波系」の「トンデモさん」と呼んでいました。妄想上のおかしな電波を受信してしまってとんでもないこと言い出すトンデモさん、と。
もちろん昔からそうしたトンデモさんは存在していました。「電波」という概念が無い時代は「天からの声を聴いた」だのと。
ただ、今と昔が違うのは、インターネットという「電波」を通してトンデモさんたちが横に繋がり、時間差無しに連携して動くようになった結果として現実社会にまで介入し、「陰謀論者」という人間社会全体への危険な存在へと変化したのが今現在の世界。

話を変える前に一曲。

大槻ケンヂが2009年に発表した『林檎もぎれビーム』。
この曲の元ネタとなったのは1960年前後頃の日本であった終末論「リンゴ送れ、C」事件ですね。
1962年に人類は滅亡するも、事前に一斉送信される「リンゴ送れ、C」という一文の記された暗号電報を受け取った者だけがUFOに救い出されて生き延びる、と主張する当時の陰謀論者たちの引き起こしたトラブルです。
……2020年の米国大統領選挙でのトランプ敗北後に日本のQアノン陰謀論者たちが信じていた「世界緊急放送」ってのも、これが元ネタとして流用されたんだろうな。


ゲーム作家で小説家の山本弘が2007年に発表した『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』が最近になって文庫化されましたので紹介していきます。
山本弘は1956年生まれのオタク第一世代の作家。そんな彼が2007年段階でオタク文化と自身との関わりを振り返りつつ、それまで発表してきた文章を収録した本です。
山本弘は1992年、〈と学会〉という読書サークルを結成し会長に就いています。〈と学会〉の「と」とはトンデモ本の「と」。

〈と学会〉に関わる文章を集めた第二章「トンデモを見れば世界が分かる?」に収録された『トンデモノストラダムス本の世界』(1997年発行)あとがきより。
結局、「ノストラダムスの大予言」とはいったい何だったのか?
それは一種のロールシャッハ・テストだ、と僕は考える。
ただのインクの染みが、人によっては「チョウチョ」に見えたり、「悪魔の顔」や「抱き合っている男女に見えたりする。それと同じで、あいまいな言葉で書かれているノストラダムスの予言詩は、読む人間の主観によって、どのようにでも解釈できてしまう。自分が平凡な人間であることにコンプレックスを抱く英森単氏は、優秀なクローン人間の出現を詩の中に読み取る。聖書を深く信じる内藤正俊氏は、聖書の預言を読み取る。地震に興味を持つ池田邦吉氏は、地震や火山噴火に関する予言ばかりを読み取る。戦争を嫌う一方、自ら「助平」と認めるミカエル・ヒロサキ氏は、平和的でエッチな予言ばかりを読み取る……。
そう、ノストラダムスの四行詩の中には、彼らの望むことは何でも書かれているのだ。池田邦吉氏や浅利幸彦氏や中村恵一氏のように、「ノストラダムスの詩には私のことが予言されている」と信じる人が現われるのも、不思議ではない。
~(中略)~
そう、ノストラダムスの予言が映し出すものは未来のビジョンなどではない。研究家たち自身の心の中――彼らの抱いている恐怖や願望なのだ。
「リンゴ送れ、C」は私が生まれるより前の時代の話ですが、私が子どもの頃の終末論と言えば何といっても「ノストラダムスの大予言」。
1972年に五島勉が『ノストラダムスの大予言』で、「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」と書いて以来、1995年のオウム真理教による無差別テロ事件を引き起こす遠因となって問題視されるまで、日本では多くの人間が関わり二十年以上も流布されていました。
私も自分の意志で「ノストラダムスの大予言」本を買った記憶は一度も無いけれど、意思とは無関係に大量に「ノストラダムスの大予言」を注ぎ込まれていたので「1999年7の月」の部分は今でも思い出せるものな。私が小学生の頃の夏休みなどよくテレビでも夏の怪談の一種としてか番組がありましたし、95年以前にもの心ついていた多くの日本人は信じる信じないは別として「1999年7の月」、思い出せるのではないでしょうか。
人類滅亡などなかった1999年7月からちょうど四半世紀分の時間が過ぎ、自称ノストラダムス研究の大家たちは忘れられた名前となっていますが、あれは何だったのだろう?
山本弘は1998年7の月に発行された、自称ノストラダムス研究の大家たちの文章を収集した本『トンデモノストラダムス本の世界』の後書きに"ノストラダムスはロールシャッハ・テストである"と記しています。自己の内側にあるものを投影する存在としての「ノストラダムス」だった、と。

そして、ノストラダムスの名前を見る機会も無くなった今現在、新たにインターネットを使って語られている終末論を含んだ陰謀論は、語る人びとがどのような人間かを映し出す鏡になっています。……他人ごとながら心配になります。あんな丸裸でインターネットを使うなんて。本気で「世界を支配するDS(Deep State)」とやらと闘っているつもりならば、まずインターネットを出来るだけ使わない生活に変えるべきです。

「終末論」とは何か? と問われれば、
それにしても、なぜノストラダムスの予言はこんなに人を惹きつけるのか? 浅利幸彦氏は『セザール・ノストラダムスの超時空最終預言』のあとがきでこう書いている。

こんなことを街角でわめいたら、変人か狂人扱いされるだけだ。あるいは怪しい新興宗教に洗脳されてしまった哀れな人、と思われるだろう。
だが、予言を研究していくと確かにこのような結論にいきつく。私はなんとしてでも真理を理解したかった。自分と人類の存在理由に納得したかった。


自分の存在理由――そう、ノストラダムスの研究家たちにとって、予言詩の解読とは、自らのレゾンデートルを確立する作業そのものなのだ。「私は世界でただ一人、ノストラダムスの予言を正しく解読できる人間だ」という信念は、自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれる。「変人か狂人扱い」されるのも、たいしたことではない。彼ら研究家にしてみれば、自分の偉大な業績を認めようとしない連中は愚か者であり、世間から嘲笑されることはむしろ誇りなのである。
終末論を含んだQアノン陰謀論者たちも全く同じ語りをしますよね。「こんなことを言ったら陰謀論者扱いされるかもしれないけれど~」と。
でも、その「私は真実を語っているのに迫害されている」という自意識過剰な思い込みこそが、本人たちにとっては"自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれ"て、選民意識を刺激する気持ちよくなれるドラッグとして機能しているわけです。これは選民化ではありません。単なるカルト化ですよね。
彼らがあれほど大災害や人類滅亡の予言に魅了されるのも、「私の価値が認められない世の中なんて滅びてしまえ」「私を笑った連中なんてみんな死んでしまえ」という願望がひそんでいるように思われてならない。その証拠に、大災害や核戦争のシナリオをつむぎ出す彼らの筆はうきうきしており、多数の死者に対する哀悼など微塵も感じられないのだ。
池田邦吉氏は『ノストラダムスの預言書解読Ⅲ』のあとがきで、予言詩の解読作業を、「不謹慎かもしれないが、とても楽しかった」と書いている。それは楽しかったに違いない。何億という人間を紙の上で抹殺してみせたばかりか、自分が偉大な人物として世界中から拍手喝采されるという夢を満喫することができたのだから……。


2004年発行の『トンデモ本の世界S』あとがきより。
日本SF界の重鎮、故・星新一氏の名言のひとつに、僕が座右の銘としている言葉がある。
~(中略)~
星氏のこんな発言。
「目のウロコが落ちたのと、飛びこんだのとはどこで見分けるんだ? 本人は落ちて新しいものが見えだしたと思ってるけど、じつは飛び込んだから見えだしたんだ(笑)」
~(中略)~
そもそも「目からウロコが落ちる」というのは聖書の世界の言葉である。『使徒言行録』九章、キリスト教徒を迫害していたサウロが、天下からの光とともに「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞き、とたんに目が見えなくなる。彼の家に、やはりイエスの声に導かれたアナニアがやってきて、サウロの上に手を置く。すると、目からウロコのようなものが落ちてサウロはまた目が見えるようになる。彼は改心して洗礼を受ける。
だから、何かの宗教に入信した人が「目からウロコが落ちた」と言うのは、用法として正しいのである。しかし、僕みたいな無神論者は、ついつい星氏と同じことを言いたくなってしまう。「それって本当はウロコが飛び込んだんじゃないの?」と。
日本では聖パウロという名で知られるサウロ。
当時まだ新興宗教だったキリスト教を取り締まる側だったサウロは突然に視力を失います。そこにイエスの声を聴いてやって来たというアナニアがサウロの顔に手をかざすとポロリとウロコのようなものがサウロの目から落ち視力を取り戻し、以後、サウロは熱烈なキリスト教徒となり布教の旅に出て殉教者となり聖人と呼ばれるようになるのが「サウロ(/パウロ)の回心」という物語。
"無神論者"とまで言わずとも信者ではない視点で見れば、典型的な新興宗教に「目覚めた」人の入信過程にしか思えませんよね。
「ウロコ」は本当に落ちたのか、それとも本当は飛び込んだのか。
ウロコとは、心の目にかかった偏見のフィルターである。フィルターがなくなれば、世界がよりクリヤーに見えると思われるかもしれない。それは逆だ。このフィルターは自分に都合の悪い情報をシャットアウトする働きがある。だから目にウロコが飛び込んだ者は、不都合なことが目に入らなくなり、世界が単純明快に見える。「目からウロコが落ちた」と勘違いしてしまうのだ。
今の時代が昔と違うのは、一部の思い込みの強い「トンデモさん」だけが「ウロコ」フィルターを装備しているのではなく、「フィルターバブル」という言葉があることで分かるよう、現在のインターネットは利用者の好みそうな情報を自動的に選別して表示するようになっています。「マスゴミと違ってインターネットには真実がある」と語ってしまう人の目にはすでに「ウロコ」が飛び込んでいるのですよね。
そして、極論を煽ることで数字を稼ぐ現状のインターネットのアテンション・エコノミーのシステムはトンデモさんたちの荒唐無稽な妄想を増幅させる。
「〇〇が諸悪の根源である」という考えは、たいていはウロコであり、間違っている。世の中の複雑な構造を、そんな短い文章で要約できるわけがない。単純化すれば分かりやすくはなるだろうが、正しくはない。それが正しいように見えるのは、図式に合わない事実をフィルターが切り捨てているからだ。
おそらく「フリーメーソンの陰謀」とか「相対性理論は間違っている」というトンデモ説も、同じ心理――「世界は単純なものである」という誤った信念に根差しているのだろう。
「世界がこんなに混乱しているのは、どこかにすべてを操る親玉がいるからだ」とか「相対性理論のような難解なものが宇宙の真理であるはずがない」というわけだ。
いいかげん、こんな幻想は捨てよう。世界は複雑である。ちっぽけな人間の頭ではとうてい把握できないほどにややこしく広大なのである。正解が存在しない問題だってたくさんある。それに単純な正解を出そうとするのは間違った行為なのだ。
「ウロコが落ちた」と思った時が危ないのだ。
トンデモさんたちを笑っていたはずの1992年に結成された〈と学会〉。
しかし、その〈と学会〉からも2010年代に入る頃には、自らがトンデモさん化していく人が続出します。
複雑さを避けて単純化に逃げ込もうとする怠惰さへの欲求をコントロールするのはなかなか難しい。


リンクしてあるのはPost MaloneとBlake Sheltonの『Pour Me A Drink』。

ポスト・マローンのカントリー転向は興味深い。
テキサス育ちとはいえカリフォルニアのヴィデオゲーム的な世界観のMV(例えば『rockstar』『Psycho』『Circles』といった)を発表してきた「New Geek」なポップスターだったポスト・マローンが、カントリー歌手のBlake Sheltonと一緒に歌う『Pour Me A Drink』は白人労働者階級の「弱者男性」を描いたもの。気が遠くなりそうな40時間勤務を終えてきたけど、贔屓のチームは延長戦で負けてるし、スピード違反で罰金とられたし、家で待ってる恋人もいない。そんな俺に誰か酒とタバコを奢ってくれないか、という曲。
Morgan Wallenとの『I Had Some Help』、Luke Combsとの『Guy For That』を発表。ポスト・マローンとカントリー歌手とのコラボは次々と発表されています。どれも「弱者男性」をカントリーの文脈に落とし込んだ良い歌詞です。

今現在の米国を「分断されたアメリカ」と表現するのは、ちょっと時代遅れになりつつあるように私には見えます。
カントリー・ミュージックを聴きつつ、私が思う今の米国のトレンドは「再統合」。分断が解消されたと「単純化」して言うつもりはありませんが、少なくとも振り子は統合の方へと揺り戻している印象があります。
2019年にLil Nas XがBilly Ray Cyrusと『Old Town Road』を発表した時には反発が強かったのですが、今年2024年、Beyoncéがアルバム『COWBOY CARTER』で黒人女性ポップスターによるカントリーを発表。スペイン語圏のスーパースターであるEnrique IglesiasMiranda Lambertと『Space in My Heart』、アイドル的存在だったMachine Gun Kelly改めmgkはJelly Rollと米国民謡として『Lonely Road』を発表。
そして現在は黒人によるカントリーとしてShaboozeyの『A Bar Song』がヒット中。


都会のポップスターがカントリーに歩み寄り、カントリー側もそれを受け容れる「分断」から「再統合」へと振り子が揺れる今現在の米国の状況は、白人労働者階級の悲哀を2016年に広く世に知らせた『Hillbilly Elegy』の著者J.D.ヴァンスが、ドナルド・トランプの副大統領候補に選ばれたと同時に時代遅れの存在になってしまったことからも明らかなように、時代の移り変わりを感じさせます。
「都会から無視された錆びついた田舎の白人労働者階級」みたいなナラティヴはもう時代遅れで、彼らの声に寄り添うアプローチはもう始まっています。

「知識をアップデートしましょう」と言うと、まるでウロコをどうこうさせられるかのように感じて反発する人もいるようですが、そんな大げさな話ではなく、刻々と変化する最新状況を追うようにしましょうよ、という話です。
状況を追うのも、何も「勉強しろ!」とか苦労を強いようってつもりもないですよ。エンタメを楽しみながら追ってみませんか、というのが私の主張。エンタメは現実そのものではないけれど、空気のようなものを把握しようとする時に手がかりになるはずです。
逆に言えば、エンタメを楽しめないほど感性が老い衰え、新しいものを億劫がるようになると終末論的陰謀論に絡め捕られていくのかもしれませんね……私も気を付けよう。

思っていたより曲の後が長くなったので、ポスト・マローンをもう一曲紹介しておきましょうか。

リンクしてあるのは、Post Maloneの『Mourning』。

カントリーに至る直前の去年2023年に発表された『Mourning』と『Chemical』の二曲のMVはヒルビリー的世界観で描かれ、止めたくても止められない依存症の苦しさを歌っています。
日本のメディアではテイラー・スウィフトの名前ばかりがチープに単純化された消費をされているけれど、今、注目すべきはポスト・マローンじゃないのかな、というのが私の視点。
今年2024年上半期、Disney+で放映中の真田広之がプロデューサーに名を連ねるドラマ『SHOGUN 将軍』が話題になりました。

1980年にもドラマ化されたことのあるJames Clavell原作の『SHOGUN』は日本史を題材に翻案したものであって史実通りではないので、日本人の目には「ん?」と思うところも当然ながらあって引っかかりはするのですが、日本国外で書かれた歴史ファンタジーだと思えば楽しめます。ファンタジー作品「『Game of Thrones』の日本版だ」と語る記事も少なくないですが、そういうものだと思えば。
日本を舞台とした作品に西洋人視点のオリエンタリズムを感じると、私は日本人として視聴を継続するのか悩むほど萎えますが、主演でプロデューサーも兼ねる真田広之とヒロイン役の澤井杏奈の二人がオリエンタリズムを拒否すると語っていたのが安心材料でした。

真田広之は『The Last Samurai』でハリウッドに「発見」されて以来二十年。ようやくハリウッドで日本人としての意見を通すことが出来るようになった語ります。日本人として今回の『SHOGUN』ドラマ化がこれまでのところ成功しているのは良いことです。
現在はゲーム『Ghost of Tsushima』の映画化が準備されていて、聞くところによると真田広之にアドヴァイスを求めた製作者はファンタジー寄りにするか史実寄りにするかをちゃんと決めた方が良いと言われたらしいですが、外からの勝手なイメージではなく日本人の意見が求められるようになったのは、日本人として悪い話ではないと私は感じています。

いわゆる文化盗用(Cultural appropriation)の問題に対して日本では否定的に語る人も少なくないですが、本当に不思議なのが「文化盗用」問題で、ハリウッドが日本人キャラクターを中国系や韓国系に演じさせるのに対しては怒る人が、例えば『ゴールデンカムイ』など、日本国内では「アイヌ人キャラクターはアイヌ系が演じるべき」だという声には踏み潰す側に回るのが理解できないのだよな。私個人としては出来るだけ舞台となるその土地の人たちやルーツを持つ人を使うべきだと見て思っています。
これはフェアネスとかコレクトネスといった話ではなく、日本国外で小遣い稼ぎ程度ではあるけど映画やドラマに出てみた私個人の経験もあるのでしょうが、「東アジア人ならみんな同じだろ」とばかりに中国人と日本人の区別がついていない所作を強いられているのを見るのは本当にうんざりします。やっぱりその土地の人が持つ独特の容姿や振る舞いってあると思うんですよね。

でも、ハリウッドで「マスター」と呼ばれるに至った真田広之が日本式の所作を明確にイメージとして刷り込めばこれも変わっていくのでしょう。
その意味ではNetflixでドラマ化され、Netflix内のテレビドラマ部門で2023年の年間視聴時間数1位となった『One Piece』でゾロ役を演じた新田真剣佑が物語冒頭で披露する殺陣も面白い。


真田広之は千葉真一と過去に師弟関係にありましたが、千葉真一の息子の新田真剣佑も「発見」されたことで、日本式の殺陣が米国でも認識されるようになると代用できない日本人の所作の存在が分かってもらえるようになるのではないでしょうか。例えば1984年の映画『The Krate Kid』の続編ドラマ『Cobra Kai(コブラ会)』で披露される格闘シーンと新田真剣佑の動きを比べれば一目瞭然。
……しかし、カラテ・キッドといえば、「カラテ」と銘打ちながらジャッキー・チェンが師匠役を演じた2010年の映画なんて完全に中国化していたし、2018年にシリーズが開始された『コブラ会』第1話で主人公が披露した空手に対し弟子になる少年が真っ先に尋ねるのは「それテコンドー?」。
2010年代という時代は「日本」が恐ろしいほどひどく地盤沈下した時代だったのだな、と改めて実感します。
最近、驚いたのが「韓国の俳優を使うと日本の同格の俳優の五倍のギャラが必要」という話。2010年代前半頃までは韓国の芸能人は「ギャラが日本に進出すると三倍、中国に進出すると十倍になる」と喜んでいたのに、逆転どころかそれだけの差がついて「安い日本」になっています。この現実を認識した上でどう日本を再興するのか、ってことなんでしょう。いまだに「経済大国日本」の幻想に浸っている人たちは認識を改めるべきです。


真田広之とともにハリウッドに「発見」された二大日本人スターとなるのが渡辺謙であることに異論がある人はいないでしょう。
渡辺謙が出演を選び、こちらも渡辺謙自身がプロデューサーに名を連ねているのはシーズン2が今年配信開始されたmaxの『Tokyo Vice』。

90年代日本を舞台に、ヤクザ組織を追うジャーナリストの白人男性に助言を与える日本人刑事役を渡辺謙が演じています。

真田広之の『SHOGUN』と渡辺謙の『Tokyo Vice』、時代劇と現代劇ながら物語の構造は似ていますよね。よそ者として日本にやって来た白人冒険者と、暴力に満ちた日本社会を冒険する彼に知恵を与えるトライヴを率いる日本人長老の関係を描きます。

この二人に次ぐ日本人長老を演じる役者として日本国外で重用されているのが平幹大。『SHOGUN』では石田三成をモデルとしたキャラクターを演じ、BBC制作のドラマ『Giri/Haji』ではヤクザを追う英国人キャラクターに知恵を与える日本人刑事役でした。
「エンタメとして描かれた」わくわくするほど暴力的な日本を冒険する、そのガイド役となる日本人長老キャラクターとしては、世界のプロレスのファンに「Murder Grandpa」の愛称で知られる鈴木みのるのここ数年のキャラクター役割の存在感でも、世界が日本人に何を求められているのかが分かります。

真田広之は『SHOGUN』の成功に「王道」という言葉を使っていました。日本を題材とした作品に求められる「王道」はやはりありますよね。サムライとヤクザ、カイジューにニンジャですか。
今年上半期、怪獣は映画『GODZILLA MINUS ONE』がオスカーを受賞し、ニンジャは賀来賢人がプロデュース兼主演した『House of Ninjas』がNetflixドラマとして配信されまあまあなヒット。
どちらもストーリーラインは奇をてらったところのない「普通」な作品ですが、そこが今、日本人に求められているところなのかな、と。
新田真剣佑と『ゴジラ-1.0』主演の神木隆之介がハリウッドで「発見」されれば、この二人が出演している映画『るろうに剣心』シリーズの他の出演者たちも「発見」されるかもしれませんね。
Netflixは続いて岡田准一プロデュース兼主演で今村翔吾の『イクサガミ』をドラマ化すると発表していますが、明治の時代に取り残された剣豪たちがチャンバラする『イクサガミ』を映像化するというのは『るろうに剣心』をNetflixでも作りたくなったからなのだろうな。
若手もベテランも、有名も無名も、日本のテレビ芸能界の序列をすっ飛ばすチャンスの時代がやってきました。ある意味、安くて性能の良い「Made in Japan」の復活です。

世界が待っていた「日本人女性キャラ」を演じられる存在となった澤井杏奈は、Apple TV配信の怪獣ドラマ『Monarch Legacy of Monsters』では主演。

『SHOGUN』では敵対する役だった平岳大が、この作品では澤井杏奈の父親役。
面白いな、と思うのは、平岳大は平幹二郎の息子ですが、『Monarch』で主人公の弟役を演じる渡部蓮も渡部篤郎の息子。新田真剣佑もそうですが、二代目の時代なんですね。

口の悪い人は「日本の俳優なんて下手くそばっかで学芸会だ」なんて言いますが、英語でこうした作品の感想を読んでいると「日本の俳優は上手い。もっと世界に出てほしい」なんてコメントをよく見ますし、中国語で読んでいると「日本の俳優は若手も殺陣が上手い。中国語圏の若手は編集で誤魔化さないと動けないのに」と日本での評価とは真逆だったりします。なんだかそれこそ過去となった「Made in Japan」の安心感みたいなものが残っている印象があります。

「日本スゴイ」に与する気はないし、「日本ダメだ」にも与する気はありません。
結局のところ「日本」のボトルネックとなっているのが大衆市場をこれまでコントロールしてきた各業界の大企業(エンタメで言えばテレビ局がその代表)にあるように思えてきます。
今年のゴールデンウィークの時期に話題となったNetflix版『シティーハンター』も映画というよりはテレビドラマの初回2時間スペシャルみたいな作品ですが、これを日本のテレビ地上波が作れるかと言われれば無理ですよね。
であれば、とりあえず、日本のエンタメについて何かを語りたくなった場合には、テレビ地上波の外にあるものについてもちゃんと語る、ということは大前提として明確に皆が認識すべきで、テレビ地上波だけで全てを知ったつもりになるのは止めておきましょう。


で、今の時代にそんな「日本」が提示する「普通」とは何なのかについて、インタビュー集『人類の終着点』(2024年2月発行)収録のマルクス・ガブリエルの語る現在の日本についての話から。
――マルクス・ガブリエルさんは、2023年春、4年ぶりに来日されました。久しぶりの東京訪問についてまずはお聞きしましょう。何か変化や新しいことはありましたか。

私が滞在していた時期は、パンデミックの収束が、正式に宣言された時期でした。法的な意味では「パンデミック収束」のまさにそのときでした。国境が開かれたばかりの時期だったので、私が知っている東京の国際的でグローバルな感じはまだありませんでした。
ロシアのウクライナ侵攻の影響で、東京へのフライトや私の旅行ルートは以前とはまったく違っており、日本は以前より遠く感じられました。
マルクス・ガブリエルは1980年生まれのボン大学教授。現代のスター哲学者の一人として日本でもよく知られています。
……マルクス・ガブリエルの語りって、私にとってとても同世代感があります。ちょっと前に、彼が学生の頃に体験した中南米での思い出話を読んでいたら、私もその場にいたエピソードがあって驚きました。その場にいただけで面識はありません。でも、同じ場所で同じものを見ていたのか! と。
彼の発言に私が全て賛同するかどうかは別の話です。でも同じ時代の同じ世代の他者の視点を取り入れるという意味において興味深い存在です。哲学者としての彼の仕事よりも同じ世代の代弁者としての通俗的な語りのほうが私には興味深く感じられるのですよね。
そして、私が感じたことは、国境が閉鎖され、厳しい政策が取られる中で、日本は1990年代から続いて、とても興味深い国へと変貌を遂げてた、ということです。
ポストモダニズムの絶頂期である1990年代、日本はいろいろな意味で世界をリードしていました。ビジネス界などのソフトパワーとして、日本は多くの面で文明の象徴でした。
そしてある意味では、パンデミックの最中に――ニンテンドースイッチの素晴らしい発明を私はいつも例にするのですが――日本は、その成功の一部を取り戻しました。別の面では、日本は1990年代の考えを替えずに、それを別次元に押し上げたのです。パンデミックの期間に、日本は非常に知的な形で改革に取り組み、いくつかの欠陥を修復したと思うのです。
ある意味で、4年ぶりの日本は、90年代末の「未来」に旅行したような気分でした。日本が過去から抜け出せなかったという意味ではなく、日本は欧米の他の地域と比べると別の「未来」に行ったのです。
これは文字通り「未来に戻る」(back to the future)旅でもありました。そう表現するのは、文化的にも適切だと思います。それも非常に成功した方法でやっており、批判的な意味ではありません。
世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックを宣言したのが2020年3月11日。次々と国境が封鎖され始めたこの時をもって無条件にグローバリズム経済を謳歌できる時代は終わりました。
この無条件なグローバリズム経済の時代というのは日本にとっては「失われた三十年」でもあります。
パンデミックによりグローバリズムがストップした時、世界は日本に、21世紀に対応できずにいた日本がゆえに残存していたポストモダンな「20世紀世紀末に夢見た未来」を「再発見」したのですね。それをマルクス・ガブリエルは「back to the future」と表現します。
もちろんこの「back to the future」とは1985年にシリーズが始まった映画『Back to the Future』に掛けてあるのでしょう。私たち世代にとっては子ども時代を象徴する映画の一つでもあります。
コロナ後の日本は、まるで若い頃に見ていた夢の世界のようでした。私はソフトパワーであり、ロールモデルでもある日本を見ながら育ったからです。今の子どもたちもそうでしょう。
意図的ではないかもしれませんが、日本はこの戦略とポジショニングによって、若い世代に対するソフトパワーを獲得しているということです。
私の子どもたちや多くの子どもたちは、再び日本の製品に魅了されています。『スーパーマリオ』の映画などはその典型でした。これは最もわかりやすい例ではありますが、漫画やファッションなどより深い層も同様です。
~(中略)~
パンデミックの前に日本に来たときは、(知的、文化的、社会経済的な)日本の発展は、欧米の他の国とシンクロしていました。
しかし、パンデミックの「鎖国」期間中は、日本は外部の視線からある程度独立して自らを定義していました。
一部のジャーナリストや、パンデミック中に、日本にとどまらざるを得なかった人たちを除けば、日本人以外の視点を入れさせることはなかったのです。そういう意味では、ある種の90年代の日本的なエッセンスが新しい形として現われたということですね。
ある意味、2020年代の幕開けと同時に始まったパンデミックは「日本」にとってタイミングが良かったとも言えます。日本の経済的絶頂期である1980年代に子ども時代を過ごし、文化的絶頂期の90年代に若者時代を過ごした世代の子どもたち世代が若者になる2020年代に日本が「再発見」されたのですから。

21世紀に背(back)を向けて20世紀末の世界に立て籠もる「日本」。21世紀の経済発展に取り残された「遅れた国」であるゆえに"鎖国"の時代を経て世界に再び発見されたわけです。国境が解放されると「懐かしい」とノスタルジー体験を楽しみに観光客が押し寄せているのが今現在、私たちが見ている光景です。
……今現在の「円安」もある意味では90年代ノスタルジー。当時の私は通貨危機に陥った「安いメキシコ」や「安いタイ」などで遊んでいたけど、今度は逆の立場で眺めることになるなんて。

とはいえ、これでめでたしめでたしとはなりません。
新型コロナウイルスはパンデミックの時期を過ぎて日常化し、世界は再び動き始めているのですから。

NHKで放送されている『欲望の時代の哲学』シリーズを書籍化した『欲望の時代を哲学するⅢ 日本社会への問い』(2023年12月発行)より。
今までよりも今回、日本に来て感じた印象の一つは、一九九〇年代の興味深い時代に来たようだということでした。あの時代の様子はしばしば建築物に見られました。八〇年代と九〇年代の日本の成功は、今も残る建築物に見て取ることができます。
加えて、もちろん、世界に対して日本が持っているソフトパワーの起源は一九八〇年代と九〇年代にあると、私自身実感します。それらは私の日本観を支える要素でもあり、また実際に視覚的に確認することができるものでもありました。しかし今回は、以前感じたよりも強く、そうした要素を感じました。以前よりも日本は「九〇年代的」になっているのではないでしょうか? これがまさに、大きな問題の一つです。
~(中略)~
なぜなら、日本は、まだ自身を、二一世紀に置いていないからです。日本は今でもある程度、九〇年代の恩恵を享受することができていて、今後も、やはり九〇年代の遺産によって進み続けることができるでしょう。自身を模倣し、繰り返し始めているのです。
~(中略)~
二一世紀には、それだけでは不十分です。なぜなら日本は、新たな提案を掲げて変化の時代に参入するということを、まだやっていないからです。日本は、世界が既に見たものの改良版を掲げて、変化の時代に参入しようとしています。今は、それだけではなく、新しい挑戦をすべき時です。
ノスタルジーだけでは未来が無い。
他国の人から言われるまでもなく、日本に漂う閉塞感は、内向きで後ろ向き、未来を感じられないところにあるのでしょう。そして、未来を感じられないのは、過去の成功体験にあまりに囚われている現状にあるはずです。
私だって80年代に子ども時代、90年代に若者時代をリアルタイムに過ごした世代ですからノスタルジーは分かりますよ。でも、過去の再生産に未来は感じられません。それどころか、かえって最近の日本における数字に媚びた懐古主義にはノスタルジーよりも不安を感じます。
新たな挑戦の兆候が見えないこと、それが日本に見られる最も強い不安の正体です。それが経済にも反映されていると私は考えます。「それで十分なのか?」ということなのです。私は、日本は今こそ、ジャンプするべき時だと思います。何か新しいものへと思い切った賭けに出なければならないのです。日本が既にやっていることと結びつけたものでもいいのです。
そこでの私の提案は、当然、「倫理資本主義」です。あるいは私が昨日フォーラムで提案したように、それを「形而上学的資本主義」と呼んでもいいかもしれません。なぜなら、先ほどもお話ししましたように、「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくいということもあるようですからね。ネーミングだけで抵抗感を持たれてしまうのはもったいないですから、「倫理資本主義」「形而上学的資本主義」、どちらでも結構です。
資本主義の現状を批判的に見、新しい挑戦を、と言えば「お前は共産主義か? 左翼か?」と攻撃されますがマルクス・ガブリエルは資本主義を否定しているわけではありません。現状の資本主義は不完全なもので、より良い未来のための新しい資本主義に必要なのは「倫理だ」と言うのが彼のポジションです。
この「倫理資本主義(Ethical Capitalism)」という概念を23年5月に経団連を相手に説きますが、彼の得た感触では"「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくい"し、"抵抗感を持たれてしまう"ようだ、と。
日本人の「倫理」という言葉に対する忌避感は、日本社会が今も(大衆的に理解された)ポストモダンの段階にあるからなのかもしれませんね。ポストモダンにおいては「倫理」もまた解体すべき対象でしょうから。でも、例えば、皆が「数字、数字」と数字をカネに替えて「職業倫理」を持たないような社会ではかえって人間は生きにくくなるし、閉塞感もあるはずです。
私が推奨するのは、独自の形而上学的、非物質的な源を見つけ出すことです。つまり、まだ眠っている日本人の気質があるとするならば、日本人の気質がどのように二一世紀のイノベーションの構造に貢献できるのか?と考えてみることです。もちろんAIへの投資もしていますし、その方面は得意のはずでしょう。AIもテクノロジーの分野ですからね。しかし、日本の発展の次のステップには、精神的な、そしてそのための哲学的な側面が必要だと思うのです。そしてそこに、基本的に新しい経済を作り出さねばならないのです。
なぜなら他国もまた皆、それぞれ異なる方法で、新しい経済を作り出そうとしているからです。ヨーロッパなら欧州グリーンディールで緑を増やそうとしています。日本でも「regenerative economy」=「再生型経済」に関する議論が盛んになっていると聞いています。今日では、高層ビルに緑が見られるようになりました。あれが、そうした議論が盛んになっている証拠です。ですが、繰り返しになりますが、新しいものは高層ビルとは違う、他の物でなければなりません。
未来が見えない閉塞感は日本で「哲学」(通俗的なものも含め)が語られなくなったところにあるのではないでしょうか。
目先の「数字、数字」を追うばかりで哲学が無ければ未来へのヴィジョンは描けません。
それなのに、今の日本では平気で「人文なんて必要ない。教育は稼げる技術だけ教えればいい」なんて言う人がいます。でも、稼ぐ技術に特化し倫理をかなぐり捨てた連中がアテンション・エコノミーで日々引き起こしているトラブルにはうんざりしませんか? また、数字しか評価基準を持っていないがゆえの数値偽装や員数主義なども日々目にするところですよね。
それだけを追っていると絶望しそうにもなるけれど、日本にもまだまだ「数字、数字」だけではない、新しいものや面白いものはたくさんあるはずなのにな。私はそっちを注目していきたいし、紹介していきたい。


最後に『人類の終着点』収録インタビューから。
――コロナ禍を改めて振り返ると、中国の台頭、ウクライナ戦争、西アフリカなどでも中ロへの接近の動きなどが浮かびます。これらを見ていると、戦後、私たちが信じてきた西欧の自由や民主主義が、必ずしも世界の進路ではないのではないかと考えさせられます。リベラルな民主主義は、相対的な意味で、世界的に力を失いつつあるのでしょうか。

その通りです。これは非常に深刻な問題です。
私が考えるに、リベラルな民主主義は、それ自体の矛盾のために魅力を失いつつあります。そして、それ以上に、私たちは自らの矛盾に向き合っていないのです。
たとえば、資本主義の矛盾です。
~(中略)~
ここに、問題があるのです。
権威主義とリベラルの競争で勝ちたければ、われわれは「真のリベラル」にならなければなりません。私の解釈では、これは資本主義の内部にある矛盾を克服しなければならないということです。
その矛盾はたとえば企業における資本主義的な剰余価値生産にあります。ホワイトカラーを含む労働者の日常的な現実の中にあるのです。これは、社会主義的な意味ではありません。人々が仕事をするうえで、ヒエラルキーが多すぎます。つまり、権威主義的な要素が多すぎるのです。
~(中略)~
権威主義に勝つためには、民主的資本主義の中にある権威主義的要素を取り除く必要があるということです。さもなければ、権威主義が私たちを打ち負かすでしょう。
私が言いたいのは、すべての人の自由を増やすために、ボトムアップ・モデルで経済を再構築する必要があるということです。そうでなければ、完全な権威主義体制を比較することはできませんよね。
~(中略)~
私の主張を言い換えるなら、現在の問題点は「資本主義が十分に足りていない」ということです。独占企業やごくわずかな個人、有名な億万長者たちが疑似宗教的な権力を持っている。ザッカーバーグ(メタCEO)やベゾス(アマゾン創業者)などが典型です。天才企業家や勝者が、すべてを手にするモデルという考え方は資本主義ではありません。
~(中略)~
あまりに多くの経済力があまりに少数の個人の手中にあるのは、資本主義ではありません。資本主義とは、再分配の自動的な構造が存在することを意味します。それは、システムに内在するものです。
~(中略)~
本来の形の資本主義では、移動の自由や、市場の自由などがあれば、いつでも別の仕事が見つけられ、上司に奴隷のように使われる必要はありません。しかし、もしビッグデータ企業が1社しかなければ、あるいは数社しかなければ、ジェフ・ベゾスから始まる指揮命令系統に依存するしかないのです。

リンクしてあるのは、Bring Me The Horizonの『Kool-Aid』。

英国のバンド〈Bring Me The Horizon〉の『Kool-Aid』MVは、日本をテーマにしているわけではないのになんだか漂う「日本の匂い」。調べてみれば撮影チームはわざわざ日本人で固めていますし、ソングライターには〈Paledusk〉のDAIDAIが名前を連ねています。やっぱり分かりますよね。日本人の作り出す独特の空気感とか「色」みたいなものは。
〈Bring Me The Horizon〉の最新MV曲『Top 10 staTues tHat CriEd bloOd』になると、これはもうU.K.RockではなくJ-Rockだ。