毎年、年末に発表される「アイドル楽曲大賞」を紹介しつつ前年のアイドルについての話を書いています。

テレビという大衆メディアのお祭りであるNHK『紅白歌合戦』における「日本のアイドル」像はひとつの基準になるでしょう。
2025年に出演した現役アイドルは、
KAWAII LAB.から〈CANDY TUNE〉と〈FRUITS ZIPPER〉。
BMSGから〈BE:FIRST〉と〈HANA〉。
EBiDANから〈M!LK〉。
K-POPはHYBEから〈ILLIT〉と日本支社の〈&TEAM〉に、SM社の〈aespa〉。
旧ジャニーズの後継であるSTARTOからは〈King & Prince〉と〈SixTONES〉。TOBEから〈Number_i〉。
秋元康プロデュースを冠したチームは結成20周年記念でようやく出れた〈AKB48〉とついに坂道グループ最後の一組になった〈乃木坂46〉。
何となく基本大枠として各社/各グループから2チームずつ選んだ感じですね。一時期の日本の男性アイドルはジャニーズ、女性アイドルは秋元康プロデュースが枠を独占していた時代に比べるとバランスは良くなっています。
……これでも「最近のアイドルは全部同じに見える」と言うのなら、問題があるのは同じに見える人の方にあるし、ジャニーズと秋元康の悪口を言って「日本のアイドルは〇〇だ」と全てを語った気になっているような人はNHKが想定する大衆マスよりも文化水準が低いってことになる。

その出演者の中で、2025年に最も躍進したアイドルといえば、女性は〈HANA〉、男性は何と言っても〈M!LK〉になるでしょう。

25年3月発表の『イイじゃん』が〈aespa〉の『Whiplash』に似ているとK-POPファンに叩かれながらも「悪名は無名に勝る」とばかりに知名度が上がり、歌詞中の「今日ビジュイイじゃん」が大バズり。
続けて、10月発表の『好きすぎて滅!』もバズって一気にメインストリームへと駆け上り『紅白歌合戦』出演に至るまでの大衆的知名度も得ました。
NHKが25年の『紅白』に24年発表の『Whiplash』で〈aespa〉を呼んでいるのも〈M!LK〉の『イイじゃん』とセットで並べたかったのでしょう。直前にネトウヨが暴れたので〈aespa〉企画は無くなったみたいですが。(……暴れてるネトウヨも、それに反発して「日本のアイドルはお遊戯会」と暴れてる連中のどちらも「知」に対して不誠実。うんざりします)

〈M!LK〉はスターダストプロモーション社の男性アイドル部門EBiDAN所属で2014年結成。ポッと出ではなく十年以上の活動歴がありようやく地上に到達したチームです。各社/各グループから基本2組という枠なら、もし〈aespa〉が来なかった場合は同じ事務所で2015年結成の〈超ときめき♡宣伝部〉が出れたのだろうな。
とはいえ、エースである佐野勇斗と元メンバーの宮世琉弥は若手の主演級俳優として「テレビ」でも活躍していますので、逆にこれまで知名度が低かった方が不自然ではありました。理由はまあ…分かりますよね。ただ、旧ジャニーズ社への忖度もあったのでしょうが、テレビ局に代表されるマス向けメディア側が旧ジャニーズグループや秋元康プロデュース以外にも日本のアイドルがいる、という多様性を、複雑さを厭う大衆に媚びて均質化したフォーマットで提供するために無視してきたのもあるのでしょうし、テレビが提供するものの外に情報を自ら求めて行くことはない大衆がいての共犯関係。旧ジャニーズ社だけを悪者にするつもりはありません。

……少し前に時代劇のキャスティングには風土を感じさせる顔で選んでほしいという話を書きました。〈M!LK〉メンバーって時代劇顔だよな。『紅白』での坂本冬美とのステージの着物姿も話題になりましたが、三河岡崎の佐野勇斗は徳川家もの、薩摩と大隅の間にある霧島市出身の吉田仁人は幕末もので薩摩藩士、足利市出身の山中柔太朗も足利一門が似合いそう。伊勢の曽野舜太に、塩﨑太智は和歌山出身だけど河内っぽい。
風土を感じさせる顔って、アイドル界に大量に人材がプールされているのだから活用すれば良いのにな、なんて男女どちらのアイドルを見ていても思います。
「K-POPスゴイ。それに比べて日本のアイドルは芋だ」なんて言う人もいるけど、例えば、地方48グループでは農家の娘が農家の娘のままアイドルをしていたりしますが、それの何が悪いのだろう?
カルチャーに多様性ではなく、単一モノであることを求める感覚が私には分からない。

2025年は〈M!LK〉にとって元メンバーたち含め色々あった年でした。そうそう、女性アイドル〈ZOCX〉に猫猫猫はうとして加入したはうきも〈M!LK〉出身でしたね。
旧ジャニーズと坂道がアイドル枠を独占していた時代はファンの嫉妬を恐れて男女のアイドルの共演は避けられていましたが、今は積極的にTikTokを撮るなど交流を見せる方針になったのも良い変化だし、ジェンダーを越えて活動できるようになったのも良い変化です。


ここからは、女性アイドル楽曲を中心とした「第14回アイドル楽曲大賞2025」の上位20位までを見ていきます。

メジャーアイドル楽曲部門の上位20位までを。

1位. CYNHN『ノミニー
2位. =LOVE『とくべチュ、して
3位. CYNHN『息のしかた
4位. 超ときめき♡宣伝部『超最強
5位. AiScReam『愛♡スクリ~ム!
6位. Perfume『巡ループ
7位. いぎなり東北産『らゔ♡戦セーション』
8位. でんぱ組.inc『W.W.D ENDING
9位. 清 竜人25『世界を愛せますように
10位. 東京女子流『夏の密度
11位. 私立恵比寿中学『SCHOOL DAYS
12位. ≠ME『モブノデレラ
13位. フィロソフィーのダンス『迷っちゃうわ
14位. =LOVE『ラブソングに襲われる
15位. 東京女子流『導火線、フラッシュバック
16位. CiON『しましょ
17位. ≒JOY『ブルーハワイレモン
18位. lyrical school『朝の光
19位. CYNHN『わるいこと
20位. わーすた『わーるどすたんだーど


1位は前年に続き〈CYNHN〉。3位にも入っているのでこの界隈を代表するチームとなったのでしょう。所属はディアステージ。
2位は〈=LOVE〉で、姉妹チームの〈≠ME〉〈≒JOY〉と併せて秋元康が後継者として認める指原莉乃のプロデュースするグループは一大勢力を形成しつつあります。

……木村ミサ率いるKAWAII LAB.グループと指原莉乃率いるイコール系グループという元アイドルの三〇代女性プロデューサーによる「カワイイ」対決が現在の「日本の女性アイドル」の状況です。
この二人より一世代上にはディアステージを率いる福島麻衣子やTokyo Pinkを率いる大森靖子、一世代下には〈HANA〉のちゃんみななどがいるわけですが、こうした女性プロデューサーたちの存在を透明化し無視して、秋元康だけで「日本の女性アイドル」を語ろうとするのは、ジェンダー規範に囚われた女性差別的な言動なんじゃないですかね。

一方で、〈Perfume〉の活動休止は別格としても、〈東京女子流〉、さらには〈フィロソフィーのダンス〉の解散は一時代の終わりを感じさせます。2025年には加えてWACKグループの全チーム解散/放出も渡辺淳之介の敗北宣言とともに話題になりました。〈BiSH〉を旗艦に2010年代後半のアイドル業界を引っ張ったWACKが全面再編に追い込まれ、25年年末には2010年代前半を引っ張った〈ももいろクローバーZ〉を旗艦とするスタプラでも複数チームの解散が同時発表され、事務所側社員人事も含めてグループの全面再編があるようで、2010年代とはアイドル周りの環境が激変しています。
〈CYNHN〉の所属するディアステでも、旗艦だった〈でんぱ組.inc〉が25年に解散すると最も人気のあるチームは「アキバ系」ではない外様の〈きゅるりんってしてみて〉になっていますから時代は変わりました。

こうした状況のなかで、2025年の「アイドル楽曲大賞」メジャーアイドル部門は「楽曲派」の好むタイプの曲とバズ狙いの曲が入り混じった上位層。
世界的に大バズしたのは5位の〈AiScReam〉による『愛♡スクリ~ム!』。
ここはライブアイドルではなく、2010年からアニメなどのメディアミックスで展開する『ラブライブ!』シリーズに出演していた声優によるステージから始まった声優アイドルですが、ライブアイドルを主に扱うランクにも入るほどの大バズでした。

ゆえに、『愛♡スクリ~ム!』が日本国外で「J-POPアイドル」とか「日本のアイドル」として紹介されているのを見かけるとなんだかモヤモヤします。声優アイドルはアイドルの派生ではなく声優からの派生なのでジャンルが違うし、属するカルチャーも違うのではないか、と。

ただ、日本のポップカルチャーの面白いところは、何か一つが流行ったらそれだけになるのではなく、マスとは異なる場所で、様々なジャンルが(ビジネスとして成り立つレベルで)並存して動いていることにあると私は思っています。
だからこそモノカルチャーではない、多様な表現をもっと知った上で、それから語ればいいのにな、なんて思います。


「アイドル楽曲大賞」とは別枠なのでここには載っていませんが、「ハロプロ楽曲大賞」で1位となった〈Juice=Juice〉の『盛れ!ミ・アモーレ』はステージの力でちゃんと(国内限定ではあるものの)バズった曲でした。
「日本にも口パクせずに踊りながら歌えるアイドルがいるんだ」なんて驚かれていましたが、〈Juice=Juice〉は〈モーニング娘。〉を旗艦チームとするHello! Projectグループ(通称:ハロプロ)所属で結成は2013年。十年以上の活動歴があります。
……「日本のアイドルは口パクばかり」なんて言う人もいますが「ばかり」ってのはどこの日本の話なんだろう?

続いて、インディーズ/地方アイドル楽曲部門の上位20位までを。

1位. タイトル未定『
2位. fishbowl『蒼霞
3位. ラフ×ラフ『君ときゅんと♡
4位. きのホ。『秋刀魚
5位. Ringwanderung『LV
6位. RAY『plasma』
7位. AQ『SKUMSCAMSCUM
8位. 0番線と夜明け前『わたしは水になりたかった
9位. ハルニシオン『ハルニシオン
10位. CUBΣLIC『シュガビタ
11位. ばってん少女隊『こっちみて星☆
12位. RAY『おとぎ』
13位. RYUTist『Unknown Us
14位. 美味しい曖昧『パフェクト
15位. yosugala『コノユビトマレ
16位. きのホ。『大問題
17位. きゅるりんってしてみて『Special♡Spell
17位. yosugala『何億分の1を
19位. TEAM SHACHI『晴れ晴れ
20位. AMEFURASSHI『Don't stop the music

インディーズ/地方アイドル部門では、札幌拠点の〈タイトル未定〉が1位で、2位の〈fishbowl〉は静岡拠点。
「地下」の覇者であり良くも悪くも「地下」における話題の中心だった〈iLiFE!〉を旗艦とするHEROINESグループが上位に入らないのはこの界隈の相変わらずですが、「カワイイ」系に押されて弱体化している「楽曲派」のなかでリーダー的存在になりつつあるのが、京都拠点の古都レコード勢。〈きのホ。〉に続いて24年に活動開始した〈AQ〉も京都らしいカレッジチャート感があって良い。8位の〈0番線と夜明け前〉も京都拠点のチームです。

……ランキングから離れた余談になりますが、地方アイドルというと、K-POPアイドルの〈i-dle〉が25年10月に発表した『どうしよっかな』MVは、韓国では「日本の地方アイドル」と『ラブライブ!』的世界観は入り混じりこう見えているのか、という意味で面白い。
また、さらにアイドルからも離れますが、韓国で音楽チャートMelonの2025年年間10位とヒットした〈10CM〉の『너에게 닿기를』は、北海道を舞台とする少女マンガ『君に届け』アニメ版主題歌の韓国語カヴァーですが、「韓国人が郷愁を感じる田舎としての日本」という感覚は興味深い。

2020年代半ばに至ってようやくアイドルのテレビ出演枠が解放され、ジャニーズと秋元康プロデュースとK-POPのみで構成される時代が続いてきたテレビの音楽番組に、「地下」や「地方」からもテレビ「地上」波の音楽番組に出れるようになりました。
きっかけのひとつは、フジテレビで2024年に始まった公開オーディション「TIF×FNS歌謡祭コラボ企画」。24年に初の出演権を獲得したのは〈タイトル未定〉でしたが、25年は〈Devil ANTHEM.〉。ここも2014年結成ですから活動歴は十年以上でようやくです。
とはいえ、TBSの『SASUKE』出演権を賭けたやはり24年に始まった「アイドル予選会」もそうですが、1枠を巡る過酷な公開オーディションを勝ち抜いてようやくアイドルはテレビ「地上」波に出れるのですから狭き門は変わらない。ぽっと出の若い子がテレビに出てる、なんてことはそうはない。

で、もし私が「アイドル楽曲大賞」に投票するのならば、

バンドサウンドとして6位の〈RAY〉による『plasma』かな。
毎年、〈RAY〉は良いと書いているような気がしますが「インディーズとして」面白い。

クラブサウンドのダンス曲だと、こちらは入っていませんが〈Girls²〉の『LET ME DANCE』。

Y2Kブームなんてここ数年言われていますが、意外とこういう音の楽曲って出ていない。MVは日本国外での何度目かのギャル・ブームで軽くバズったけど日本国内にはあまりフィードバックされなかったな。
そういえば、アイドルではありませんが、子供服のキッズモデルたちによる企画〈KOGYARU〉がドイツで一時ヒップホップ部門1位になったり、ギャル系ファッション誌『egg』のモデルによる〈半熟卵っち〉などが世界的に25年になってからバズっていましたよね。
「男に媚びず、好きなものを好きと言える日本のギャル」というイメージは、日本ではあまり語られませんが相変わらず強い。

「楽曲派」界隈のランキングには入らないアイドルだと、最近、気になっているのは〈BLUEGOATS〉。

前身チームの〈The BANANA MONKEYS〉は悪名は無名に勝るの「炎上系」路線で避ける人も多かったし、2021年に〈BLUEGOATS〉に改編されてからも炎上覚悟の体当たり企画でYouTubeやTikTokの数字は稼いでも、音楽をやるライブアイドルとしての現場の動員には結びついていない印象でした。
しかし、今の路線の〈BLUEGOATS〉は、正直、他のロック系アイドルと比べてスキルが高いとは言えないかもしれないけれど、炎上に頼らずともライブアイドルとしてのパッションと歯車が嚙み合って勢いが出てきた痛快さがある。実際、勢いのあった頃のWACKの界隈にいた人たちがここに集まりつつあるような感触。
26年に期待するチームです。

現在のトレンドであるカワイイ系でもなく、「楽曲派」にも入れてもらえないロック系アイドルはどこも知名度を上げるのに苦労しています。ただ、元〈BiSH〉でソロとして25年の『紅白』にも出場したアイナ・ジ・エンドという存在がある。
K-POPアイドルの方が先に世界で知られるようになったため、日本のアイドルも歴史に反してK-POPの派生のように見られていた時期もありました。しかし、全く異なる進化を遂げてきたのが日本のアイドルというジャンルだ、と世界各国のミュージシャンや音楽ファンに知られ始めてきた2020年代半ば。
BABYMETAL〉の成功は知られていても、彼女たちが日本のアイドルにおける特異な存在ではなく、実は、ロックが日本のライブアイドルの本流であることが知られてくると、ロック畑のミュージシャンたちが日本のアイドルに接触するようになりました。
例えば、〈RAY〉の新曲『Bittersweet』は〈RIDE〉のマーク・ガードナーが楽曲プロデュース。
……個人的には〈RIDE〉の名前を久しぶりに目にしました。中学生の頃は好きでよく聴いていたので、この新曲をきっかけに当時の〈RIDE〉の曲を検索してみたらカセットテープにダビングしてウォークマンで聴きながら歩いていた情景まで思い出してきてノスタルジー。

そんな〈RIDE〉のマーク・ガードナーと〈RAY〉の内山結愛の対談(『音楽ナタリー』2025年10月15日付)より。
マーク 女の子たちによるダンスとパフォーマンスがシューゲイザーという音楽と結び付いている様子がとても新しくて、すぐに好きになりました。私は音楽とは「進化する必要があるもの」だと考えていて。正直な話、私はこれまで男性のシューゲイザーバンドがうつむいて演奏している光景を、飽きるほど見てきたんですよ(笑)。RAYが新しい発想で音楽を更新していこうとする姿勢こそ先進的で刺激的。とても素晴らしい活動をしていると思いましたね。
~(中略)~
今、退屈な音楽に合わせてパフォーマンスをするグループがいっぱいいる中、RAYのように誰も想像しなかったような新しい音楽の領域に踏み込むグループがいるのは素晴らしいことです。そして私もRAYを通じて、普段触れることのない新しい(アイドルの)世界に私も踏み込めたのは、とても魅力的な出来事でしたね。
~(中略)~
内山さん、RAYの皆さん、どうか今やっていることを続けていってください。アイドルとシューゲイザーという異なる要素を両立させて、突き詰めていこうとする姿勢は、とても刺激的で興味深いこと。RAYがこの先の活動を通じて、メインストリームの音楽にシューゲイザーを持ち込むことで、ポップミュージックはより面白いものになっていくはずです。その期待も込めて、とにかくがんばってほしいですね。
日本でシューゲイザーと呼ばれる音楽ジャンルは、1980年代末から90年代前半頃の英国で流行した、靴でも見てる(Shoegaze)かのようにうつむき加減で演奏するサイケデリックなバンドサウンド。2025年には〈oasis〉の日本公演が話題になりましたが、90年代の〈oasis〉の大成功前夜のU.K.ロックが〈RIDE〉含め一まとめにされることもあります。

「ロックは年寄りの音楽」みたいなイメージを覆す存在として、若い女性がパフォーマンスする日本のライブアイドルを応援する空気はこれまでも日本のロック系ミュージシャンにはあり、楽曲プロデュースやバックバンドに付くなど珍しい話ではありませんでしたが、U.K.ロックを日本人が歌う面白さみたいなものが英国に逆流しているわけです。
"退屈な音楽に合わせてパフォーマンスをするグループがいっぱい"な現状に抵抗する象徴として期待するマーク・ガードナーの日本のアイドルに対する認識は、日本のアイドル楽曲を聴かない人たちには驚きをもって感じられるのではないでしょうか。特に「日本のアイドルは〇〇だ」と単純化して何かを語ったつもりになっているような人には。
再編後のWACKグループは拠点をロンドンに移すようですが、こうした空気に賭ける意図もあるのでしょう。ただ、〈WARGASM〉のサム・マトロックが楽曲プロデュースした〈ASP〉の『MAKE A MOVE』も曲としては良いけど数字として上手くいったとは言い難い。〈Bring Me The Horizon〉と〈BABYMETAL〉の『Kingslayer』との規模感の違いもあるとはいえ。

「日本のアイドル」とは何か? という話を、『楽曲派アイドルガイドブック』(2025年)に収録された〈RAY〉の内山結愛、〈XOXO EXTREAM〉の一色萌、〈メロン畑a go go〉の中村ソゼの三人へのインタビューから。
――すごくバカみたいな質問で恐縮なんですけど、アイドルってなんなんでしょう?
一同:「なんなんでしょう?」
――アイドルって音楽ジャンルの名前じゃないじゃないですか。ロックやヒップホップ、ジャズと並べるのはちょっとおかしい。
一色萌(以下、一色):たしかに、私たちのCDってレコード屋さんのどこの棚にあるのかわからなくなるときがありますよね(笑)。
――たとえば一色さんの所属するキスエク(XOXO EXTREAM)の場合、プレイヤーさんのキャラクターからアイドル棚に置かれがちだけど、サウンドのテイストで分類するなら、ロック棚ないしはサブジャンルのプログレッシブロック棚に置かれるはずですよね。なので「アイドルってなんだ?」と。
中村ソゼ(以下、中村):私がアイドルでいたいからアイドルなのかなあ?
一色:そういうことかもしれないですね。私、キスエクのサポートバンドに参加していただいているキーボディスト・諸田(英司)さんのre-in.Carnationでボーカリストもやっていて、そのバンドにはキスエクの小嶋りんもバイオリニストとして入っているんですけど、そのライブではアイドルと名乗ってないですから。
――そこではあくまでバンドマン?
一色:メンバーの半分はキスエクメンバーなんだけど、そうですね。でもキスエクのライブでキスエクの衣装を着て私が歌って、小嶋がバイオリンを弾いたら、それは私たちの中ではアイドルなんです。だからアイドルって、どういう気持ち、どういうスタンスでステージに立っているか次第で決まる存在なんだと思います。
――それこそSUPER EIGHTみたいに当たり前のように楽器を持つグループだって肩書きはやっぱりアイドルですもんね。
内山結愛(以下、内山):だからアイドルってチート的な存在なのかな? って思ってます。私たちRAYのやっているシューゲイザーでも、キスエクさんのプログレでも、ソゼちゃんのめろん畑a go goのサイコビリーでも、いろんな音楽ジャンルを自由に取り込めるし、楽器を持っていても持っていなくてもいい。そういう性格を上手く利用して活動している気がします。
「アイドル」とは音楽ジャンルではないのですね。
〈RAY〉のシューゲイズも〈XOXO EXTREAM〉のプログレも〈メロン畑a go go〉のロカビリー(にサイコなB級映画テイストを加えたサイコビリー)も、〈BABYMETAL〉のメタルや〈fruits Zipper〉の原宿カワイイ、「テレビ」で一時代を築いた〈モーニング娘。〉や〈AKB48〉。全部音楽ジャンルは違えども「アイドル」だし、楽器を持って演奏してもしなくても「アイドル」。その曖昧さを曖昧なまま楽しむジャンルなのでしょう。
逆に言えばアイドルとさえ名乗れば、どんな音楽ジャンルやパフォーマンスをしてもいいし、「(日本におけるカタカナ語としての)バンド」ともシームレスにジャンル移行できる。そして、「バンド」からも揃いの衣装で「アイドル」に変身できる。
ただ、そこに胡散臭い"チート"さを感じて受け容れられない人がいるのも分かります。私は音楽として実験的で面白いし、「バンド」よりもかえって自由を感じて興味が続いている。逆に言えば音楽の無い「アイドル」に興味は無い。
――最後にちょっと話が変わっちゃうんですけど、この本では広義の"楽曲派"と呼ばれるアイドルをフィーチャーしていて、僕自身、ここまでけっこう無責任にこの言葉を使って来ちゃったんですけど、みなさん、その楽曲派と括られることについてどう思ってます?
内山:いい意味にせよ悪い意味にせよどう括られても別にいいかな、って思ってます。楽曲派って必ずしもいい意味ばかりじゃなくて、楽曲にこだわるアイドルや、その曲を聴いているファンのことを「楽曲派(笑)」って言う風潮もあるけど、私の周りにいるアイドルさんには「(笑)」が付いていない。本気で音楽に向き合っているグループさんしかいないし、RAYももちろんそのつもりですし。
――であれば、なおのこと「(笑)」付きで楽曲派を語る人にムカついたりしません?
内山:でも「今どき冷笑はダサいよなあ」とも思っていて、だから別にどう括られてもいいかな、って感じなんです。
一色:そもそも自分たちが楽曲派アイドルを目指して活動しているわけでもないから、あんまり気にならないっていうのもあると思います。
内山:うん。
一色:それに正直な話、楽曲派という括りってふわっとしていますよね?
――確かに最初の"アイドル"の話と一緒。音楽ジャンルの名前でもないし、ともすればマニアックなジャンルを指向する、ある一群のグループをざっくりと括った抽象的な言葉でありますね。
一色:そもそも"楽曲"自体はどんなグループにだってあるじゃないですか(笑)。
内山中村:確かに(笑)。
一色:しかも今のアイドル楽曲ってどれもいいし、楽曲派に括られてはいないグループのメンバーさんやクリエイターさんも真剣に音楽に向き合っているし、実際どの曲も適当、おざなりではないから「楽曲派ってなんだろう?」ってなっちゃって。「そう括る人は"自分が推しているグループは特に曲がいい""曲に力を入れている"って認識しているのかな?」くらいのイメージで捉えています。
中村:演る側としてはそんなに強く意識してはないですよね。
――あくまで聴き手やメディアが使う便宜的な言葉って感じ?
中村:サイコビリーもシューゲイザーもプログレもそうだし、キラキラ系の楽曲も演れるのがアイドルなので。だから私たちは特定の音楽ジャンルのアイドルや、楽曲派のアイドルというよりもそれぞれのグループというジャンルを演っているアイドルという存在なんじゃないかな、って思ってます。「こういうジャンルの音楽のグループだから」という理由で応援してくれるのももちろんうれしいし、「面白い曲を演っている」という意味で楽曲派と呼ばれるのもうれしいけど、できれば"アイドル"として観てほしいな、っていう気持ちはあります。
「アイドルとはなんなんでしょう?」の次の質問は、そのアイドルのなかでも「楽曲派とは何か?」という話。
〈Fruits Zipper〉を旗艦とするKAWAII LAB.勢の標榜する「NEW KAWAII」から現在のトレンドを「カワイイ系」と表記していますが、当のアイドルたちは「キラキラ系」とも呼びます。まあ、確かに「カワイイ系」だとパフォーマンスの幅が狭まってしまうし、KAWAII LAB.にジャンルを代表されてしまいそう。「キラキラ系」の方がより広い概念を包括できそうではあります。

中村ソゼの"「面白い曲を演っている」という意味で楽曲派と呼ばれるのもうれしいけど、できれば"アイドル"として観てほしい"という感覚も知っておいてほしい。
1990年代の「アイドル冬の時代」を経て「アイドル」という言葉はどこか悪口のように使われてきました。「アイドルなんて(笑)」と冷笑するようなものだけでなく、「〇〇はアイドルを超えた。アーティストだ。」とか「〇〇はアイドルじゃない。アーティストだ」とか誰かを褒めるためにアイドルを下等なものとして見るような表現もそうです。
対して、「音楽として評価されるのもうれしいけど、アイドルとして観てほしい」という当事者からの言葉。

アイドルというものを低く見る人たちには、「アイドルはやらされている」という感覚が強いのだろうな。自分の意思で「アイドルというアート」をやっている当事者たちを無視して。アイドルの女性プロデューサーたちが透明化されて無視されるのも「男にやらされている」という思い込みの強さから来ているのだろうし。
そして、内山結愛の言う"「今どき冷笑はダサいよなあ」"は、彼女に限らず、色々なアイドルのインタビューやMCから聞くキーワード。


『楽曲派アイドル・ガイドブック』から「カワイイ系」のムーヴメントを作った一人であるヤマモトショウへのインタビューより。
――となると、アイドルってもどかしい存在でもありますね。新曲のコンペに参加している子もいるんだろうけど、たいていの場合、自作曲ではないし、作家も選べないから、「私が歌いたかった曲を誰かが歌っている」みたいなことが起きかねない。
だからこそクリエイターや運営は、そんなことを思わせないほどにその子を魅せるための箱を責任を持って作らなきゃいけないんですよね。なんて言えばいいんだろう? 僕らは監督や脚本家でアイドルは作り上げた物語を演じてくれる俳優というイメージ。映画のセリフを聴いて「あ、これ俳優の〇〇さんがしゃべってる」って思われたらもう終わりじゃないですか。
~(中略)~
アイドルについても同じで、本名のその子ではなく、"ステージに立っている人"がいい曲を歌っていることに疑問を持たれないような設定を作っていくのが僕らの仕事なんです。ただ、これって芸能の世界では実は普通なんですよね。今はシンガーソングライターという存在が話をややこしくしてますけど(笑)。
アイドル楽曲について語ると、つい背後にいる「大人おとな」と俗に称される運営プロデューサーや楽曲プロデューサーの趣味を若いパフォーマーに押し付けているのではないか? なんて話にもなります。
ヤマモトショウはこの構造を演劇で説明するのですね。監督や脚本家の作劇したものを舞台上で演じる俳優としてのアイドル、と。
演劇で監督や脚本家に対し「おじさんが若い子に趣味を押し付けてる」みたいなことは言われないですよね。これも「アイドルはやらされている」という感覚の強さから来るのでしょう。アイドル本人の意思を無視して。
現在のアイドル業界は芸能界と違って(相対的に)移籍は自由ですから、アイドル自身に"私が歌いたかった曲"があるのならば歌いたい曲を歌っているグループに移籍すればいいし、運営側も良い人材を確保したいのならば音楽はもちろんとして良い"箱"としても提示しなければいけない競争原理が働く。……当然、どんな業界にも意識の低い人はいるでしょうが。


ヤマモトショウは故郷の静岡で地方アイドル〈fishbowl〉をプロデュースしています。これが彼が提示する"箱"ということになるのでしょう。
――ヤマモトさんのそのシンガーソングライター評、大好きなんですよ(笑)。誰もが詞も曲も書けて、ギターも歌も上手い椎名林檎みたいになれるわけではないだろう、という。
自分の言葉と音で自分の世界を100%表現できる人がいるのは事実だし、そういう人は天才だから目だつんだけど、そんな存在、めったにいないですよ。映画の話をするなら、それって、ドキュメンタリーですよね?
――自分の過去や現在について自分で綴って歌っているから。しかもそれがハイレベルだから、みんな憧れるし、自分で曲を作って歌うほうが優れているのでは? という幻想を抱く。
でも、多くの人の手によって作り上げられたフィクションにも名作はたくさんあるんだから、天才になれることを期待して生きるのもおかしな話ですよね。
――それって音楽の世界以外にも見られる傾向ですよね。マンガや絵本であれば絵を描く才能とお話を作る才能って別物のはずなんだけど……。
~(中略)~
音楽だってその思い込みをエポケーしてもいいはずですよね。「クリエイティブも表現もすべてひとりでやらなければ」という固定観念を外したほうがラクに活動できるし、いい作品ができるはずだよなあ、とは思っています。
――美空ひばりだって職業作家からもらった歌詞と曲を歌って名曲を生み出し続けていたわけだし。
そうそう、運営はクリエイターを探してくることやグループの宣伝についてがんばって、クリエイターはいい歌詞やいい曲をがんばって書いて、アイドルはがんばってその曲を魅力的に表現すれば十分戦えるはずですから。
今の時代、日本に限らず、フィクションをフィクションとして楽しめない人が多すぎるように思うのですね。ノンフィクションでドキュメンタリー「と見えるもの」こそがリアルで本物。多様な人の手を介して作られる「作り物」は偽物フェイクであるかのように語られ、冷笑される。
現実リアル虚構フィクションは切り分けて遊んだ方が良いと私は最近特に思う。応援はあっても、人生そのものを消費に換えて商品化しようとする「推し活」とか良くない。
現実と虚構を切り分けて遊べないからフェイクが現実を浸食していくのじゃないのかな。


リンクしてあるのは、sombrの『back to friends』。

2025年を代表する世界的な(本来の意味での)アイドルは男性だとsombrになるのでしょう。2005年生まれのシンガーソングライターな彼が24年12月に発表した『back to friends』は一年通してBillbordチャートに入り続ける大ヒット。


普段の年ならプロレス界隈のみの盛り上がりだったのに、2025年のプロレス大賞は主催の東スポだけで様々なメディアで注目されました。

年間MVPに選ばれたのは上谷沙弥(STARDOM)。これまで男性ばかりだったMVPの初の女性受賞者となります。


年間最高試合賞は2025年上半期のプロレスを盛り上げたOZAWAと清宮海斗の一戦(NOAH、1月1日GHCヘビー級選手権)。
最優秀タッグ賞はYuto-Ice&OSKAR(NJPW)
殊勲賞はDDT所属でありながら米国AEWと新日にも参戦するKONOSUKE TAKESHITA(DDT/AEW/NJPW)。
敢闘賞はフリーランスとして女子プロレス各団体に参戦して話題を作るSareee
技能賞は現役引退を控えた棚橋弘至(NJPW)。
新人賞はTHE RAMPAGEに所属しつつプロレスに参入した武知海青(DDT)。
そして女子プロレス大賞は当然ながら上谷沙弥。

今年(2025年)のプロレス、特に女子プロレスが注目されたのは、上谷沙弥がマス向けメディアであるテレビで新しいスターとして取り上げられる機会が増えたからでしょうが、なんだかんだ言っても「テレビ」の力って大きいですよね。
で、今年のプロレス大賞で私が注目したのは、格闘技ではなくダンスをバックグラウンドとして登場したプロレスラーたち。新人賞の武知海青は当然ながら現役のダンスパフォーマーですし、MVPを争った上谷沙弥とOZAWAもダンサー出身です。
ひと昔前までは「プロレスはダンスじゃねえぞ」なんて怒られたものですが、今年のプロレスは女子も男子もダンサー出身者が盛り上げた事実があります。


プロレスラーとしては新人の武知海青のために、入場曲『BREAK IT DOWN』MVには国内各団体のレスラーたちが集まりました。

上谷沙弥がバラエティ番組の一コーナーではあるもののプロレスを披露した際には「TBSでは51年ぶり、地上波23年ぶりの女子プロレスの生中継」と話題になりました。
プロレスは2000年代に入ってから長い間日本では「冬の時代」が続いていたわけですが、2024年の『極悪女王』の地均しを経てようやく「地上」に出れたということなのでしょう。

最近、私が気になっているのは、世界三大プロレス大国といえば米国・メキシコ・日本ですが、この三国以外におけるプロレスの復興傾向について。
例えば、現代日本プロレスの創業者とされる力道山は朝鮮半島出身で、韓国でも1970年代まではプロレスの人気はあったはずですが、キム・イルとキム・ドク(日本でのリングネームは大木金太郎とタイガー戸口)の後に続く名前が出てこない状況が長く続いてきました。しかし、ここ数年、新しいプロレス団体として2018年に設立されたPWS Korea(Pro Wrestling Society Korea)が徐々に人を集められるようになってきて、客席を見ると子どものファンが多いのに驚きます。
日本とメキシコを除く世界各国はどこも、自国のプロレスが衰退し命脈を細々と保つばかりになった後に市場を米国WWEが制覇し、歴史の断絶からどこの国でもローカルなプロレスすらも「WWEごっこ」になり、国によってはプロレスそのものがWWEと呼ばれる(例えば「日本のプロレス」を見て「日本版WWE」と呼ぶ)ような状況がありました。全てがWWEになってしまうのかな、なんて2010年代までは思っていたのですが、WWEごっこではない独自のプロレスが各国で復興し、再び各国固有のプロレスの歴史に接続したら面白い。
そんな時、WWE式ではない日本とメキシコのプロレスを教える立場として、昔の知人たちが世界各地を伝道師かのように旅しているのを知ると感嘆します。

個人的に2025年に気になったプロレスラーは、WWEが登場させた新キャラクター、El Grande Americano。

メキシコ湾改めアメリカ湾からやって来た謎のマスクマン。
この色々と微妙な時代に、AIで作ったチープな存在しない歴史、偽史をキャラクター化したプロレスラーは興味深い。
エル・グランデ・アメリカーノ=大アメリカ人とは米国に呑み込まれたメキシコ人なのか、それともメキシコに呑み込まれた米国人なのか。
私はプロレスを伝統芸能化していない生きた民俗芸能だと思って観ているのですが、このキャラクターは民衆のどのような想像力に寄り添ったものなのかストーリー展開が気になります。


今回、紹介するのは、藪耕太郎の『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか 大正十年「サンテル事件」を読み解く』(2025年)。

1921年に来日し柔道家たちに異種格闘技戦を挑んだ米国人プロレスラーのアド・サンテル(Ad Santel)を軸に近代柔道とプロレスの関係を記した本ですが、読みながら、何だか懐かしい気持ちになりました。
私の若い頃も異種格闘技戦ブームの時代だったので、うさんくさい山師な興行主やドサ回り、各国の民俗的な武術道場への体験入門とか、色んなことあったな、と。日本人の特権として、どこの国でも日本人は戦闘民族として一目置いてくれるので、するっと中に入れてしまう。
著者の藪耕太郎は1979年生まれの立命館大学出身ということは、76年生まれの棚橋弘至とは同世代か。
2025年現在、日本最大のプロレス団体である新日本プロレス社長の棚橋弘至は立命館大学、スターダム社長の岡田太郎は同志社大学のプロレス同好会出身。棚橋弘至がプロレスラーになる頃は学生プロレス出身者はプロレスの世界では嫌われるしいじめられるなんて言われていたけれど、男子と女子の日本最大手がどちらも学生プロレス出身者が社長になるのだから時代は変わりました。

そんな本の中からサンテルと講道館の対決に至る主筋からではなく、コラムとして挿入された「職業レスリングからプロレスリングへ」より。
近代スポーツの歴史を辿ると、アマチュアが誕生してからプロが登場する、というパターンが多い。ただし中には例外もある。そのひとつが近代レスリングだ。その発祥には不明な点も多いが、大別すると、一方にはフランスのサーカスを発祥とする、投技主体の大陸ヨーロッパ型レスリングがあり、これは後のグレコローマン・レスリングへと繋がる。他方、イギリスのランカシャー地方を中心に発展し、多彩な関節技と攻防の自由度の高さから、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(手あたり次第)」(以下、「CACC」)と呼ばれるスタイルもあった。グレコローマンと並んで現在ではオリンピック種目となっているフリースタイル・レスリングは、CACCを祖としつつ、アメリカでスポーツライクに発展したカレッジ・レスリングに由来するものだ。
近代スポーツとしてのレスリングは二つの流派があり、現在のオリンピックでもグレコローマンとフリースタイルに分かれて競技されていますが、この二つは同じ競技から分かれたのではなく、グレコローマンは(ヨーロッパ)大陸式で、フリースタイルは英米式と出自が異なります。なので、流派というよりは相撲と柔道のように異なる格闘技だと考えた方がよいのかもしれません。
どっちが相撲で柔道か? となると、グレコローマンが相撲でフリースタイルが柔道と見ると分かりやすい。

レスリングがサーカス発祥だと聞くと不思議に思う人もいるかもしれません。Greco-Romanとギリシア・ローマ式レスリングを名乗りますが、古代のレスリングとの連続性は無く、街の腕自慢たちの祭りにかこつけた半ば喧嘩騒ぎの格闘に、フランス人で元兵士のサーカス興行主ジャン・エクスブライヤが1848年に共通ルールを作ったのが始まりで、この共通ルールが出来たことで格闘技興行が国境を越えて打てるようになったのです。そこにいかにも伝統があるかのように見せるためにグレコローマンを名乗るようになったとされています。
英米式のフリースタイルも始まりは似ていて、英国での腕自慢たちの祭りの日の「手あたり次第(Catch As Catch Can)」の力比べが洗練化され、米国でスポーツ化して現代のレスリングにつながるとされます。

"近代スポーツの歴史を辿ると、アマチュアが誕生してからプロが登場する、というパターンが多い"のに対し、近代スポーツの概念が確立する以前から存在するプリミティヴなスポーツ…例えば、日本人に分かりやすく言えば、まずお祭りでの賞金付きの草相撲があって、それが全国共通ルールで大相撲となる。そして相撲が仮にスモウ・レスリングとしてオリンピック競技になれば…とイメージすれば、近代スポーツとしてのアマチュアレスリングと興行としてのプロレス成立までの過程が分かりやすくなるのではないでしょうか。
開拓時代の西部では、殴る・蹴る・絞める・捻るに加えて、目潰しから耳削ぎ、頭突き、噛み付き、その他あらゆる攻撃が許容される喧嘩や決闘の習慣があったという。やがて各地に小規模な町が形成されると、各町を代表する「親方ブリー」と呼ばれる屈強な喧嘩自慢が登場し、町同士の代表が闘って互いの力を誇示していた。同時にこうした闘いは観客を動員してのお祭り興行としての一面もあり、やがて喧嘩自慢たちは見世物一座に加わって巡業するようになる。
これが格闘技興行のどこの国にもあった原風景。
娯楽に乏しい開拓時代のアメリカ大陸では、武器を使わず素手で行なう喧嘩が最大の娯楽の一つであり、こうした祭りの日に開催される草相撲ならぬ草喧嘩が徐々に興行化し、喧嘩自慢は見世物一座のサーカス団の巡業稼業に加わる一方で、町に残った"親方ブリー"は裏稼業にも通じた町の顔役の一人として興行のプロモーターとなって、後に言う「テリトリー」の初期段階を形成していきます(「テリトリー」は日本語に訳すなら「シマ」とか「ショバ」の概念が近い)。

興行として成立させるためにはレスラーが毎試合ごと怪我をするのでは商売にならない。徐々にルールは整備されていきます。
その後、南北戦争以降の三〇年間で、初期に見られた粗暴な闘争は様変わりしていく。町々を巡業するカーニヴァルは都市を拠点とする定期的なイベントに変わり、また観客層も骨が折れ血が迸る粗暴な戦いを好む荒くれ者の自営業者から、仕事の疲れをいやす程度の刺激を求める賃金労働者へと代わった。関節の取り合いやフォールの奪い合いなど、細かな技術の応酬を旨とするCACCの人気の高まりは、こうした社会変化に呼応している。スピーディでテクニカルなCACCは凄まじい勢いで資本主義社会が形成される〈金メッキ時代〉のアメリカと合致していたのだ。
南北戦争は1861年から65年にかけて戦われますが、戦後の米国は急激な経済発展を遂げます。
1870年代から90年代にかけての米国はマーク・トゥエインの本のタイトルからGilded Age(金メッキ時代、もしくは金ぴか時代)として知られます。
経済発展によって米国社会は急激に変化し、粗暴な荒くれ者の時代は終わり、単なる喧嘩自慢ではない、英国から舶来した上品でテクニカルな格闘術としてCACCが導入されてキャッチ・レスリングとなり、興行としても洗練されて現代プロレスにつながっていきます。
その一方で、CACCは体育にも取り入れられ、学生がやっても健全なカレッジ・スポーツとしてのアマチュア・レスリングへと分岐していったのですね。
この点でアマレスの形成期は、日本における柔術から柔道への変化と時代をほぼ同じくしており、『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか』というタイトルになるわけです。
アメリカの職業レスリングを見舞った最初の危機は一九〇〇年代前半に起きた。八百長試合の発覚である。このとき職業レスリングには非洗練的あるいは反都会的という刻印が捺され、
~(中略)~
職業レスリングの試合は少なからずスポーツを装ったフェイクである、という認識が広く共有されるようになる。二〇世紀に至ってなお、前時代的なサーカス芸が横行していたこともそれに拍車をかけた。とはいえ、中にはリアルファイトも混じっているとも思われていたし、なにより試合の結末が決まっていようがいまいが、職業レスラーがCACCの専門家である以上、その実力に疑いはなかった。
金メッキ時代を過ぎ、20世紀に入る頃には、現代プロレス成立まであと一息。
経済発展した米国にヨーロッパのレスラーたちが次々と海を渡って集まり、1905年にはThe World Heavyweight Championship(統一世界ヘビー級王座)が制定されて世界一を決める試合と称して興行が打たれるようになりました。初代の王者はジョージ・ハッケンシュミット。エストニアからやって来たレスラーです。
この世界王者ハッケンシュミットのライバルがアメリカ王者のフランク・ゴッチ。1908年4月3日に行なわれた両者の戦いは多くの観衆を集めた注目の一戦でしたが、(広義の)プロレス史に残る疑惑の一戦となり、それまでの数々の八百長疑惑の総決算となって米国の職業レスリング興行は失速。「フェイク」の概念が広く認識されるようになったのです。

ただ、興行にはフェイクも含め「虚実入り乱れるものだ」という共通認識が行き渡ったことで、1910年代から20年代にかけ、
この頃、現在私たちが知るプロレスが誕生する芽があった。
~(中略)~
実力よりも見た目の分かりやすさが重視されるようになり、ルックスに秀でた美形のレスラーが登場するようになっていく。その傍らでは、まるで一九世紀の見世物小屋が復権するかのように、いわゆる〈怪奇派フリークス〉レスラーも登場した。シナリオが本格的に導入されるのもこの時期だ。ある職業レスラーは、当時の様子を次のように振り返る。「レベルの高い試合をすると、退屈で飽きられ、観客に嫌われてしまう。だから、ほとんどの試合はフェイクをやり切るしかない。フェイクが観客にバレてもなお、フェイクの試合を受けたよ。(中略)全く厳しいゲームだ。どう転んでもどうせ間違いなんだから」。レスラーありきの試合から観客ありきの興行へと、職業レスリングは舵を切ったのだ。
1914年から18年にかけて戦われた第一次世界大戦はヨーロッパを疲弊させる一方、無傷のアメリカ大陸は繁栄を謳歌します。多くの移民がアメリカ大陸に流れ込み、世界各地から腕自慢の格闘家たちもやって来ます。その中には日本の柔道家たちも。
この結果、レスラーに様々な独自のキャラクターを割り振って対決させる現代プロレスが誕生するわけです。
異なる出自とキャラクターを持つレスラーを対決させつつ、観客を盛り上げて試合を成立させるためには、当然ながら、レスラーたちには「お約束」の共通認識が必要となります。
一九三〇年代になると、プロレスの約束事を理解することは観戦上の作法にすらなる。やや長い引用だが当時の記事を提出しよう。
として1932年の『Collier`s Weekly』誌に掲載されたビル・カニンガムの「The Bigger They Are」という記事を引用しています。
……原文を探したのだけど前半部分しか見つけられなかったので私自身で確認してはいないのですが。また文中に加えられた訳注はカットして二次引用します。
おそらく最も驚くべき点、それはファンたちがこれらの物語を幾度となく見て知っているにもかかわらず、なお同じようにショーに集まるということだ。〈良きプロレスの街〉でプロレスの観客を観るのは勉強になる。彼らはパフォーマンスのルーティンを完璧に理解しているように見え、彼らの行動は初心者にも帰り支度を始めるタイミングを正確に教えてくれる。
このドラマはほぼ三幕構成で上演される。第一幕では、最終的な勝者が攻撃的な姿勢を示し、清潔かつ紳士的な方法で優位に立つ。彼は粗暴な対戦相手の卑怯な手口をものともせず、速さと技術、そしてスポーツマンシップで観客の支持を獲得する。
第二幕では、粗暴な対戦相手が徐々に攻勢を強めていく。主人公は反撃を仕掛け、戦いはほぼ互角ながらも、対戦相手の汚い戦術が徐々に奏功し始める。第三幕では、最終的な勝者が対戦相手の残虐で不当な戦法により不利に追い込まれていく。彼はリングから叩き出されたり、残酷にも後頭部にパンチを貰ったり、膝蹴りを食らったり、痛々しくも股を裂かれたり、あるいはそれ以上に散々な目に遭う。
人として許容できる限界にまで達し、観客が粗暴な対戦相手に野次を飛ばし、疲労困憊する被害者には同情の声を上げる中、被害者は突如として凄まじい〈フライング・タックル〉でマットから飛び掛かり、一〇ガロンのアイスクリームよりも冷徹に対戦相手を打ちのめす。
重要なのは、お気に入りのレスラーが完全に力尽きたようにみえるや否や、大都市の観衆は帽子やコートに手を伸ばし始めることだ。それがショーの終わりを告げる合図だと彼らは経験的に知っているのだろう。しかし、彼らは来週また戻ってくるのだ。それもほとんどが友人を連れて。
なぜか?
なぜなら、それが何であろうと、あるいは何かでなかろうと、それは見るに値する刺激だからだ。
1930年代に形勢逆転のフライング・タックルを必殺技としていたのはガス・ソネンバーグ。
NFLのプロフットボーラーからプロレスに転向したアメフト仕込みのタックルがソネンバーグの売りで、格闘技をバックグランドとしてしていないキャラクターありきのプロレスです。

百年近く前に書かれたこの"三幕構成"のプロレスの試合展開フォーマットは今も基本的には変わっていませんよね。これはプロレスだけでなく、例えば、アクション映画の戦闘シーンでも基本は同じですから「観客の求めているもの」がこれなのでしょう。
プロレスについて話せば必ず「プロレスって八百長だろ」と冷笑してみせる人が現われます。でも、そもそもプロレスには、プロレスが誕生したその瞬間から八百長という概念は存在しません。それも昨日今日の話ではありません。"プロレスの約束事を理解することは観戦上の作法"としつつ、"それは見るに値する刺激だからだ"と、プロレスというエンタメをショーとして楽しんできた百年の歴史があるのです。
その上で、帰り支度と伸ばした手を思わずマニアでも止めるようなプロレスを創り出そうと、プロレスラーたちは命を懸けてもいるのです。

ただ、「お約束」とか「お作法」が必要なエンタメはハイコンテクスト。マニアだけじゃない大衆的人気を得て維持するには絶妙なバランスが欠かせないのが難しい。
今の日本の大衆マスが、ハイコンテクストなエンタメを理解できるかどうかは疑問なんだよな。



2025年も年末となり、様々なジャンルで今年を振り返る記事やランキングが出ていますね。
日本の洋楽誌ではスペイン出身のROSALÍAが高く評価され、『MUSIC MAGAZINE』では彼女のアルバム『LUX』がポップ部門1位、『rockin'on』では全体6位。

活字メディアもオールドメディアだとかいう不思議な言葉に含まれて雑誌を読む人も少なくなったようですが、自分の視野に入ってこないジャンルについて知るきっかけになると思うんですよね。インターネットは結局のところ自分が知っていることしか知らせてくれない。

『MUSIC MAGAZINE』のラテン部門1位はメキシコ出身のSilvana Estradaの『vendrán suaves lluvias』でしたが、もし、私が今年、スペイン語圏の音楽としてアルバムを一枚、ラテン音楽を普段は聴かない人に紹介するとすれば、Mon Laferteのアルバム『FEMME FATALE』かな。
『MUSIC MAGAZINE』に寄稿するような人たちと私の趣味は合わないけれど、でも、だからこそ知識の拡張が得られる。

モン・ラフェルテは出身国のチリでは最も米国グラミー賞に近いチリ人歌手として知られますが、活動拠点はメキシコ。

リンクしてあるのは、Mon LaferteとNathy Pelusoの『La Tirana』。

このMVを懐かしく感じるのは、私がメキシコの場末を面白がって飲んだくれていた若い頃を思い出したわけじゃなく、昭和のムード歌謡ムンムンなところ。
アルバム『FEMME FATALE』全体としてもラテンアメリカ人だけでなく日本人にも懐かしさを感じられるはず、と昭和生まれだけど昭和の夜は知らない世代の私が紹介します。
日本の昭和歌謡がメキシコ音楽の影響下にあったのは明らかですが、ラテン音楽を聴く日本人の間では逆転してモン・ラフェルテの楽曲を「ラテン演歌」なんて表現する人もいます。彼女自身も知っているのか『Antes De Ti』と演歌を意識した曲を発表していますし、『Paisaje Japonés(日本の風景)』と名付けた曲も私が幼い頃に流れていた歌謡曲っぽい。
そんな彼女の楽曲がグラミーを獲ったらチリ人やメキシコ人だけでなく日本人にとっても面白いとは思いませんか。是非、これまで知らなかった人がいれば過去の曲も含めて聴いてみてください。
そういえば、ROSALÍAには逆に日本の場末感を旅する『TUYA』があったな。
地上波のテレビ局が予算の掛かる時代劇を作れなくなった代わりに、大作時代劇が公開される場として、NETFLIXはじめとするインターネット動画配信サービスが主戦場となっています。

NETFLIXドラマ『イクサガミ』の公開は楽しみにしていたのだけど、なんだか残念だったな。

明治時代を舞台に、幕末維新期を生き残ってしまった剣豪や忍者たちが京都から東京まで東海道を旅しながら死闘を繰り広げる今村翔吾原作の時代小説『イクサガミ』は明らかに時代劇としての映像化を狙った「親切な」小説で、プロデューサー兼主演の岡田准一は「新しい時代劇を作る」と意気込んでいたのに、うーん……。英語吹き替えで見れば良かったかな。一枚フィルターを嚙ませれば。

今村翔吾作品の次の映像化は、江戸時代を舞台に羽州新庄藩の大名火消を描く『羽州ぼろ鳶組』のアニメが控えています。

日本のWOWOWとLeminoが大作時代劇として公開するのが北方謙三原作の『水滸伝』。

北方謙三の小説は二十年くらい前に読んだきりだけど、解釈が面白かったと記憶しています。

ただ、日本の新作時代劇に期待しながらも失望を繰り返すのはなんだろう。出来の良い作品なら世界が喜んで買うだろうにと期待が大きすぎるのかな。
まあ「新しい時代劇」はまだトライ&エラーの時期なのでしょう。トライすることに冷笑を浴びせるようなことはしたくない。今の日本で最も不要なものが冷笑だと私は思っていますので。


清水克之の『室町ワンダーランド』第五章の「歴史ドラマの現実味」より。
歴史学者である僕によく投げかけられるのが、「歴史を好きになったきっかけは何ですか」という質問。これは、もう何度も同じ答えを繰り返しているのだが、小学校三年生のときに見た歴史ドラマ「関ヶ原」(TBS系、一九八一年正月放送)がきっかけだ。
~(中略)~
そんなわけで、僕はこのドラマがVHSビデオになったときにすぐ買って、DVDになったときもすぐ買って、何度となく視聴して、いまではほとんどのセリフを覚えてしまっている。
~(中略)~
ただ、これをウチに遊びにきた学生などに見せると、悲しいことに、あまり反応がよろしくない。とくにBGMがメロドラマ調で、古臭く感じるらしい。あとは、俳優が過去の人たちばかりなので、あまり親近感を覚えないようだ。「なんでこの良さが分からないんだ!」と説得を試みたこともあったが、最近では、もうこれは仕方のないことなのかな、と思うようにしている。

そういえば、昔は年末年始に民放各局が大型時代劇を用意していたものでした。
1981年1月2日から4日にかけての三夜連続でTBSが放映したのは司馬遼太郎原作の『関ヶ原』。
主役となる石田三成を演じるのは加藤剛で、相対する徳川家康は森繫久彌。三成腹心の島左近は三船敏郎で、家康腹心の本多正信は三國連太郎。
よく年配の歴史ファンほど「最近の歴史ドラマはいい加減だから……」とボヤく人がいるが、それは偏見だ。僕が見たところ、歴史ドラマの時代考証は、どれも昔に比べて格段に正確になってきている。
~(中略)~
比べると、近年の大河ドラマなどは、衣装もセットも台詞も極めて厳密に作られている。よく「むかしの俳優のほうが頭身が低くてリアリティがある」などと言う人もいるが、そもそも僕らに戦国時代の記憶はないのだから、それは後づけの理屈だろう。たぶん年配の方々が最近の歴史ドラマにリアリティーを感じなくなるのは、時代考証や俳優の演技力の問題などではなく、演じる俳優との年齢関係に影響されているのではないかと思う。
僕自身も、いまだに「関ヶ原」のおかげで徳川家康は森繫久彌以外には考えられないし、織田信長を自分よりも年下の俳優が演じるようになってから、どんな歴史ドラマにもむかしほど没入できなくなっている。きっと初見の"刷り込み体験"に加えて、歴史上の人物はつねに自分よりも"年上"でなければならない、という変な思い込みが根底にあるような気がする(実際、僕らよりも四百歳ぐらい年上には違いないのだが)。
だから、旧ジャニーズ事務所の若い俳優さんなどに戦国大名を演じられると、たとえ役柄の年齢と俳優の年齢が一致していたとしても、なんとも言えない落ち着きの悪さを感じてしまう。頭では理解できるのだが、最後まで残るこの違和感。
現在の歴史劇(フィクションを前提とする時代劇ではありません)のTVドラマは、昔に比べるとしっかりと時代考証を入れて作られているのは歴史学者からもお墨付きです。
だけど、昭和に作られたTVドラマのほうが何故か史実っぽく見える。それは子どもの頃の刷り込みと年齢関係の変化にあるのではないか、と清水克之は言います。
これは俳優だけの話ではありませんよね。例えば「昔の政治家や財界人には貫禄があった。それに比べて今の政治家や財界人は小粒だ」みたいなことを言う人がいます。たぶんそれも、自分よりもずっと年上の存在だったイメージと、世代交代で年下が増えていく現実の誤差が作用しているはずです。
ましてや、貫禄があってほしい歴史上の偉人たちに年下の俳優がキャスティングされるようになるとどうしても軽く見えてしまうものなのでしょう。
……私も分かりますよ。年下ではないけど『水滸伝』が織田裕二と反町隆史だと、若い頃に刷り込まれた「トレンディドラマ」のイメージが邪魔をする。

また、昔の人たちは現代人と比べてもっと頭身が低かったとか、老いるスピードが早かったというのも一面の事実ではあるのでしょうが、当時の武士層は当時の庶民層より相対的に栄養状態が良いのだから、現代において庶民より若々しく背の高い俳優がキャスティングされても別に不自然ではないはず。

1971年生まれの清水克之が、旧ジャニーズ事務所出身の"自分より""若い俳優さん"で意識しているのは、同じ司馬遼太郎の小説を原作とする2017年公開の映画『関ヶ原』で主人公の石田三成を演じた1980年生まれの岡田准一なのかな。

2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では岡田准一は織田信長を、主人公の徳川家康を1983年生まれの松本潤と、旧ジャニーズ出身者が演じています。

史実の石田三成は41歳で関ヶ原ですから、ほぼ"役柄の年齢と俳優の年齢が一致"していますし、織田信長は49歳で本能寺なので四〇代の俳優が演じるのが年齢的に自然。
織田信長を描く作品で最初の山場となるのが、桶狭間の戦いを前に「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」と舞う場面でしょうが、50歳以上の年齢の人にとって歴史上の人物のほとんどの(生年に諸説あるとしても)当時の年齢は年下で、俳優の年齢を一致させるならば当然そちらも年下になるわけです。
晩年の豊臣秀吉は老いて耄碌した姿で描かれますが、朝鮮出兵時の秀吉は55歳ですし、関ヶ原に臨む徳川家康は57歳。2025年現在、彼らを年齢で配役するのなら1967年生まれの織田裕二辺りの世代が適齢期なんじゃないですかね。
自分が若い頃に観たドラマのなかの俳優ほど、貫禄ある歴史上の人物としてリアリティーを感じてしまう心理。とりあえず僕は、これを歴史ドラマの「想い出補正」と呼ぶことにしている。
~(中略)~
自分の内なる「想い出補正」を客観化できないと、本当の議論がとても難しい。僕らが歴史に感じるリアリティーの正体は、意外に不安定なものなのだ。
"思い出補正"は意識して客観化しアップデートで修正し続けないといけませんよね。そうしないと「老害」になってしまう。

……「おじさん/おばさんになると最近の若い俳優やアイドルの顔が区別つかない」なんて言う人もいますが、私もおじさんですが全くそんな風に思ったことがない。覚えようとしながら見ているわけじゃないから顔と名前が一致するかといえば曖昧だけど、顔の区別がつかないとは思ったことがない。あれって結局のところ「年下の顔なんて覚えてやるものか」という見下しなんですかね?
私が個人的に歴史ドラマのリアリティーとしてあってほしいと望んでいるのが、風土に根差した顔や所作を持つ配役。その土地で育ったからこその顔や所作ってあるじゃないですか。例えば、織田信長とその家臣団なら尾張だけじゃ狭すぎるにしても名古屋文化圏で育った俳優たちで固めて領域の拡大につれて顔の種類が増えていくような配役を見たい。毛利軍は広島文化圏、武田軍は甲信出身者と。
ただ、今でも「最近の若い俳優やアイドルの顔が区別つかない」と"年下"を拒否する人たちはそうなるとますます混乱しそうです。


Disney+で2024年から放映された『SHOGUN 将軍』で時代考証を担当したフレデリック・クレインスの『戦国武家の死生観』(2025年)の「はじめに」より。
二〇二一年、お正月を過ぎたところで、突然一通のメールが届きました。真田広之主演の新作ドラマ「SHOGUN 将軍」の時代考証を担当してほしいという内容でした。私は思わず目を疑いました。その作品は、かつて世界中で大きな反響を呼び、私を日本の歴史の世界へと誘った物語でした。
~(中略)~
三年に及ぶ時代考証の作業は、戦国武将の生き方や精神性を丹念に掘り起こす旅でした。クリエイターやスタッフとの議論を重ね、衣装や文化的要素の細部にいたるまで史実に忠実であることにこだわりました。その努力は実を結び、ドラマは高い評価を受け、海外の視聴者に戦国時代の武家文化の深みを伝えることができました。
フレデリック・クレインスは1970年生まれのベルギー出身。日文研(国際日本文化研究センター)に在籍して日欧交渉史を専門としているので三浦按針を主人公のモデルとする『SHOGUN 将軍』の時代考証担当としてこれ以上ない適任者だったのでしょう。


そんなクレインズが歴史学者となるきっかけとなった作品は、ジェームズ・クラヴェルが1975年に発表した小説を原作として1980年に米国NBCが放映し、少し遅れてヨーロッパでも放映されたドラマ『SHOGUN』だと言います。

ベルギーの少年が日本を舞台としたTVドラマに魅せられ、長じて日本で歴史学者となり、『SHOGUN』のリメイクに関わることになったわけです。
歴史学と歴史エンタメ作品は当然ながら区別すべきですが、でもそんなエンタメ作品が未来の歴史学者を生む。2024年の『SHOGUN』も日本国外で未来の日本史学者を生むかもしれませんね。

また、『SHOGUN』の成功は、続きを見たがる日本国外の視聴者に映画『関ヶ原』を売り込むこともできたようです。徳川家康をモデルとする主人公の『SHOGUN』と石田三成を主人公とする『関ヶ原』の描き方の違いは日本人以外には混乱を招いたよう。しかも『SHOGUN』で敵役となる石田三成をモデルとする石堂を演じた平岳大は『関ヶ原』では島左近を演じてますから。
しかし、その一方で、国内からは意外な批判の声も上がりました。「武士はもっと礼儀を重んじ、民衆を守る存在だった」「暴力的すぎる」「そんなにすぐに切腹しなかったはず」。これらの指摘に私は戸惑いを覚えました。
なぜなら、史料に記された実際の戦国武将の姿は、まさに激情的かつ衝動的、時に暴力的で、そして確かに、驚くほど頻繁に切腹を選んでいたからです。
こうした国内における反応の根底には、潜在的な歴史的誤解があります。現代の日本人が思い描く武士像は、実は江戸時代につくられたイメージなのです。戦国時代と江戸時代の武士――同じ「武士」でありながら、その精神性は大きく異なっています。
2024年版『SHOGUN』は1980年版『SHOGUN』にあったオリエンタリズムを意識して排していると真田広之はじめとする日本人出演者たちは語っていました。
ところが、日本"国内からは意外な批判の声も上が"った、と。その理由を現代日本人一般の武士像が、"江戸時代につくられたイメージ"で誤解されているからではないかとクレインズは言います。

とは言うものの、"暴力的"じゃない武士像が私には分からない。武士だけじゃなく民衆も現代の日本人からすれば想像できないほどに劇情的で衝動的で暴力的だったのが過去の日本のはず。

清水克之も『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(2021年)の「はじめに」でこう書いています。
彼らは、自分の利害を守るために「自力」で暴力を行使することを、必ずしも"悪"とは考えていなかった。やられたらやり返す。場合によっては、やられてなくてもやり返す。しかも、そうした衝動の発露を美徳とするようなメンタリティーを、彼らは持ち合わせていた。それは武士だけに限ったものではなく、僧侶や農民にまで通底するものであって、彼らは常日頃から刀を身に帯びて、往来を闊歩していた。加えて、彼らは同じ仲間が蒙った損害を、みずからの痛みとして受け止め、万一、仲間が他の誰かによって傷つけられたときは、寺院や村をあげて集団で報復に乗り出す。それは、もう立派な戦闘行為という他ない。歴史教科書をみると、この時代は「〇〇の変」とか「××の乱」といった政変、戦乱が目白押しだが、それは史書に名をとどめたほんの一部の話であって、当時の社会では、現実にはそこかしこの様々な階層の間で、無数の無意味で名もない「変」や「乱」が巻き起こされていた。
この本の帯には「日本人が温和なんて大嘘!」とありますが、民俗史料を読んだり、現場に立ってみると、過去の日本の権力者層や治安関係者がいかに日本人から暴力という牙を抜くのに注力してきたのかを強く感じられます。
そんな彼らの努力の結果、日本人は日本人の自己イメージとして「温和」だと思い込むに至ったのでしょう。昭和の時代だってまだ覚えている人は生きていますが現在よりはるかに暴力的だったはずです。

例えば昭和の空気感として、佐藤愛子のエッセイ集『老兵の消燈ラッパ』に収録された2010年初出の「ロバちゃん山羊ちゃんのお話」より。
かつてこの国では、いや、この国だけではなく世界のどの国でも、男の値打ちは「男らしさ」にあるとされていた。男たる者は闘争的野心的で、意地と誇と責任感に富み、弱い者を守る力強い存在でなければならない――。そう教えられ、そうなるために努力するものであった。
その一方、女の方は、そんな頼もしい男、自分たち弱い者を守ってくれる男たちを憩わせ慰め、活力を与える蔭の力として必要な存在とされていたのである。
思えば長い歴史だ。女の立場からいうと男の専横に仕える忍従の長い歳月だった。日々の糧を得るために必要なものは何より「力」だという時代だったから、生物学的に非力な女性は男性に依存するしかなく、そこの心の奥はともかくとして、それなりに均衡を保っていたといえるのである。
その頃女が憧れたのは「男らしい男」だった。男らしいということはまず「力がある」ということだ。私が育った村ではお祭りの力くらべで米俵を三俵担いだという大工がいて、私たちはそれだけで彼を尊敬した。喧嘩に強いということも男の値打ちのひとつだった。学校ではいつもクラスで一番の優等生よりも、喧嘩に負けたことのない力持ちの方が一目置かれていた。屋台の焼芋屋のおじいさんを虐めているやくざのチンピラ五人を向こうに廻して殴り合いをし、五人とも叩きのめしたという大学の三年浪人生は「正義漢」や「たいした男や」と褒めそやされて、私たちは敬意を払った。彼の母親は私の家に来ては、
「あんな息子、どもなりまへん。ぐうたらぐうたら寝てばっかりいてからに、それやから三浪しますねん!」
とボロンチョにいっていたが、私たちは「ぐうたらぐうたら寝て」いてもいざとなると正義のゲンコを握って弱きを助けた三浪さんを尊敬したものである。
だが日進月歩で文明が進歩していくにつれて、「力」はとりたてて鑽仰されるほどのものではなくなった。力よりも大事なものは機械文明に即応できるアタマである。米俵三俵いっぺんに担いだ? それが何やねん。フォークリフトで運んだらええのや、ということになった。喧嘩が強いことは何の値打ちもないことになった。やくざを叩きのめしても、一緒に警察に引っぱられて留置所に入れられるだけである。なにがどうあっても「暴力はいけない」のである。
佐藤愛子は1923年生まれ。彼女が"育った村"は現在の兵庫県西宮市鳴尾町から甲子園にかけての一帯。
こうした空気感は昭和末期の時代にもまだ日本社会に薄まりつつも残っていましたよね。時代をさかのぼれば「力」こそが正義を担保するという意識や空気感はより強かったであろうことは想像がつくはずです。

だからこそ、現在の「自力救済」の方向に進みつつある現状は岐路なのだと思っています。結局のところ「自己責任」と「自力救済」は同じものなんですよね。
であれば、再び牙を生やしてアニマルスピリットを取り戻し、その代わりに暴力の横行も認めるかどうかの。
アンチ・フェミニズムでジェンダー規範の再強化を望むような人も少なくないようですが、でも、そうなった時には腕力がものを言う社会になりますが大丈夫ですか?


そういえば、池波正太郎の時代小説『剣客商売』が英国で『The Samurai Detectives』のタイトルで翻訳され少し話題になっています。
ここ数年、英国では日本のミステリー小説がブームになっていて、2024年には柚木麻子の『BUTTER』が英国における外国小説で最も売れた本となり、25年には王谷晶の『ババヤガの夜』がミステリー文学のダガー賞に選ばれました。

英国で日本人の暴力表現が新しいエンタメとして広く受け入れられているわけですが、そこに現代を舞台にしたものだけでなく、時代小説が加わってより広い表現が知られるようになったら面白いな。私たちがシャーロック・ホームズを読むように英国でサムライ探偵ものが読まれると。

春日太一の『時代劇入門』(2020年)第一部第二章の「時代劇ってなに?」より。
「そもそも、なぜ時代劇を作るのか」という話をします。
時代劇なんてべつになくなってもいい、作らなくてもいい、現代劇だけ作っていればいい――という考えの方もいるでしょう。でも、時代劇には作られ続けた方がいい理由があるんです。
それは、「日本人古来の精神を尊ぶため」とか「日本の伝統を知らしめるため」とか、そういう堅苦しい話ではありません。ひと言で言えば、「エンターテイメントの表現手段として、時代劇はとても優れているから」ということです。ようは、時代劇の最大の強みは、現代劇では表現できないことをやれる。
まず、根本の考えとして持ってほしいのは「時代劇はファンタジー」だということです。現代から時間のベクトルを未来に伸ばすとSFになり、過去に伸ばすと時代劇になる。そういう考え方をしてもらえればいいと思います。
~(中略)~
つまり、思いきった嘘がつけるということですよね。――観客に説得力を与えられれば――何をやってもよいのが時代劇。いろいろなイマジネーションを盛り込める場なのです。
~(中略)~
ネット界隈を中心に「あれは史実と異なる」「実際はこうだった」とか指摘してマウンティングしたがる人って結構いますよね。そういうのは無視してください。「時代劇」は「劇」なのですから、楽しんでナンボです。
私が重要視するのは作品として説得力があるかないか、その一点です。
時代劇におけるリアリティとは史実どおりかどうかではないのですね。リアリティを担保するのは「説得力」です。
エンタメ作品として時代劇は現代劇よりもファンタジーとして自由に作ることができ、そこには観客をファンタジーの世界に誘う説得力さえあればいいのです。
その上で、日本の時代劇は他国の時代劇に比べて国外展開に優位があります。サムライとかニンジャは半ばファンタジー世界の住人として説明なしに使えますから大衆向けエンタメとして強い。

……そういえば以前、英国では日本そのものがファンタジーとして楽しまれていると読んだことがあるな。小説などのエンタメ作品だけでなくタブロイド紙の下世話な記事も含めて、こことは違うどこか日常を忘れる場としての「日本」。
時代劇の話ではなく現代劇ですし、英国の作品でもありませんが、平岳広も出演するブレンダン・フレイザーの主演映画『Rental Family』(2025年公開)は、そんなタブロイド紙の日本のネタ記事がどんな風に欧米で消費されているのかの一端が分かるような作品。

ブレンダン・フレイザーは『The Mummy(日本語タイトル『ハムナプトラ』)』シリーズでスターとなりますが、その後、メンタルの調子を崩して一線から離れていました。そんな彼が昔は有名だったが日本に移民した今は売れない俳優役を演じることでキャラクターへのメタな没入感を与えつつ「日本」に観客を誘導するのですね。
映画のプロモーションと復帰の挨拶で米国のTVトークショーをハシゴするフレイザーと司会者の会話を見ていると「日本」への外からの視点について色々と気付かされます。
その意味では『SHOGUN』との連続性も感じるところ。
ドラマ『イクサガミ』を英語吹き替えで見れば良かったかな、と思ったのは知らない国のファンタジーだと一回離れる必要があったのだろうな。

話を戻しましょう。
それから「史実通り」というのがまた曲者で。史実というものは、絶えず歴史学者の中で説が更新されていきます。そうなると、たとえそのときの時代考証通りに作ったとしても、その考証は少ししたら新しい説によって覆されるかもしれない。だとすると、「史実通り」「考証通り」は唯一無二の正解とはいえない。
作り手が面白い作品を作るための選択肢を得るために、史実や考証を学ぶことは大切です。それによって表現の幅が大きく広がることはありますから。でも、そこに寄りかかり過ぎたり、絶対視することは危険です。
観る側も、それは同じ。前にも書いたように、「史実と違っている」と批判する人がいますが、私がそういう人に言いたいのは、「現実と空想の区別はつけてください」。
その当時は史実通りに作ったとしてもその後に主流の学説が変わって史実通りでなくなってしまうことは少なくない。今の時代に昭和に書かれた有名な歴史小説を読むと、当時はそうだったのだろうけど今は違う(とされている)「史実」に引っかかってしまう経験はあるはずです。
難しいですよね。当時はリアリティを出すために史実や考証を学んで活用したはずの記述が時代の変化によって逆に作用してしまうのですから。
"ネット界隈を中心に「あれは史実と異なる」「実際はこうだった」とか指摘してマウンティングしたがる人"には大人の鑑賞態度というよりはかえって「ぼく、知ってるもん」と言いたがる幼児性を感じてしまう。
時代劇を作る理由として「大きな嘘をつける」と述べました。その「大きな嘘」の最たるものが大がかりなアクションです。
これは日本の映画やテレビドラマの現代劇ではなかなかできません。
現代劇で数十人数百人が武器を持って殺し合うようなアクションに説得力をもたせるのは難しいですが、時代劇ならばそういうものだと不自然さは感じないですよね。
また、日本国外にエンタメ作品を売る時にも、日本人が刀を振り回して戦うだけで喜ぶ一定の観客が得られます。まあ、この場合は時代劇でなく現代が舞台であってもかまわないのですが。真田広之の出演した『Jhon Wick』や平岳広の出演した『Giri/Haji』のように。
そして何よりの強みとして、現代の社会問題を盛り込める――という点があります。つまり、現代劇としていまの社会問題を取り上げると生々しくなってしまうことでも、時代劇というフィルターを通すことで「いや、これは昔のことですから」と逃げられるわけです。
実は、江戸時代から既に「現代では描きにくいことを過去の問題に仮託して描く」という手法がありました。あとで詳しく述べますが、「忠臣蔵」がそれです。
「忠臣蔵」の元になる、元・赤穂藩の浪士たちによる吉良邸への討ち入りは、江戸時代の実際に起きた事件です。赤穂浪士・四十七人が吉良上野介の家に乗り込んで討ち果たすわけですが、当時は平和な元禄時代。今でいうテロ的な襲撃事件です。
これを当時、そのまま劇でやると幕府批判になるわけです。しかも「騒乱を起こして吉良上野介を討ち果たす」という犯罪者を肯定的に描いたら、それはもう取り締まりの対象です。
そこで、時代を南北朝時代に置き換えました。吉良上野介を高師直という、足利尊氏の執事だった人間に替え、赤穂藩から伯州の物語に変える。
浅野赤穂藩の浪人たちによる吉良上野介襲撃事件が発生したのは1703(元禄15)年。この事件を題材に採った作品は事件直後から次々と発表されますが、現在の「忠臣蔵」につながるのは1706年に近松門左衛門が発表した『碁盤太平記』。この作品で近松門左衛門は、舞台設定を室町幕府形成期の『太平記』の時代に置き、吉良上野介(義央)を足利尊氏の執事であった高師直、浅野内匠頭(長矩)を伯耆守護の塩冶判官(高貞)として登場させます。吉良家は足利一門であり、江戸幕府では格式と伝統ある「高家」と呼ばれていましたから知る人が見れば一目瞭然。
「忠臣蔵」として完成するのは1748年発表の『仮名手本忠臣蔵』ですが、この作品中でも近松門左衛門による「太平記」設定は踏襲され、「忠臣蔵」の時代設定と人物が事件どおりに書かれるようになるのは「江戸」がリアルタイムではなく「時代」となった明治以降。
こうした、「過去に舞台を移すことで、オブラートに包んで現代批判をする」という手法は伝統的にありました。
映画の世界で時代劇が大きなブームになるのは、大正末期から昭和にかけてです。この時代には、治安維持法によって政府批判の言論や表現に対して厳しい取り締まりが行われるようになっていました。その一方で農村を中心に飢饉は続くし、工場の労働者はひたすら貧しく、貧富の差は開く一方。
といって、現代劇でその状況を批判的にやってしまえば捕まってしまう。そこで登場したのが、「傾向映画」という時代劇でした。たとえば、悪代官からの重税に苦しんでいる農民たちを救うために侍やヤクザが立ち上がるとか、そういう話を作りながら、現代に対する不満や批判を江戸時代に仮託し、庶民の怒りを掬いあげていきました。
「傾向映画」とは1920年代から30年代前半にかけて作られた左翼的な「傾向のある」映画です。
大正デモクラシーを経て、映画を単なる娯楽作品として作るだけでなく社会問題などを含めて描く作品が現われます。
そんな時代背景のなか、1923年に発生した関東大震災によって関東から関西に多くの芸能関係者が一時避難した結果、現代劇を撮っていた東京と時代劇を撮っていた京都の人材交流が行われるようになり、京都で作られていた時代劇にも当時の社会問題や世相を取り込んだ新しい時代劇が生まれるようになりました。
この時代に、剣戟ブームを作り後の時代劇に大きな影響を与えたのが阪東妻三郎主演の映画『雄呂血』(1925年)。
大正デモクラシーの時代が終わり、昭和に入って言論統制が厳しくなっていくと、現代劇で左翼的傾向があると睨まれそうな社会問題を扱う作品は発表が困難となり、時代劇のなかで「傾向」は生き残ったのです。

そういえば冒頭で紹介した一つ、北方謙三の『水滸伝』も彼自身が体験した学生運動を取り込んだ作品でしたね。
そうした作品は戦後になってからもあります。たとえばテレビ時代劇『必殺からくり人』(一九八六年)に、こんなエピソードがあります。越後の貧しい村で育った人間が、悪事を重ねながら江戸に辿り着き、江戸で「闇公方」と言われる地位にまで昇りつめる。そしてかつて越後でひどい目に遭った人が「闇公方を殺してほしい」と「からくり人」という殺し屋チームに依頼します。
この「闇公方」って、ロッキード事件で逮捕された元総理、田名角栄がモデルなんですよ。当時の大権力者です。現代劇で田中角栄そのものや、それと思しき人物を殺す話はいろいろと問題が起きます。でも時代劇なら田中角栄っぽい人間を殺す――ということでエンターテイメントとして成り立つわけです。
時代劇には「悪代官」「悪徳商人」が悪役としてよく出てきます。それは実際に江戸時代にそういうのがたくさんいた――というより、そうした人間に対する庶民の怒りがぶつけられているわけです。
"ネット界隈を中心に「あれは史実と異なる」「実際はこうだった」とか指摘してマウンティングしたがる人"たちは「江戸時代にはそんなに悪代官はいなかった」なんて言いたがります。でも"「時代劇」は「劇」なのですから"、史実どおりでなくてもかまわない。
それよりも、悪役としての悪代官や悪徳商人が何を仮託されたかが重要です。
元総理を暗殺する題材も現代劇で扱えば生々しく差し障りがあるけれど、江戸時代を舞台とする『必殺』シリーズであれば"エンターテイメントとして成り立つわけです"。
今の時代に誰の顔が浮かんだかは知りませんが、舞台が江戸ならそれはフィクションでありファンタジーです。

とはいえ、今現在の日本で昔の時代劇のポジションにあるのが、Vシネマと呼ばれるジャンルにおける大ヒット作で、Vシネの枠を超えて映画やテレビドラマでスピンオフも作られるようになった『日本統一』シリーズになるのだろうな。

横浜の不良少年二人組が関西に移住してヤクザとなり、自分たちの組を率いて「日本統一」を目指すという大枠の物語はありつつ、カルト教団問題や闇バイト問題など時事ネタがエピソードに挿し込まれた"ヤクザが立ち上がる"物語です。
これは現代劇の形をとった時代劇だよな。変な話ですが。
今年(2025年)公開の映画『田村悠人』のトレーラーなんて昭和の剣戟映画の予告編みたいだし、組員たちのキャラクターソングは昭和のテレビ時代劇で流れる導入歌のパロディで。
セットや衣装など時代劇は作るのにカネがかかります。でも現代劇ならばセットも衣装もそのままでいけますからね。その時、「ヤクザ」は現実の存在ではなくファンタジーな存在として描かれる。

ただ、時代劇というフィルターなしに自力救済としての暴力が現われる現在の社会の方向もどうなのかな? と思うところはあります。
また、陰謀論だって、現実社会に適用しようとするから害悪なのであって、時代劇のなかにエンタメとして落とし込めばそれはそれで立派な物語になるはずです。
だからこその時代劇の復興に期待しているのもあるのだろうな。


リンクしてあるのは、ONE OR EIGHTの『BET YOUR LIFE』。

先行するK-POPに対し、日本の男性アイドルの独自性を発揮しようとすればやっぱりサムライ・ニンジャになるのでしょう。BMSG所属の〈MAZZEL〉の『DANGER』MVやLDH所属の〈PSYCHIC FEVER〉の『SWISH DAT』MVなどを見つつ、「新しい時代劇」はこの方向にあるのかもしれません。
だとすればダンスに習熟している現在のアイドルたちを「剣舞」として育てたら海外にも売れる時代劇が作れるようになるのかな。K-POPにも少し意味合いは違うけど「カル群舞」という言葉がありますが、サムライ・ニンジャ幻想を満たすような「剣舞」で。