「マスコミはオールドメディア」って言葉は溢れているけれど、この表現って意味が分からない。
もちろん何を言いたいのかは読み取ってあげられますよ。マスコミ(侮蔑的表現としての「マスゴミ」も含め)に代入されるのはテレビ局や新聞社や出版社といった伝統的メディア(英語では「legacy media」)企業で、それがもう「オールドだ」と言いたいのでしょう。
でも表現としておかしいですよね。「マスコミ」という言葉はmass communicationの略語として使われているのですからmass(大衆)がcommunication(情報交流とか情報伝達)しているのであって、マスコミュニケーション自体には古いも新しいもない。
ひと昔前までの、例えば、新聞社などのメディアが発信した情報を元に大衆がコミュニケートしていたのを「オールド」な情景だと言うことはできるだろうけど、現在のX(twitter)なりYouTubeなりの「ニューメディア」とやらで大衆間で情報をコミュニケートさせているのも同じく「マスコミ」ですよね。
と言うより今の時代、新聞や雑誌の記事本文を読んでいることを前提とする大衆間のコミュニケーションなんてあるのだろうか。それよりも、Xの炎上騒ぎやYouTubeやTikTokの切り抜き動画の方がよっぽど「マスコミ」なんじゃないですかね。これが「ゴミみたいな」情報交流だな、と言う意味でなら私も「マスゴミ」という言葉を使うかもしれません。
また、本気でニューメディアとやらがオールドメディアに代わって「マスコミ」の座に就いたと言うのならば、双方向的なニューメディアにコメントを寄せて参与している個々の人たちも当然ながら社会の公器としての責任を担うべきで、これまで行なってきたマスコミ批判は全てあなた自身にも適用されるべきだ…とは思いませんか? SNSは間違いなくマスコミュニケーションですよ。
今の時代、新聞や雑誌といった活字メディアを読む人はどれだけいるのだろう? もう新聞や雑誌は大衆にとってメディアとは言えないんじゃないのかな。
以前、私に対して「こんな重要な事件なのに報道されていない!」と新聞の切り抜き記事を見せてきた人がいました。同じようなことはXでもちょこちょこ見かけますし、YAHOO!ニュースを眺めていても転載された新聞や雑誌の記事のコメント欄に「どうしてこれが報道されていないんだ!」と憤慨している人がいる。
「いや、あなたが見ているそれが報道されたものですよね?」と不思議な気持ちになりますが、たぶん、そうした人たちの認識する報道とは活字メディアではなく「テレビ」のみにあり、例えば、ある事件が追跡報道として一冊の本にまとめられてより詳しく記されていたとしても、そうした人たちが読むことは無く、「報道されていない」ことになるのでしょう。
「テレビなんか今どき見ないよ」と言う人は多いし、私自身もほぼ見ていない。前回、『紅白歌合戦』の話を書きましたが『紅白』も実は「テレビ」で私は見ていません。見たのはNHKが公式にYouTubeに期限付きでアップした各出演者のステージの切り抜き映像だけ。
このブログでもドラマを紹介することは多いですが、テレビドラマに触れることは少なく、ほとんどがNETFLIXはじめとするインターネット配信ドラマ。
それでも、大衆向けメディアとしての「テレビ」の影響力の強さは、新聞や雑誌の弱体化によって、かえって唯一の存在となって強固になったように私は感じているのですよね。
早稲田大学演劇博物館の館長だった岡室美奈子が2019年から23年にかけて『毎日新聞』で連載していたコラム「私の体はテレビでできている」を収録した『テレビドラマは時代を映す』(2024年)。書籍化にあたってエッセイとして加えられた「テレビ=オワコン論は本当か」より。

例えば、NETFLIXのスタンダード料金は月額1590円(2026年現在)。これを高いとみるか安いとみるかは人それぞれでしょうが、何にしろテレビ地上波だけの生活と比べれば毎月のランニングコストは増えるわけです。"「誰でも」"が視聴できるわけではない。
ワールド・ベースボール・クラシック(略称:WBC)の日本での放映権をNETFLIXが独占契約したことが話題になりましたが、これに対し「野球が見られなくなる」「野球人気がなくなってしまう」と反発する声も上がっています。
NETFLIXがWBCを囲い込むと、これまでのような「国民的」な盛り上がりがなくなってしまうのは確実でしょう。前例として、以前は「国民的」に盛り上がりがっていたワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表のアジア予選大会はDAZNに囲い込まれてから大衆には届かなくなっているのは事実。26年1月に行われたアジアカップでの優勝もU23とはいえ、政治的対立がある中での中国との決勝戦で、中国では多くの人が盛り上がっていたのに日本では優勝したことすら知らない人が多いのではないでしょうか。
「見たければカネを払えばいいじゃん」と簡単に言う人はいるでしょう。ただ、カネを払って見る層と大衆層はまた違うのですよね。
プロ野球にしてもプロサッカーにしてもテレビ地上波で見れなくなってもスタジアムに来る人は来る。実際、2025年のプロ野球(NPB)は2704万人、プロサッカー( J.LEAGUE)は1199万人と観客動員数はテレビ地上波での放映があった時代と比べて増加し続けています。
でも、これは累計数であって野球とサッカー合わせて4000万人弱と日本の人口の三分の一がスタジアムという現場に足を運んでいるわけじゃありませんよね。たぶん、野球でもサッカーでも2025年にどこが優勝したのかも知らない人の方が日本人の多数派で、現場の盛り上がりは大衆には届いていない。
その一方で、オリンピックというパッケージに包んでテレビ地上波でメディアスクラムを組んで放映すれば、ほとんどの人がルールも知らないスポーツですら何となく盛り上がる。
私は横浜の下町育ちなんですが、前世紀の横浜スタジアムってテレビ中継の入る巨人戦以外は常にガラガラだったのですよね。で、招待券という名のタダ券が小学校の同級生の誰かしらから回って来るのでプロ野球を無料で観て、スタジアムの客席はちょっとした非日常の遊び場にしていた記憶。たぶんプロ球団のある街で育った人は同じような体験があるのではないでしょうか。隣の市の川崎球場は市役所に行くとタダ券が置いてあったし。
今は横浜スタジアムの試合のチケットはなかなか取れないと聞きます。現在の方がビジネスとしては当然なのだろうけど、子どもが自由にプロの興行を現場で観ることができた環境は文化的には豊かだったな、とも思う。
この点で、大谷翔平は「テレビを通したスーパースター」です。現在の大谷翔平の毎試合をスタジアムで観ている日本人は多くはありませんよね。テレビで見る対象です。
今回のWBCに限らず、大衆層が新たにNETFLIXはじめとする動画配信サービスと契約しカネを払ってまで野球を見るだろうか? 仮にオリンピックがそうなっても見るだろうか? エミー賞をいくつも獲得し日本でも話題になった真田広之主演でDisney+で配信されたドラマ『SHOGUN』(2024年)だって実際に見た人は多くはないはずなのに。
……私個人としては、「大谷ハラスメント」なんて言葉が生まれるほどのテレビはじめとするメディアスクラムで大谷一色になる状況にはうんざりしていますから、NETFLIXが素材を独占して他のメディアに渡さなくても別にかまいません。というか望むところ。
一時期、アニメが各動画配信サービスと独占契約して潤沢な制作資金を得るのが流行っていましたが、これも、深夜帯であってもテレビ地上波で流れないと盛り上がりに欠けてしまうのが実情。テレビ放映から配信サービスへの囲い込みによって人気シリーズでありながら「オワコン」になってしまったアニメはいくつもある。
"テレビはまだ共通言語なのだ"。私もそう思います。「テレビはオワコン」と言いながら、テレビに映らなくなったらオワコン扱いされるのも不思議な話ですが。
配信サービスで提供される番組を契約者はいつでも見れる。いつでも見れるということは、同じ時間に同じ番組を見る視聴体験の共有はできません。そして、共有できないということは"共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する"マスコミュニケーションがそこには発生し難くなる、というわけです。
ただ、SNSを使った視聴体験の共有は刃にもなる。テレビを見ていて思わず「うわ、なんだよこいつ」みたいに思うことは私もありますよ。テレビの前で一人言うだけなら何でもない日常に消えていく一瞬の呟きでしょうが、SNSに書き込み投稿した瞬間から文字として固定され、マスコミュニケーションとなって、誰かを攻撃する誹謗中傷となる。
この認識がまだ多くの人には欠けていますよね。あなた個人の独り言の呟きも、SNSに掲載されればそれは「マスコミ」であり、「マスコミ」に責任を問うならSNSを使うあなた自身も責任を自覚すべきです。
対して、「オールドメディア」と俗に呼ばれる一方向のメディアからは、一方向だからこその自分が選んだものではない知識が届く。それをノイズで不快と感じるかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも知らないものに触れる機会は生まれる。これを最近は「情報の誤配」なんて言葉で説明する人もいますよね。本人が頼んだ覚えのない情報が誤配されることで生まれる新たな出会い、と。
「オールドメディア」という言葉を使いたがる人たちが「オールド」に対して抱いている「私が見たいものを見せてくれない」というフラストレーション。対して「ニューメディア」はフィルターバブルで包んであなたの見たいものを予測しレコメンドしてくれます。心地よくフィルターバブルに包まれていたい人にとって知りたくない情報は暴力的に感じるのでしょう。
米国で最も視聴率と観衆を集めるNFLのSuper Bowlのハーフタイムショーは毎年話題になりますが、カリフォルニアで開催された2026年2月のスーパーボウルで登場したのはBad Bunny。プエルトリコ出身のバッド・バニーが今のこの時代の米国で、スペイン語で歌い、ラテンアメリカ文化も「アメリカである」と米国人大衆に向けて「見せる」。
今のこの時代の米国、とはBruce Springsteenが『Streets Of Minneapolis』で歌ったような状況です。
こうして米国のミュージシャンを紹介すると、「日本のミュージシャンは海外のミュージシャンのように政治や社会の問題に発言しない」なんて言う人もいるのだけど、私はそう思わない。日本のミュージシャンが政治や社会の問題を歌った音楽は探せばいくらでも見つけられるはずです。「テレビ」が映さないようにしているのと、大衆の側も「テレビ」に映らないものを知ろうとしないだけで、テレビの外の「日本」にはある。
フィルターバブルやエコーチェンバーから大衆を引きずり出して「見せる」のが大衆メディアの本来の仕事のはずだと私は思うのです。
例えば、大衆にはこっちの方が「分かりやすい」だろうと原作を無視して改変したとか、こっちの方が「分かりやすい」だろうと取材対象者や出演者に勝手にキャラクターやストーリーを付与したりとか、大衆に「分かりやすい」と媚びたつもりの演出がかえって炎上につながっている印象。ニュースを見ていても「分かりやすい」を優先した結果として間違った翻訳や解釈をされていることも少なくない。
リスク回避と目先の数字のために大衆に媚びた先に、良い未来があるとは私は思えないのですよね。悪貨が良貨を駆逐する結果にしかならないはず。
大衆向けメディアは大衆に媚びるのではなく、大衆啓蒙の責任があることを忘れるべきではない。そして、良き視聴者が良きメディアを育てる、低きに流れるのではない高め合う相互関係を目指して再構築すべきなのじゃないのかな。
その結果として、優れた作品が生まれて世界に売れて数字を稼ぐような循環が出来れば、「正しい」し「よい」なと私は思うのです。
リンクしてるのはAlex Warrenの『Ordinary』。
アレックス・ウォーレンは2000年生まれのカリフォルニア出身。父は早くに亡くなり母はアルコール中毒。一〇代の頃からホームレスの車上生活に陥るもYouTubeやTikTokで稼げるようになり、21歳でミュージシャンとしてデビュー。
今現在『Ordinary』が大ヒット中ですが、彼をアメリカンドリームと言うべきか、それとも、YouTuberドリームとかTikTokerドリームと呼ぶべきか。26年2月発表のグラミーの新人賞はアレックス・ウォーレンもノミネートしていましたが獲得したのは英国出身のOlivia Dean 。
……「韓国」が凄いな、と思うのはアレックス・ウォーレンが『Before You Leave Me』(2024年)で成功ルートに入るとすぐに〈BLACKPINK〉のROSÉを送り込んでいるところ。バッド・バニーの大ヒット曲に日本語歌詞も入った『Yonaguni』という曲もありますが、MVに映るのは沖縄空手ではなくテコンドー。
「日本」はもっとアンテナを磨くべきなんじゃないのかな。だって今現在のBillbordチャートでどんな曲がヒットしているのかすら知らない人がほとんどでしょ。
別に米国の流行に染まれって言いたいわけじゃありませんよ。ここでの『Ordinary』だって「日常に現われた偶然の出会い」という歌詞から選んでみただけで個人的にはまったく面白味の無い曲だと思っています。でも、何が流行っているかぐらいは知っておくべきじゃないの? って話です。知らなきゃ評価もできないし、働きかけもできない。
もちろん何を言いたいのかは読み取ってあげられますよ。マスコミ(侮蔑的表現としての「マスゴミ」も含め)に代入されるのはテレビ局や新聞社や出版社といった伝統的メディア(英語では「legacy media」)企業で、それがもう「オールドだ」と言いたいのでしょう。
でも表現としておかしいですよね。「マスコミ」という言葉はmass communicationの略語として使われているのですからmass(大衆)がcommunication(情報交流とか情報伝達)しているのであって、マスコミュニケーション自体には古いも新しいもない。
ひと昔前までの、例えば、新聞社などのメディアが発信した情報を元に大衆がコミュニケートしていたのを「オールド」な情景だと言うことはできるだろうけど、現在のX(twitter)なりYouTubeなりの「ニューメディア」とやらで大衆間で情報をコミュニケートさせているのも同じく「マスコミ」ですよね。
と言うより今の時代、新聞や雑誌の記事本文を読んでいることを前提とする大衆間のコミュニケーションなんてあるのだろうか。それよりも、Xの炎上騒ぎやYouTubeやTikTokの切り抜き動画の方がよっぽど「マスコミ」なんじゃないですかね。これが「ゴミみたいな」情報交流だな、と言う意味でなら私も「マスゴミ」という言葉を使うかもしれません。
また、本気でニューメディアとやらがオールドメディアに代わって「マスコミ」の座に就いたと言うのならば、双方向的なニューメディアにコメントを寄せて参与している個々の人たちも当然ながら社会の公器としての責任を担うべきで、これまで行なってきたマスコミ批判は全てあなた自身にも適用されるべきだ…とは思いませんか? SNSは間違いなくマスコミュニケーションですよ。
今の時代、新聞や雑誌といった活字メディアを読む人はどれだけいるのだろう? もう新聞や雑誌は大衆にとってメディアとは言えないんじゃないのかな。
以前、私に対して「こんな重要な事件なのに報道されていない!」と新聞の切り抜き記事を見せてきた人がいました。同じようなことはXでもちょこちょこ見かけますし、YAHOO!ニュースを眺めていても転載された新聞や雑誌の記事のコメント欄に「どうしてこれが報道されていないんだ!」と憤慨している人がいる。
「いや、あなたが見ているそれが報道されたものですよね?」と不思議な気持ちになりますが、たぶん、そうした人たちの認識する報道とは活字メディアではなく「テレビ」のみにあり、例えば、ある事件が追跡報道として一冊の本にまとめられてより詳しく記されていたとしても、そうした人たちが読むことは無く、「報道されていない」ことになるのでしょう。
「テレビなんか今どき見ないよ」と言う人は多いし、私自身もほぼ見ていない。前回、『紅白歌合戦』の話を書きましたが『紅白』も実は「テレビ」で私は見ていません。見たのはNHKが公式にYouTubeに期限付きでアップした各出演者のステージの切り抜き映像だけ。
このブログでもドラマを紹介することは多いですが、テレビドラマに触れることは少なく、ほとんどがNETFLIXはじめとするインターネット配信ドラマ。
それでも、大衆向けメディアとしての「テレビ」の影響力の強さは、新聞や雑誌の弱体化によって、かえって唯一の存在となって強固になったように私は感じているのですよね。
早稲田大学演劇博物館の館長だった岡室美奈子が2019年から23年にかけて『毎日新聞』で連載していたコラム「私の体はテレビでできている」を収録した『テレビドラマは時代を映す』(2024年)。書籍化にあたってエッセイとして加えられた「テレビ=オワコン論は本当か」より。

予め言っておくと、配信ドラマを否定するつもりはまったくない。近年、さまざまな名作配信ドラマが生み出されていることは事実で、例を挙げればキリがないほどだ。日本におけるPPV(Pay-Per-View:有料視聴)の習慣は2020年に始まる新型コロナウイルスのパンデミックの時期に大衆化した、と言われます。NHKの受信料は別としてテレビ地上波は基本的に無料で視聴できるのに対し、動画配信サービスを視聴するには新たに契約し料金を支払う必要があります。
~(中略)~
テレビよりも潤沢な予算でのびのびと制作できる環境は脚本家や作り手たちにとっても魅力的だろう。視聴者にとっても、選択肢が増えるのは喜ばしいことに違いない。
しかしその一方で、インターネット配信は格差社会の象徴であると私は思っている。
NHKやWOWOWのように受信料や定額料金を支払うものは別として、テレビ受像機かスマートフォンがあれば、テレビ番組は誰でも見ることができる。その意味で、テレビは万人に対して平等に開かれた民主的なメディアである。
~(中略)~
それに対して配信は、経済力がものを言う。一つ一つは高額でなくとも、サブスクリプションの料金は継続的に支払える者だけがコンテンツを享受できるからだ。サブスクリプションなら「誰でも」見たい時に見られると考えるのは、その意味で早計である。製作者たちは面白いコンテンツを用意して契約者を増やさなければならないが、視聴者たちにとっては同時に複数の料金を支払うのは負担が大きいため、見たいコンテンツを求めて配信プラットフォームの契約と解約を繰り返して渡り歩く人もいるはずだ。配信ドラマは見たくても見られない人がいる。格差社会の象徴であると考えるゆえんである。
例えば、NETFLIXのスタンダード料金は月額1590円(2026年現在)。これを高いとみるか安いとみるかは人それぞれでしょうが、何にしろテレビ地上波だけの生活と比べれば毎月のランニングコストは増えるわけです。"「誰でも」"が視聴できるわけではない。
ワールド・ベースボール・クラシック(略称:WBC)の日本での放映権をNETFLIXが独占契約したことが話題になりましたが、これに対し「野球が見られなくなる」「野球人気がなくなってしまう」と反発する声も上がっています。
NETFLIXがWBCを囲い込むと、これまでのような「国民的」な盛り上がりがなくなってしまうのは確実でしょう。前例として、以前は「国民的」に盛り上がりがっていたワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表のアジア予選大会はDAZNに囲い込まれてから大衆には届かなくなっているのは事実。26年1月に行われたアジアカップでの優勝もU23とはいえ、政治的対立がある中での中国との決勝戦で、中国では多くの人が盛り上がっていたのに日本では優勝したことすら知らない人が多いのではないでしょうか。
「見たければカネを払えばいいじゃん」と簡単に言う人はいるでしょう。ただ、カネを払って見る層と大衆層はまた違うのですよね。
プロ野球にしてもプロサッカーにしてもテレビ地上波で見れなくなってもスタジアムに来る人は来る。実際、2025年のプロ野球(NPB)は2704万人、プロサッカー( J.LEAGUE)は1199万人と観客動員数はテレビ地上波での放映があった時代と比べて増加し続けています。
でも、これは累計数であって野球とサッカー合わせて4000万人弱と日本の人口の三分の一がスタジアムという現場に足を運んでいるわけじゃありませんよね。たぶん、野球でもサッカーでも2025年にどこが優勝したのかも知らない人の方が日本人の多数派で、現場の盛り上がりは大衆には届いていない。
その一方で、オリンピックというパッケージに包んでテレビ地上波でメディアスクラムを組んで放映すれば、ほとんどの人がルールも知らないスポーツですら何となく盛り上がる。
私は横浜の下町育ちなんですが、前世紀の横浜スタジアムってテレビ中継の入る巨人戦以外は常にガラガラだったのですよね。で、招待券という名のタダ券が小学校の同級生の誰かしらから回って来るのでプロ野球を無料で観て、スタジアムの客席はちょっとした非日常の遊び場にしていた記憶。たぶんプロ球団のある街で育った人は同じような体験があるのではないでしょうか。隣の市の川崎球場は市役所に行くとタダ券が置いてあったし。
今は横浜スタジアムの試合のチケットはなかなか取れないと聞きます。現在の方がビジネスとしては当然なのだろうけど、子どもが自由にプロの興行を現場で観ることができた環境は文化的には豊かだったな、とも思う。
この点で、大谷翔平は「テレビを通したスーパースター」です。現在の大谷翔平の毎試合をスタジアムで観ている日本人は多くはありませんよね。テレビで見る対象です。
今回のWBCに限らず、大衆層が新たにNETFLIXはじめとする動画配信サービスと契約しカネを払ってまで野球を見るだろうか? 仮にオリンピックがそうなっても見るだろうか? エミー賞をいくつも獲得し日本でも話題になった真田広之主演でDisney+で配信されたドラマ『SHOGUN』(2024年)だって実際に見た人は多くはないはずなのに。
……私個人としては、「大谷ハラスメント」なんて言葉が生まれるほどのテレビはじめとするメディアスクラムで大谷一色になる状況にはうんざりしていますから、NETFLIXが素材を独占して他のメディアに渡さなくても別にかまいません。というか望むところ。
テレビ放送の魅力の一つは、大勢の人が同時に同じ番組を視聴できるということだろう。テレビをTVerや配信で見る人がいかに増えようとも、テレビの同時性は崩れることがない。その証拠に話題のテレビドラマはTwitter(現X)でトレンド一位になったりするが、配信ドラマではいかに人気コンテンツでもそうはいかない。テレビはまだ共通言語なのだ。「テレビはオワコン(終わったコンテンツ)」とか「今どきテレビなんか見てる人はいない」なんて言うし、私自身もほぼ見ていないですが、Twitter(現:X)のトレンドと流れていく投稿を眺めていると「相変わらずテレビは強い」し、「みんな何だかんだ言ってもテレビ大好きじゃん」なんて思う。最大手であるNETFLIXの公開されたばかりの配信ドラマを見た後に他の人の感想はどんなものかと検索しても大して見つからないのとは大違いです。
一時期、アニメが各動画配信サービスと独占契約して潤沢な制作資金を得るのが流行っていましたが、これも、深夜帯であってもテレビ地上波で流れないと盛り上がりに欠けてしまうのが実情。テレビ放映から配信サービスへの囲い込みによって人気シリーズでありながら「オワコン」になってしまったアニメはいくつもある。
"テレビはまだ共通言語なのだ"。私もそう思います。「テレビはオワコン」と言いながら、テレビに映らなくなったらオワコン扱いされるのも不思議な話ですが。
テレビ創世期の街頭テレビの時代から、テレビは人びとの共通言語であり続けた。それはテレビが生放送の頃から、本質的にライブ性、中継性を大事にするメディアだったからだろう。SNSによって、視聴者は誰でもテレビの中で起こっていることを「実況」できるようになった。近年は番組や作り手、出演者を批判を超えて罵倒したり誹謗中傷したりするような投稿も増え、SNSとドラマの関係は必ずしも豊かなものとは言えなくなってしまった。しかしSNSには今でも、同じ視聴体験を分かち合い、テレビを共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する豊かな場所にもなりうる。イーロン・マスクの買収によりTwitterがXとなり、今後どうなっていくのか予断を許さないが、テレビはこれからも私たちの共通言語となり、一緒に振り返ることのできる共通の記憶を醸成していくのではないだろうか。テレビにあってインターネット配信サービスにないもの、それがライブ性ですね。
配信サービスで提供される番組を契約者はいつでも見れる。いつでも見れるということは、同じ時間に同じ番組を見る視聴体験の共有はできません。そして、共有できないということは"共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する"マスコミュニケーションがそこには発生し難くなる、というわけです。
ただ、SNSを使った視聴体験の共有は刃にもなる。テレビを見ていて思わず「うわ、なんだよこいつ」みたいに思うことは私もありますよ。テレビの前で一人言うだけなら何でもない日常に消えていく一瞬の呟きでしょうが、SNSに書き込み投稿した瞬間から文字として固定され、マスコミュニケーションとなって、誰かを攻撃する誹謗中傷となる。
この認識がまだ多くの人には欠けていますよね。あなた個人の独り言の呟きも、SNSに掲載されればそれは「マスコミ」であり、「マスコミ」に責任を問うならSNSを使うあなた自身も責任を自覚すべきです。
また、配信ではなく放送であるテレビは、一方向的であるがゆえに、自ら選択したわけではない番組と偶然に幸運な出会いを果たすことがある。テレビをつけたらたまたまやっていた番組に心をつかまえれた経験のある人も多いだろう。ドキュメンタリーを偶然見て、自分とは関係ないと思っていた社会問題に関心をもつことだってありえる。基本的に自分が見たいものを見る配信では、そうはいかない。むしろ自ら選んでいるつもりで、レコメンド(おすすめ)機能によって、実は選ばされていることもある。配信文化だけに浸かっていると、知らないうちにとても狭い世界に関心が偏る可能性があることは、知っておくべきだろう。インターネットに無いものが偶然性。ネットは知っていることしか知らせてくれない。知らなければ検索できませんし、レコメンド機能は検索や視聴の履歴から類推されるのですからどうしたってフィルターバブルやエコーチェンバーに囲い込まれる。
対して、「オールドメディア」と俗に呼ばれる一方向のメディアからは、一方向だからこその自分が選んだものではない知識が届く。それをノイズで不快と感じるかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも知らないものに触れる機会は生まれる。これを最近は「情報の誤配」なんて言葉で説明する人もいますよね。本人が頼んだ覚えのない情報が誤配されることで生まれる新たな出会い、と。
ネット空間は良くも悪くも自由である。その自由さが放送では困難な冒険的・実験的な新しいコンテンツを生み出すこともある反面、倫理観の欠如したコンテンツが野放しになってしまうのも事実だ。対して、テレビには倫理が求められる。テレビには視聴者が番組を選んで見るだけでなく、好むと好まざるとにかかわらず番組が一方的に流れてしまうという、ある意味で暴力的な側面を持っているからだ。「ニューメディア」とやらが「オールドメディア」に代わって「社会の公器」を担うと言うのならば、そこには責任が生じます。繰り返しますが、これまで「マスゴミ」に対して浴びせてきた「批判」は当然ながら「ニューメディア」とそこに組み込まれたSNS投稿者にも同じ基準で適用されるべきですよね。
「オールドメディア」という言葉を使いたがる人たちが「オールド」に対して抱いている「私が見たいものを見せてくれない」というフラストレーション。対して「ニューメディア」はフィルターバブルで包んであなたの見たいものを予測しレコメンドしてくれます。心地よくフィルターバブルに包まれていたい人にとって知りたくない情報は暴力的に感じるのでしょう。
米国で最も視聴率と観衆を集めるNFLのSuper Bowlのハーフタイムショーは毎年話題になりますが、カリフォルニアで開催された2026年2月のスーパーボウルで登場したのはBad Bunny。プエルトリコ出身のバッド・バニーが今のこの時代の米国で、スペイン語で歌い、ラテンアメリカ文化も「アメリカである」と米国人大衆に向けて「見せる」。
今のこの時代の米国、とはBruce Springsteenが『Streets Of Minneapolis』で歌ったような状況です。
こうして米国のミュージシャンを紹介すると、「日本のミュージシャンは海外のミュージシャンのように政治や社会の問題に発言しない」なんて言う人もいるのだけど、私はそう思わない。日本のミュージシャンが政治や社会の問題を歌った音楽は探せばいくらでも見つけられるはずです。「テレビ」が映さないようにしているのと、大衆の側も「テレビ」に映らないものを知ろうとしないだけで、テレビの外の「日本」にはある。
フィルターバブルやエコーチェンバーから大衆を引きずり出して「見せる」のが大衆メディアの本来の仕事のはずだと私は思うのです。
現在、放送番組制作者たちがもっとも神経を尖らせているのが、X(Twitter)をはじめとするSNSでの批判→拡散→炎上だろう。近年、SNS上で無関係な人びとが一方的に正義を振りかざして特定の対象をバッシングするという行為が目立っている。番組や出演者に対する誹謗中傷や攻撃ともとれる過度な批判は増加する一方で、もはや歯止めが効かないようにも見える。メディア関係の人たちは市井で思われている以上にSNSの炎上を恐れています。それはエンタメだけでなく新聞社の記者からも経営層から「炎上するような記事を書くな」とプレッシャーをかけられるという愚痴を聞くこともあります。
フィクションであることは前提にも免罪符にもならず、あらゆる間違いを許容しない不寛容な空気が蔓延しているといっても過言ではない。ただ、それはそれとして、テレビ番組発の炎上騒ぎって、実は、大衆に媚びたあげくのさじ加減を間違えての炎上という印象が私にはあります。
この図式への恐怖は、当然のことながら制作現場を萎縮させる。ドラマの主人公たちが常に「正しい」ことや「よい人」であることを求められるとしたら、それはなんと窮屈なことだろう。私たちはみな失敗もするし間違えもする。そして世の中は理不尽なことで溢れている。私たちはドラマの登場人物たちの失敗や間違いを反面教師にしたり、彼らがいかに理不尽な仕打ちを乗り越えたかを見て生き方を学んだりしてきたはずだ。表面的な「正しさ」への追従とは異なるフィクションの「倫理」とは何かを、テレビは今、根底から問い直す必要があるのではないだろうか。
例えば、大衆にはこっちの方が「分かりやすい」だろうと原作を無視して改変したとか、こっちの方が「分かりやすい」だろうと取材対象者や出演者に勝手にキャラクターやストーリーを付与したりとか、大衆に「分かりやすい」と媚びたつもりの演出がかえって炎上につながっている印象。ニュースを見ていても「分かりやすい」を優先した結果として間違った翻訳や解釈をされていることも少なくない。
リスク回避と目先の数字のために大衆に媚びた先に、良い未来があるとは私は思えないのですよね。悪貨が良貨を駆逐する結果にしかならないはず。
大衆向けメディアは大衆に媚びるのではなく、大衆啓蒙の責任があることを忘れるべきではない。そして、良き視聴者が良きメディアを育てる、低きに流れるのではない高め合う相互関係を目指して再構築すべきなのじゃないのかな。
その結果として、優れた作品が生まれて世界に売れて数字を稼ぐような循環が出来れば、「正しい」し「よい」なと私は思うのです。
テレビがテレビである意味について考えてきたが、テレビはもはやネット配信と無縁ではいられない。テレビならではの同時性を担保しつつ、見逃してもOK、好きなドラマは何度でも見返せるという配信の利点も視聴者は享受すればよいのだと思う。今の時代、テレビの持つ公共性はかえってより高まっている、と私は思うのですよね。
しかし誰にでも開かれたメディアとして、テレビはこれからも存続してほしいと願ってている。そのためには、たとえ予算が潤沢でなくとも、制作者たちはさまざまな工夫や新しいアイデアを凝らして、良質な番組をどんどん制作し続けてほしい。
リンクしてるのはAlex Warrenの『Ordinary』。
アレックス・ウォーレンは2000年生まれのカリフォルニア出身。父は早くに亡くなり母はアルコール中毒。一〇代の頃からホームレスの車上生活に陥るもYouTubeやTikTokで稼げるようになり、21歳でミュージシャンとしてデビュー。
今現在『Ordinary』が大ヒット中ですが、彼をアメリカンドリームと言うべきか、それとも、YouTuberドリームとかTikTokerドリームと呼ぶべきか。26年2月発表のグラミーの新人賞はアレックス・ウォーレンもノミネートしていましたが獲得したのは英国出身のOlivia Dean 。
……「韓国」が凄いな、と思うのはアレックス・ウォーレンが『Before You Leave Me』(2024年)で成功ルートに入るとすぐに〈BLACKPINK〉のROSÉを送り込んでいるところ。バッド・バニーの大ヒット曲に日本語歌詞も入った『Yonaguni』という曲もありますが、MVに映るのは沖縄空手ではなくテコンドー。
「日本」はもっとアンテナを磨くべきなんじゃないのかな。だって今現在のBillbordチャートでどんな曲がヒットしているのかすら知らない人がほとんどでしょ。
別に米国の流行に染まれって言いたいわけじゃありませんよ。ここでの『Ordinary』だって「日常に現われた偶然の出会い」という歌詞から選んでみただけで個人的にはまったく面白味の無い曲だと思っています。でも、何が流行っているかぐらいは知っておくべきじゃないの? って話です。知らなきゃ評価もできないし、働きかけもできない。



