「マスコミはオールドメディア」って言葉は溢れているけれど、この表現って意味が分からない。
もちろん何を言いたいのかは読み取ってあげられますよ。マスコミ(侮蔑的表現としての「マスゴミ」も含め)に代入されるのはテレビ局や新聞社や出版社といった伝統的メディア(英語では「legacy media」)企業で、それがもう「オールドだ」と言いたいのでしょう。
でも表現としておかしいですよね。「マスコミ」という言葉はmass communicationの略語として使われているのですからmass(大衆)がcommunication(情報交流とか情報伝達)しているのであって、マスコミュニケーション自体には古いも新しいもない。
ひと昔前までの、例えば、新聞社などのメディアが発信した情報を元に大衆マスがコミュニケートしていたのを「オールド」な情景だと言うことはできるだろうけど、現在のX(twitter)なりYouTubeなりの「ニューメディア」とやらで大衆マス間で情報をコミュニケートさせているのも同じく「マスコミ」ですよね。
と言うより今の時代、新聞や雑誌の記事本文を読んでいることを前提とする大衆マス間のコミュニケーションなんてあるのだろうか。それよりも、Xの炎上騒ぎやYouTubeやTikTokの切り抜き動画の方がよっぽど「マスコミ」なんじゃないですかね。これが「ゴミみたいな」情報交流だな、と言う意味でなら私も「マスゴミ」という言葉を使うかもしれません。

また、本気でニューメディアとやらがオールドメディアに代わって「マスコミ」の座に就いたと言うのならば、双方向的なニューメディアにコメントを寄せて参与している個々の人たちも当然ながら社会の公器としての責任を担うべきで、これまで行なってきたマスコミ批判は全てあなた自身にも適用されるべきだ…とは思いませんか? SNSは間違いなくマスコミュニケーションですよ。

今の時代、新聞や雑誌といった活字メディアを読む人はどれだけいるのだろう? もう新聞や雑誌は大衆マスにとってメディアとは言えないんじゃないのかな。
以前、私に対して「こんな重要な事件なのに報道されていない!」と新聞の切り抜き記事を見せてきた人がいました。同じようなことはXでもちょこちょこ見かけますし、YAHOO!ニュースを眺めていても転載された新聞や雑誌の記事のコメント欄に「どうしてこれが報道されていないんだ!」と憤慨している人がいる。
「いや、あなたが見ているそれが報道されたものですよね?」と不思議な気持ちになりますが、たぶん、そうした人たちの認識する報道とは活字メディアではなく「テレビ」のみにあり、例えば、ある事件が追跡報道として一冊の本にまとめられてより詳しく記されていたとしても、そうした人たちが読むことは無く、「報道されていない」ことになるのでしょう。

「テレビなんか今どき見ないよ」と言う人は多いし、私自身もほぼ見ていない。前回、『紅白歌合戦』の話を書きましたが『紅白』も実は「テレビ」で私は見ていません。見たのはNHKが公式にYouTubeに期限付きでアップした各出演者のステージの切り抜き映像だけ。
このブログでもドラマを紹介することは多いですが、テレビドラマに触れることは少なく、ほとんどがNETFLIXはじめとするインターネット配信ドラマ。
それでも、大衆マス向けメディアとしての「テレビ」の影響力の強さは、新聞や雑誌の弱体化によって、かえって唯一の存在となって強固になったように私は感じているのですよね。


早稲田大学演劇博物館の館長だった岡室美奈子が2019年から23年にかけて『毎日新聞』で連載していたコラム「私の体はテレビでできている」を収録した『テレビドラマは時代を映す』(2024年)。書籍化にあたってエッセイとして加えられた「テレビ=オワコン論は本当か」より。
予め言っておくと、配信ドラマを否定するつもりはまったくない。近年、さまざまな名作配信ドラマが生み出されていることは事実で、例を挙げればキリがないほどだ。
~(中略)~
テレビよりも潤沢な予算でのびのびと制作できる環境は脚本家や作り手たちにとっても魅力的だろう。視聴者にとっても、選択肢が増えるのは喜ばしいことに違いない。
しかしその一方で、インターネット配信は格差社会の象徴であると私は思っている。
NHKやWOWOWのように受信料や定額料金を支払うものは別として、テレビ受像機かスマートフォンがあれば、テレビ番組は誰でも見ることができる。その意味で、テレビは万人に対して平等に開かれた民主的なメディアである。
~(中略)~
それに対して配信は、経済力がものを言う。一つ一つは高額でなくとも、サブスクリプションの料金は継続的に支払える者だけがコンテンツを享受できるからだ。サブスクリプションなら「誰でも」見たい時に見られると考えるのは、その意味で早計である。製作者たちは面白いコンテンツを用意して契約者を増やさなければならないが、視聴者たちにとっては同時に複数の料金を支払うのは負担が大きいため、見たいコンテンツを求めて配信プラットフォームの契約と解約を繰り返して渡り歩く人もいるはずだ。配信ドラマは見たくても見られない人がいる。格差社会の象徴であると考えるゆえんである。
日本におけるPPV(Pay-Per-View:有料視聴)の習慣は2020年に始まる新型コロナウイルスのパンデミックの時期に大衆化した、と言われます。NHKの受信料は別としてテレビ地上波は基本的に無料で視聴できるのに対し、動画配信サービスを視聴するには新たに契約し料金を支払う必要があります。
例えば、NETFLIXのスタンダード料金は月額1590円(2026年現在)。これを高いとみるか安いとみるかは人それぞれでしょうが、何にしろテレビ地上波だけの生活と比べれば毎月のランニングコストは増えるわけです。"「誰でも」"が視聴できるわけではない。

ワールド・ベースボール・クラシック(略称:WBC)の日本での放映権をNETFLIXが独占契約したことが話題になりましたが、これに対し「野球が見られなくなる」「野球人気がなくなってしまう」と反発する声も上がっています。
NETFLIXがWBCを囲い込むと、これまでのような「国民的」な盛り上がりがなくなってしまうのは確実でしょう。前例として、以前は「国民的」に盛り上がりがっていたワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表のアジア予選大会はDAZNに囲い込まれてから大衆マスには届かなくなっているのは事実。26年1月に行われたアジアカップでの優勝もU23とはいえ、政治的対立がある中での中国との決勝戦で、中国では多くの人が盛り上がっていたのに日本では優勝したことすら知らない人が多いのではないでしょうか。


「見たければカネを払えばいいじゃん」と簡単に言う人はいるでしょう。ただ、カネを払って見る層と大衆マス層はまた違うのですよね。

プロ野球にしてもプロサッカーにしてもテレビ地上波で見れなくなってもスタジアムに来る人は来る。実際、2025年のプロ野球(NPB)は2704万人、プロサッカー( J.LEAGUE)は1199万人と観客動員数はテレビ地上波での放映があった時代と比べて増加し続けています。


でも、これは累計数であって野球とサッカー合わせて4000万人弱と日本の人口の三分の一がスタジアムという現場に足を運んでいるわけじゃありませんよね。たぶん、野球でもサッカーでも2025年にどこが優勝したのかも知らない人の方が日本人の多数派で、現場の盛り上がりは大衆マスには届いていない。
その一方で、オリンピックというパッケージに包んでテレビ地上波でメディアスクラムを組んで放映すれば、ほとんどの人がルールも知らないスポーツですら何となく盛り上がる。

私は横浜の下町育ちなんですが、前世紀の横浜スタジアムってテレビ中継の入る巨人戦以外は常にガラガラだったのですよね。で、招待券という名のタダ券が小学校の同級生の誰かしらから回って来るのでプロ野球を無料で観て、スタジアムの客席はちょっとした非日常の遊び場にしていた記憶。たぶんプロ球団のある街で育った人は同じような体験があるのではないでしょうか。隣の市の川崎球場は市役所に行くとタダ券が置いてあったし。
今は横浜スタジアムの試合のチケットはなかなか取れないと聞きます。現在の方がビジネスとしては当然なのだろうけど、子どもが自由にプロの興行を現場で観ることができた環境は文化的には豊かだったな、とも思う。

この点で、大谷翔平は「テレビを通したスーパースター」です。現在の大谷翔平の毎試合をスタジアムで観ている日本人は多くはありませんよね。テレビで見る対象です。
今回のWBCに限らず、大衆マス層が新たにNETFLIXはじめとする動画配信サービスと契約しカネを払ってまで野球を見るだろうか? 仮にオリンピックがそうなっても見るだろうか? エミー賞をいくつも獲得し日本でも話題になった真田広之主演でDisney+で配信されたドラマ『SHOGUN』(2024年)だって実際に見た人は多くはないはずなのに。
……私個人としては、「大谷ハラスメント」なんて言葉が生まれるほどのテレビはじめとするメディアスクラムで大谷一色になる状況にはうんざりしていますから、NETFLIXが素材を独占して他のメディアに渡さなくても別にかまいません。というか望むところ。
テレビ放送の魅力の一つは、大勢の人が同時に同じ番組を視聴できるということだろう。テレビをTVerや配信で見る人がいかに増えようとも、テレビの同時性は崩れることがない。その証拠に話題のテレビドラマはTwitter(現X)でトレンド一位になったりするが、配信ドラマではいかに人気コンテンツでもそうはいかない。テレビはまだ共通言語なのだ。
「テレビはオワコン(終わったコンテンツ)」とか「今どきテレビなんか見てる人はいない」なんて言うし、私自身もほぼ見ていないですが、Twitter(現:X)のトレンドと流れていく投稿ポストを眺めていると「相変わらずテレビは強い」し、「みんな何だかんだ言ってもテレビ大好きじゃん」なんて思う。最大手であるNETFLIXの公開されたばかりの配信ドラマを見た後に他の人の感想はどんなものかと検索しても大して見つからないのとは大違いです。
一時期、アニメが各動画配信サービスと独占契約して潤沢な制作資金を得るのが流行っていましたが、これも、深夜帯であってもテレビ地上波で流れないと盛り上がりに欠けてしまうのが実情。テレビ放映から配信サービスへの囲い込みによって人気シリーズでありながら「オワコン」になってしまったアニメはいくつもある。
"テレビはまだ共通言語なのだ"。私もそう思います。「テレビはオワコン」と言いながら、テレビに映らなくなったらオワコン扱いされるのも不思議な話ですが。
テレビ創世期の街頭テレビの時代から、テレビは人びとの共通言語であり続けた。それはテレビが生放送の頃から、本質的にライブ性、中継性を大事にするメディアだったからだろう。SNSによって、視聴者は誰でもテレビの中で起こっていることを「実況」できるようになった。近年は番組や作り手、出演者を批判を超えて罵倒したり誹謗中傷したりするような投稿も増え、SNSとドラマの関係は必ずしも豊かなものとは言えなくなってしまった。しかしSNSには今でも、同じ視聴体験を分かち合い、テレビを共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する豊かな場所にもなりうる。イーロン・マスクの買収によりTwitterがXとなり、今後どうなっていくのか予断を許さないが、テレビはこれからも私たちの共通言語となり、一緒に振り返ることのできる共通の記憶を醸成していくのではないだろうか。
テレビにあってインターネット配信サービスにないもの、それがライブ性ですね。
配信サービスで提供される番組を契約者はいつでも見れる。いつでも見れるということは、同じ時間に同じ番組を見る視聴体験の共有はできません。そして、共有できないということは"共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する"マスコミュニケーションがそこには発生し難くなる、というわけです。

ただ、SNSを使った視聴体験の共有はやいばにもなる。テレビを見ていて思わず「うわ、なんだよこいつ」みたいに思うことは私もありますよ。テレビの前で一人言うだけなら何でもない日常に消えていく一瞬の呟きでしょうが、SNSに書き込み投稿ポストした瞬間から文字として固定され、マスコミュニケーションとなって、誰かを攻撃する誹謗中傷となる。
この認識がまだ多くの人には欠けていますよね。あなた個人の独り言の呟きも、SNSに掲載されればそれは「マスコミ」であり、「マスコミ」に責任を問うならSNSを使うあなた自身も責任を自覚すべきです。
また、配信ではなく放送であるテレビは、一方向的であるがゆえに、自ら選択したわけではない番組と偶然に幸運な出会いを果たすことがある。テレビをつけたらたまたまやっていた番組に心をつかまえれた経験のある人も多いだろう。ドキュメンタリーを偶然見て、自分とは関係ないと思っていた社会問題に関心をもつことだってありえる。基本的に自分が見たいものを見る配信では、そうはいかない。むしろ自ら選んでいるつもりで、レコメンド(おすすめ)機能によって、実は選ばされていることもある。配信文化だけに浸かっていると、知らないうちにとても狭い世界に関心が偏る可能性があることは、知っておくべきだろう。
インターネットに無いものが偶然性。ネットは知っていることしか知らせてくれない。知らなければ検索できませんし、レコメンド機能は検索や視聴の履歴から類推されるのですからどうしたってフィルターバブルやエコーチェンバーに囲い込まれる。
対して、「オールドメディア」と俗に呼ばれる一方向のメディアからは、一方向だからこその自分が選んだものではない知識が届く。それをノイズで不快と感じるかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも知らないものに触れる機会は生まれる。これを最近は「情報の誤配」なんて言葉で説明する人もいますよね。本人が頼んだ覚えのない情報が誤配されることで生まれる新たな出会い、と。
ネット空間は良くも悪くも自由である。その自由さが放送では困難な冒険的・実験的な新しいコンテンツを生み出すこともある反面、倫理観の欠如したコンテンツが野放しになってしまうのも事実だ。対して、テレビには倫理が求められる。テレビには視聴者が番組を選んで見るだけでなく、好むと好まざるとにかかわらず番組が一方的に流れてしまうという、ある意味で暴力的な側面を持っているからだ。
「ニューメディア」とやらが「オールドメディア」に代わって「社会の公器」を担うと言うのならば、そこには責任が生じます。繰り返しますが、これまで「マスゴミ」に対して浴びせてきた「批判」は当然ながら「ニューメディア」とそこに組み込まれたSNS投稿者にも同じ基準で適用されるべきですよね。

「オールドメディア」という言葉を使いたがる人たちが「オールド」に対して抱いている「私が見たいものを見せてくれない」というフラストレーション。対して「ニューメディア」はフィルターバブルで包んであなたの見たいものを予測しレコメンドしてくれます。心地よくフィルターバブルに包まれていたい人にとって知りたくない情報は暴力的に感じるのでしょう。


米国で最も視聴率と観衆を集めるNFLのSuper Bowlのハーフタイムショーは毎年話題になりますが、カリフォルニアで開催された2026年2月のスーパーボウルで登場したのはBad Bunny。プエルトリコ出身のバッド・バニーが今のこの時代の米国で、スペイン語で歌い、ラテンアメリカ文化も「アメリカである」と米国人大衆に向けて「見せる」。

今のこの時代の米国、とはBruce Springsteenが『Streets Of Minneapolis』で歌ったような状況です。

こうして米国のミュージシャンを紹介すると、「日本のミュージシャンは海外のミュージシャンのように政治や社会の問題に発言しない」なんて言う人もいるのだけど、私はそう思わない。日本のミュージシャンが政治や社会の問題を歌った音楽は探せばいくらでも見つけられるはずです。「テレビ」が映さないようにしているのと、大衆の側も「テレビ」に映らないものを知ろうとしないだけで、テレビの外の「日本」にはある。

フィルターバブルやエコーチェンバーから大衆を引きずり出して「見せる」のが大衆マスメディアの本来の仕事のはずだと私は思うのです。
現在、放送番組制作者たちがもっとも神経を尖らせているのが、X(Twitter)をはじめとするSNSでの批判→拡散→炎上だろう。近年、SNS上で無関係な人びとが一方的に正義を振りかざして特定の対象をバッシングするという行為が目立っている。番組や出演者に対する誹謗中傷や攻撃ともとれる過度な批判は増加する一方で、もはや歯止めが効かないようにも見える。
メディア関係の人たちは市井で思われている以上にSNSの炎上を恐れています。それはエンタメだけでなく新聞社の記者からも経営層から「炎上するような記事を書くな」とプレッシャーをかけられるという愚痴を聞くこともあります。
フィクションであることは前提にも免罪符にもならず、あらゆる間違いを許容しない不寛容な空気が蔓延しているといっても過言ではない。
この図式への恐怖は、当然のことながら制作現場を萎縮させる。ドラマの主人公たちが常に「正しい」ことや「よい人」であることを求められるとしたら、それはなんと窮屈なことだろう。私たちはみな失敗もするし間違えもする。そして世の中は理不尽なことで溢れている。私たちはドラマの登場人物たちの失敗や間違いを反面教師にしたり、彼らがいかに理不尽な仕打ちを乗り越えたかを見て生き方を学んだりしてきたはずだ。表面的な「正しさ」への追従とは異なるフィクションの「倫理」とは何かを、テレビは今、根底から問い直す必要があるのではないだろうか。
ただ、それはそれとして、テレビ番組発の炎上騒ぎって、実は、大衆に媚びたあげくのさじ加減を間違えての炎上という印象が私にはあります。
例えば、大衆にはこっちの方が「分かりやすい」だろうと原作を無視して改変したとか、こっちの方が「分かりやすい」だろうと取材対象者や出演者に勝手にキャラクターやストーリーを付与したりとか、大衆に「分かりやすい」と媚びたつもりの演出がかえって炎上につながっている印象。ニュースを見ていても「分かりやすい」を優先した結果として間違った翻訳や解釈をされていることも少なくない。

リスク回避と目先の数字のために大衆に媚びた先に、良い未来があるとは私は思えないのですよね。悪貨が良貨を駆逐する結果にしかならないはず。
大衆マス向けメディアは大衆に媚びるのではなく、大衆啓蒙の責任があることを忘れるべきではない。そして、良き視聴者が良きメディアを育てる、低きに流れるのではない高め合う相互関係を目指して再構築すべきなのじゃないのかな。
その結果として、優れた作品が生まれて世界に売れて数字を稼ぐような循環が出来れば、「正しい」し「よい」なと私は思うのです。
テレビがテレビである意味について考えてきたが、テレビはもはやネット配信と無縁ではいられない。テレビならではの同時性を担保しつつ、見逃してもOK、好きなドラマは何度でも見返せるという配信の利点も視聴者は享受すればよいのだと思う。
しかし誰にでも開かれたメディアとして、テレビはこれからも存続してほしいと願ってている。そのためには、たとえ予算が潤沢でなくとも、制作者たちはさまざまな工夫や新しいアイデアを凝らして、良質な番組をどんどん制作し続けてほしい。
今の時代、テレビの持つ公共性はかえってより高まっている、と私は思うのですよね。


リンクしてるのはAlex Warrenの『Ordinary』。

アレックス・ウォーレンは2000年生まれのカリフォルニア出身。父は早くに亡くなり母はアルコール中毒。一〇代の頃からホームレスの車上生活に陥るもYouTubeやTikTokで稼げるようになり、21歳でミュージシャンとしてデビュー。
今現在『Ordinary』が大ヒット中ですが、彼をアメリカンドリームと言うべきか、それとも、YouTuberドリームとかTikTokerドリームと呼ぶべきか。26年2月発表のグラミーの新人賞はアレックス・ウォーレンもノミネートしていましたが獲得したのは英国出身のOlivia Dean

……「韓国」が凄いな、と思うのはアレックス・ウォーレンが『Before You Leave Me』(2024年)で成功ルートに入るとすぐに〈BLACKPINK〉のROSÉを送り込んでいるところ。バッド・バニーの大ヒット曲に日本語歌詞も入った『Yonaguni』という曲もありますが、MVに映るのは沖縄空手ではなくテコンドー。

「日本」はもっとアンテナを磨くべきなんじゃないのかな。だって今現在のBillbordチャートでどんな曲がヒットしているのかすら知らない人がほとんどでしょ。
別に米国の流行に染まれって言いたいわけじゃありませんよ。ここでの『Ordinary』だって「日常に現われた偶然の出会い」という歌詞から選んでみただけで個人的にはまったく面白味の無い曲だと思っています。でも、何が流行っているかぐらいは知っておくべきじゃないの? って話です。知らなきゃ評価もできないし、働きかけもできない。
毎年、年末に発表される「アイドル楽曲大賞」を紹介しつつ前年のアイドルについての話を書いています。

テレビという大衆メディアのお祭りであるNHK『紅白歌合戦』における「日本のアイドル」像はひとつの基準になるでしょう。
2025年に出演した現役アイドルは、
KAWAII LAB.から〈CANDY TUNE〉と〈FRUITS ZIPPER〉。
BMSGから〈BE:FIRST〉と〈HANA〉。
EBiDANから〈M!LK〉。
K-POPはHYBEから〈ILLIT〉と日本支社の〈&TEAM〉に、SM社の〈aespa〉。
旧ジャニーズの後継であるSTARTOからは〈King & Prince〉と〈SixTONES〉。TOBEから〈Number_i〉。
秋元康プロデュースを冠したチームは結成20周年記念でようやく出れた〈AKB48〉とついに坂道グループ最後の一組になった〈乃木坂46〉。
何となく基本大枠として各社/各グループから2チームずつ選んだ感じですね。一時期の日本の男性アイドルはジャニーズ、女性アイドルは秋元康プロデュースが枠を独占していた時代に比べるとバランスは良くなっています。
……これでも「最近のアイドルは全部同じに見える」と言うのなら、問題があるのは同じに見える人の方にあるし、ジャニーズと秋元康の悪口を言って「日本のアイドルは〇〇だ」と全てを語った気になっているような人はNHKが想定する大衆マスよりも文化水準が低いってことになる。

その出演者の中で、2025年に最も躍進したアイドルといえば、女性は〈HANA〉、男性は何と言っても〈M!LK〉になるでしょう。

25年3月発表の『イイじゃん』が〈aespa〉の『Whiplash』に似ているとK-POPファンに叩かれながらも「悪名は無名に勝る」とばかりに知名度が上がり、歌詞中の「今日ビジュイイじゃん」が大バズり。
続けて、10月発表の『好きすぎて滅!』もバズって一気にメインストリームへと駆け上り『紅白歌合戦』出演に至るまでの大衆的知名度も得ました。
NHKが25年の『紅白』に24年発表の『Whiplash』で〈aespa〉を呼んでいるのも〈M!LK〉の『イイじゃん』とセットで並べたかったのでしょう。直前にネトウヨが暴れたので〈aespa〉企画は無くなったみたいですが。(……暴れてるネトウヨも、それに反発して「日本のアイドルはお遊戯会」と暴れてる連中のどちらも「知」に対して不誠実。うんざりします)

〈M!LK〉はスターダストプロモーション社の男性アイドル部門EBiDAN所属で2014年結成。ポッと出ではなく十年以上の活動歴がありようやく地上に到達したチームです。各社/各グループから基本2組という枠なら、もし〈aespa〉が来なかった場合は同じ事務所で2015年結成の〈超ときめき♡宣伝部〉が出れたのだろうな。
とはいえ、エースである佐野勇斗と元メンバーの宮世琉弥は若手の主演級俳優として「テレビ」でも活躍していますので、逆にこれまで知名度が低かった方が不自然ではありました。理由はまあ…分かりますよね。ただ、旧ジャニーズ社への忖度もあったのでしょうが、テレビ局に代表されるマス向けメディア側が旧ジャニーズグループや秋元康プロデュース以外にも日本のアイドルがいる、という多様性を、複雑さを厭う大衆に媚びて均質化したフォーマットで提供するために無視してきたのもあるのでしょうし、テレビが提供するものの外に情報を自ら求めて行くことはない大衆がいての共犯関係。旧ジャニーズ社だけを悪者にするつもりはありません。

……少し前に時代劇のキャスティングには風土を感じさせる顔で選んでほしいという話を書きました。〈M!LK〉メンバーって時代劇顔だよな。『紅白』での坂本冬美とのステージの着物姿も話題になりましたが、三河岡崎の佐野勇斗は徳川家もの、薩摩と大隅の間にある霧島市出身の吉田仁人は幕末もので薩摩藩士、足利市出身の山中柔太朗も足利一門が似合いそう。伊勢の曽野舜太に、塩﨑太智は和歌山出身だけど河内っぽい。
風土を感じさせる顔って、アイドル界に大量に人材がプールされているのだから活用すれば良いのにな、なんて男女どちらのアイドルを見ていても思います。
「K-POPスゴイ。それに比べて日本のアイドルは芋だ」なんて言う人もいるけど、例えば、地方48グループでは農家の娘が農家の娘のままアイドルをしていたりしますが、それの何が悪いのだろう?
カルチャーに多様性ではなく、単一モノであることを求める感覚が私には分からない。

2025年は〈M!LK〉にとって元メンバーたち含め色々あった年でした。そうそう、女性アイドル〈ZOCX〉に猫猫猫はうとして加入したはうきも〈M!LK〉出身でしたね。
旧ジャニーズと坂道がアイドル枠を独占していた時代はファンの嫉妬を恐れて男女のアイドルの共演は避けられていましたが、今は積極的にTikTokを撮るなど交流を見せる方針になったのも良い変化だし、ジェンダーを越えて活動できるようになったのも良い変化です。


ここからは、女性アイドル楽曲を中心とした「第14回アイドル楽曲大賞2025」の上位20位までを見ていきます。

メジャーアイドル楽曲部門の上位20位までを。

1位. CYNHN『ノミニー
2位. =LOVE『とくべチュ、して
3位. CYNHN『息のしかた
4位. 超ときめき♡宣伝部『超最強
5位. AiScReam『愛♡スクリ~ム!
6位. Perfume『巡ループ
7位. いぎなり東北産『らゔ♡戦セーション』
8位. でんぱ組.inc『W.W.D ENDING
9位. 清 竜人25『世界を愛せますように
10位. 東京女子流『夏の密度
11位. 私立恵比寿中学『SCHOOL DAYS
12位. ≠ME『モブノデレラ
13位. フィロソフィーのダンス『迷っちゃうわ
14位. =LOVE『ラブソングに襲われる
15位. 東京女子流『導火線、フラッシュバック
16位. CiON『しましょ
17位. ≒JOY『ブルーハワイレモン
18位. lyrical school『朝の光
19位. CYNHN『わるいこと
20位. わーすた『わーるどすたんだーど


1位は前年に続き〈CYNHN〉。3位にも入っているのでこの界隈を代表するチームとなったのでしょう。所属はディアステージ。
2位は〈=LOVE〉で、姉妹チームの〈≠ME〉〈≒JOY〉と併せて秋元康が後継者として認める指原莉乃のプロデュースするグループは一大勢力を形成しつつあります。

……木村ミサ率いるKAWAII LAB.グループと指原莉乃率いるイコール系グループという元アイドルの三〇代女性プロデューサーによる「カワイイ」対決が現在の「日本の女性アイドル」の状況です。
この二人より一世代上にはディアステージを率いる福島麻衣子やTokyo Pinkを率いる大森靖子、一世代下には〈HANA〉のちゃんみななどがいるわけですが、こうした女性プロデューサーたちの存在を透明化し無視して、秋元康だけで「日本の女性アイドル」を語ろうとするのは、ジェンダー規範に囚われた女性差別的な言動なんじゃないですかね。

一方で、〈Perfume〉の活動休止は別格としても、〈東京女子流〉、さらには〈フィロソフィーのダンス〉の解散は一時代の終わりを感じさせます。2025年には加えてWACKグループの全チーム解散/放出も渡辺淳之介の敗北宣言とともに話題になりました。〈BiSH〉を旗艦に2010年代後半のアイドル業界を引っ張ったWACKが全面再編に追い込まれ、25年年末には2010年代前半を引っ張った〈ももいろクローバーZ〉を旗艦とするスタプラでも複数チームの解散が同時発表され、事務所側社員人事も含めてグループの全面再編があるようで、2010年代とはアイドル周りの環境が激変しています。
〈CYNHN〉の所属するディアステでも、旗艦だった〈でんぱ組.inc〉が25年に解散すると最も人気のあるチームは「アキバ系」ではない外様の〈きゅるりんってしてみて〉になっていますから時代は変わりました。

こうした状況のなかで、2025年の「アイドル楽曲大賞」メジャーアイドル部門は「楽曲派」の好むタイプの曲とバズ狙いの曲が入り混じった上位層。
世界的に大バズしたのは5位の〈AiScReam〉による『愛♡スクリ~ム!』。
ここはライブアイドルではなく、2010年からアニメなどのメディアミックスで展開する『ラブライブ!』シリーズに出演していた声優によるステージから始まった声優アイドルですが、ライブアイドルを主に扱うランクにも入るほどの大バズでした。

ゆえに、『愛♡スクリ~ム!』が日本国外で「J-POPアイドル」とか「日本のアイドル」として紹介されているのを見かけるとなんだかモヤモヤします。声優アイドルはアイドルの派生ではなく声優からの派生なのでジャンルが違うし、属するカルチャーも違うのではないか、と。

ただ、日本のポップカルチャーの面白いところは、何か一つが流行ったらそれだけになるのではなく、マスとは異なる場所で、様々なジャンルが(ビジネスとして成り立つレベルで)並存して動いていることにあると私は思っています。
だからこそモノカルチャーではない、多様な表現をもっと知った上で、それから語ればいいのにな、なんて思います。


「アイドル楽曲大賞」とは別枠なのでここには載っていませんが、「ハロプロ楽曲大賞」で1位となった〈Juice=Juice〉の『盛れ!ミ・アモーレ』はステージの力でちゃんと(国内限定ではあるものの)バズった曲でした。
「日本にも口パクせずに踊りながら歌えるアイドルがいるんだ」なんて驚かれていましたが、〈Juice=Juice〉は〈モーニング娘。〉を旗艦チームとするHello! Projectグループ(通称:ハロプロ)所属で結成は2013年。十年以上の活動歴があります。
……「日本のアイドルは口パクばかり」なんて言う人もいますが「ばかり」ってのはどこの日本の話なんだろう?

続いて、インディーズ/地方アイドル楽曲部門の上位20位までを。

1位. タイトル未定『
2位. fishbowl『蒼霞
3位. ラフ×ラフ『君ときゅんと♡
4位. きのホ。『秋刀魚
5位. Ringwanderung『LV
6位. RAY『plasma』
7位. AQ『SKUMSCAMSCUM
8位. 0番線と夜明け前『わたしは水になりたかった
9位. ハルニシオン『ハルニシオン
10位. CUBΣLIC『シュガビタ
11位. ばってん少女隊『こっちみて星☆
12位. RAY『おとぎ』
13位. RYUTist『Unknown Us
14位. 美味しい曖昧『パフェクト
15位. yosugala『コノユビトマレ
16位. きのホ。『大問題
17位. きゅるりんってしてみて『Special♡Spell
17位. yosugala『何億分の1を
19位. TEAM SHACHI『晴れ晴れ
20位. AMEFURASSHI『Don't stop the music

インディーズ/地方アイドル部門では、札幌拠点の〈タイトル未定〉が1位で、2位の〈fishbowl〉は静岡拠点。
「地下」の覇者であり良くも悪くも「地下」における話題の中心だった〈iLiFE!〉を旗艦とするHEROINESグループが上位に入らないのはこの界隈の相変わらずですが、「カワイイ」系に押されて弱体化している「楽曲派」のなかでリーダー的存在になりつつあるのが、京都拠点の古都レコード勢。〈きのホ。〉に続いて24年に活動開始した〈AQ〉も京都らしいカレッジチャート感があって良い。8位の〈0番線と夜明け前〉も京都拠点のチームです。

……ランキングから離れた余談になりますが、地方アイドルというと、K-POPアイドルの〈i-dle〉が25年10月に発表した『どうしよっかな』MVは、韓国では「日本の地方アイドル」と『ラブライブ!』的世界観は入り混じりこう見えているのか、という意味で面白い。
また、さらにアイドルからも離れますが、韓国で音楽チャートMelonの2025年年間10位とヒットした〈10CM〉の『너에게 닿기를』は、北海道を舞台とする少女マンガ『君に届け』アニメ版主題歌の韓国語カヴァーですが、「韓国人が郷愁を感じる田舎としての日本」という感覚は興味深い。

2020年代半ばに至ってようやくアイドルのテレビ出演枠が解放され、ジャニーズと秋元康プロデュースとK-POPのみで構成される時代が続いてきたテレビの音楽番組に、「地下」や「地方」からもテレビ「地上」波の音楽番組に出れるようになりました。
きっかけのひとつは、フジテレビで2024年に始まった公開オーディション「TIF×FNS歌謡祭コラボ企画」。24年に初の出演権を獲得したのは〈タイトル未定〉でしたが、25年は〈Devil ANTHEM.〉。ここも2014年結成ですから活動歴は十年以上でようやくです。
とはいえ、TBSの『SASUKE』出演権を賭けたやはり24年に始まった「アイドル予選会」もそうですが、1枠を巡る過酷な公開オーディションを勝ち抜いてようやくアイドルはテレビ「地上」波に出れるのですから狭き門は変わらない。ぽっと出の若い子がテレビに出てる、なんてことはそうはない。

で、もし私が「アイドル楽曲大賞」に投票するのならば、

バンドサウンドとして6位の〈RAY〉による『plasma』かな。
毎年、〈RAY〉は良いと書いているような気がしますが「インディーズとして」面白い。

クラブサウンドのダンス曲だと、こちらは入っていませんが〈Girls²〉の『LET ME DANCE』。

Y2Kブームなんてここ数年言われていますが、意外とこういう音の楽曲って出ていない。MVは日本国外での何度目かのギャル・ブームで軽くバズったけど日本国内にはあまりフィードバックされなかったな。
そういえば、アイドルではありませんが、子供服のキッズモデルたちによる企画〈KOGYARU〉がドイツで一時ヒップホップ部門1位になったり、ギャル系ファッション誌『egg』のモデルによる〈半熟卵っち〉などが世界的に25年になってからバズっていましたよね。
「男に媚びず、好きなものを好きと言える日本のギャル」というイメージは、日本ではあまり語られませんが相変わらず強い。

「楽曲派」界隈のランキングには入らないアイドルだと、最近、気になっているのは〈BLUEGOATS〉。

前身チームの〈The BANANA MONKEYS〉は悪名は無名に勝るの「炎上系」路線で避ける人も多かったし、2021年に〈BLUEGOATS〉に改編されてからも炎上覚悟の体当たり企画でYouTubeやTikTokの数字は稼いでも、音楽をやるライブアイドルとしての現場の動員には結びついていない印象でした。
しかし、今の路線の〈BLUEGOATS〉は、正直、他のロック系アイドルと比べてスキルが高いとは言えないかもしれないけれど、炎上に頼らずともライブアイドルとしてのパッションと歯車が嚙み合って勢いが出てきた痛快さがある。実際、勢いのあった頃のWACKの界隈にいた人たちがここに集まりつつあるような感触。
26年に期待するチームです。

現在のトレンドであるカワイイ系でもなく、「楽曲派」にも入れてもらえないロック系アイドルはどこも知名度を上げるのに苦労しています。ただ、元〈BiSH〉でソロとして25年の『紅白』にも出場したアイナ・ジ・エンドという存在がある。
K-POPアイドルの方が先に世界で知られるようになったため、日本のアイドルも歴史に反してK-POPの派生のように見られていた時期もありました。しかし、全く異なる進化を遂げてきたのが日本のアイドルというジャンルだ、と世界各国のミュージシャンや音楽ファンに知られ始めてきた2020年代半ば。
BABYMETAL〉の成功は知られていても、彼女たちが日本のアイドルにおける特異な存在ではなく、実は、ロックが日本のライブアイドルの本流であることが知られてくると、ロック畑のミュージシャンたちが日本のアイドルに接触するようになりました。
例えば、〈RAY〉の新曲『Bittersweet』は〈RIDE〉のマーク・ガードナーが楽曲プロデュース。
……個人的には〈RIDE〉の名前を久しぶりに目にしました。中学生の頃は好きでよく聴いていたので、この新曲をきっかけに当時の〈RIDE〉の曲を検索してみたらカセットテープにダビングしてウォークマンで聴きながら歩いていた情景まで思い出してきてノスタルジー。

そんな〈RIDE〉のマーク・ガードナーと〈RAY〉の内山結愛の対談(『音楽ナタリー』2025年10月15日付)より。
マーク 女の子たちによるダンスとパフォーマンスがシューゲイザーという音楽と結び付いている様子がとても新しくて、すぐに好きになりました。私は音楽とは「進化する必要があるもの」だと考えていて。正直な話、私はこれまで男性のシューゲイザーバンドがうつむいて演奏している光景を、飽きるほど見てきたんですよ(笑)。RAYが新しい発想で音楽を更新していこうとする姿勢こそ先進的で刺激的。とても素晴らしい活動をしていると思いましたね。
~(中略)~
今、退屈な音楽に合わせてパフォーマンスをするグループがいっぱいいる中、RAYのように誰も想像しなかったような新しい音楽の領域に踏み込むグループがいるのは素晴らしいことです。そして私もRAYを通じて、普段触れることのない新しい(アイドルの)世界に私も踏み込めたのは、とても魅力的な出来事でしたね。
~(中略)~
内山さん、RAYの皆さん、どうか今やっていることを続けていってください。アイドルとシューゲイザーという異なる要素を両立させて、突き詰めていこうとする姿勢は、とても刺激的で興味深いこと。RAYがこの先の活動を通じて、メインストリームの音楽にシューゲイザーを持ち込むことで、ポップミュージックはより面白いものになっていくはずです。その期待も込めて、とにかくがんばってほしいですね。
日本でシューゲイザーと呼ばれる音楽ジャンルは、1980年代末から90年代前半頃の英国で流行した、靴でも見てる(Shoegaze)かのようにうつむき加減で演奏するサイケデリックなバンドサウンド。2025年には〈oasis〉の日本公演が話題になりましたが、90年代の〈oasis〉の大成功前夜のU.K.ロックが〈RIDE〉含め一まとめにされることもあります。

「ロックは年寄りの音楽」みたいなイメージを覆す存在として、若い女性がパフォーマンスする日本のライブアイドルを応援する空気はこれまでも日本のロック系ミュージシャンにはあり、楽曲プロデュースやバックバンドに付くなど珍しい話ではありませんでしたが、U.K.ロックを日本人が歌う面白さみたいなものが英国に逆流しているわけです。
"退屈な音楽に合わせてパフォーマンスをするグループがいっぱい"な現状に抵抗する象徴として期待するマーク・ガードナーの日本のアイドルに対する認識は、日本のアイドル楽曲を聴かない人たちには驚きをもって感じられるのではないでしょうか。特に「日本のアイドルは〇〇だ」と単純化して何かを語ったつもりになっているような人には。
再編後のWACKグループは拠点をロンドンに移すようですが、こうした空気に賭ける意図もあるのでしょう。ただ、〈WARGASM〉のサム・マトロックが楽曲プロデュースした〈ASP〉の『MAKE A MOVE』も曲としては良いけど数字として上手くいったとは言い難い。〈Bring Me The Horizon〉と〈BABYMETAL〉の『Kingslayer』との規模感の違いもあるとはいえ。

「日本のアイドル」とは何か? という話を、『楽曲派アイドルガイドブック』(2025年)に収録された〈RAY〉の内山結愛、〈XOXO EXTREAM〉の一色萌、〈メロン畑a go go〉の中村ソゼの三人へのインタビューから。
――すごくバカみたいな質問で恐縮なんですけど、アイドルってなんなんでしょう?
一同:「なんなんでしょう?」
――アイドルって音楽ジャンルの名前じゃないじゃないですか。ロックやヒップホップ、ジャズと並べるのはちょっとおかしい。
一色萌(以下、一色):たしかに、私たちのCDってレコード屋さんのどこの棚にあるのかわからなくなるときがありますよね(笑)。
――たとえば一色さんの所属するキスエク(XOXO EXTREAM)の場合、プレイヤーさんのキャラクターからアイドル棚に置かれがちだけど、サウンドのテイストで分類するなら、ロック棚ないしはサブジャンルのプログレッシブロック棚に置かれるはずですよね。なので「アイドルってなんだ?」と。
中村ソゼ(以下、中村):私がアイドルでいたいからアイドルなのかなあ?
一色:そういうことかもしれないですね。私、キスエクのサポートバンドに参加していただいているキーボディスト・諸田(英司)さんのre-in.Carnationでボーカリストもやっていて、そのバンドにはキスエクの小嶋りんもバイオリニストとして入っているんですけど、そのライブではアイドルと名乗ってないですから。
――そこではあくまでバンドマン?
一色:メンバーの半分はキスエクメンバーなんだけど、そうですね。でもキスエクのライブでキスエクの衣装を着て私が歌って、小嶋がバイオリンを弾いたら、それは私たちの中ではアイドルなんです。だからアイドルって、どういう気持ち、どういうスタンスでステージに立っているか次第で決まる存在なんだと思います。
――それこそSUPER EIGHTみたいに当たり前のように楽器を持つグループだって肩書きはやっぱりアイドルですもんね。
内山結愛(以下、内山):だからアイドルってチート的な存在なのかな? って思ってます。私たちRAYのやっているシューゲイザーでも、キスエクさんのプログレでも、ソゼちゃんのめろん畑a go goのサイコビリーでも、いろんな音楽ジャンルを自由に取り込めるし、楽器を持っていても持っていなくてもいい。そういう性格を上手く利用して活動している気がします。
「アイドル」とは音楽ジャンルではないのですね。
〈RAY〉のシューゲイズも〈XOXO EXTREAM〉のプログレも〈メロン畑a go go〉のロカビリー(にサイコなB級映画テイストを加えたサイコビリー)も、〈BABYMETAL〉のメタルや〈fruits Zipper〉の原宿カワイイ、「テレビ」で一時代を築いた〈モーニング娘。〉や〈AKB48〉。全部音楽ジャンルは違えども「アイドル」だし、楽器を持って演奏してもしなくても「アイドル」。その曖昧さを曖昧なまま楽しむジャンルなのでしょう。
逆に言えばアイドルとさえ名乗れば、どんな音楽ジャンルやパフォーマンスをしてもいいし、「(日本におけるカタカナ語としての)バンド」ともシームレスにジャンル移行できる。そして、「バンド」からも揃いの衣装で「アイドル」に変身できる。
ただ、そこに胡散臭い"チート"さを感じて受け容れられない人がいるのも分かります。私は音楽として実験的で面白いし、「バンド」よりもかえって自由を感じて興味が続いている。逆に言えば音楽の無い「アイドル」に興味は無い。
――最後にちょっと話が変わっちゃうんですけど、この本では広義の"楽曲派"と呼ばれるアイドルをフィーチャーしていて、僕自身、ここまでけっこう無責任にこの言葉を使って来ちゃったんですけど、みなさん、その楽曲派と括られることについてどう思ってます?
内山:いい意味にせよ悪い意味にせよどう括られても別にいいかな、って思ってます。楽曲派って必ずしもいい意味ばかりじゃなくて、楽曲にこだわるアイドルや、その曲を聴いているファンのことを「楽曲派(笑)」って言う風潮もあるけど、私の周りにいるアイドルさんには「(笑)」が付いていない。本気で音楽に向き合っているグループさんしかいないし、RAYももちろんそのつもりですし。
――であれば、なおのこと「(笑)」付きで楽曲派を語る人にムカついたりしません?
内山:でも「今どき冷笑はダサいよなあ」とも思っていて、だから別にどう括られてもいいかな、って感じなんです。
一色:そもそも自分たちが楽曲派アイドルを目指して活動しているわけでもないから、あんまり気にならないっていうのもあると思います。
内山:うん。
一色:それに正直な話、楽曲派という括りってふわっとしていますよね?
――確かに最初の"アイドル"の話と一緒。音楽ジャンルの名前でもないし、ともすればマニアックなジャンルを指向する、ある一群のグループをざっくりと括った抽象的な言葉でありますね。
一色:そもそも"楽曲"自体はどんなグループにだってあるじゃないですか(笑)。
内山中村:確かに(笑)。
一色:しかも今のアイドル楽曲ってどれもいいし、楽曲派に括られてはいないグループのメンバーさんやクリエイターさんも真剣に音楽に向き合っているし、実際どの曲も適当、おざなりではないから「楽曲派ってなんだろう?」ってなっちゃって。「そう括る人は"自分が推しているグループは特に曲がいい""曲に力を入れている"って認識しているのかな?」くらいのイメージで捉えています。
中村:演る側としてはそんなに強く意識してはないですよね。
――あくまで聴き手やメディアが使う便宜的な言葉って感じ?
中村:サイコビリーもシューゲイザーもプログレもそうだし、キラキラ系の楽曲も演れるのがアイドルなので。だから私たちは特定の音楽ジャンルのアイドルや、楽曲派のアイドルというよりもそれぞれのグループというジャンルを演っているアイドルという存在なんじゃないかな、って思ってます。「こういうジャンルの音楽のグループだから」という理由で応援してくれるのももちろんうれしいし、「面白い曲を演っている」という意味で楽曲派と呼ばれるのもうれしいけど、できれば"アイドル"として観てほしいな、っていう気持ちはあります。
「アイドルとはなんなんでしょう?」の次の質問は、そのアイドルのなかでも「楽曲派とは何か?」という話。
〈Fruits Zipper〉を旗艦とするKAWAII LAB.勢の標榜する「NEW KAWAII」から現在のトレンドを「カワイイ系」と表記していますが、当のアイドルたちは「キラキラ系」とも呼びます。まあ、確かに「カワイイ系」だとパフォーマンスの幅が狭まってしまうし、KAWAII LAB.にジャンルを代表されてしまいそう。「キラキラ系」の方がより広い概念を包括できそうではあります。

中村ソゼの"「面白い曲を演っている」という意味で楽曲派と呼ばれるのもうれしいけど、できれば"アイドル"として観てほしい"という感覚も知っておいてほしい。
1990年代の「アイドル冬の時代」を経て「アイドル」という言葉はどこか悪口のように使われてきました。「アイドルなんて(笑)」と冷笑するようなものだけでなく、「〇〇はアイドルを超えた。アーティストだ。」とか「〇〇はアイドルじゃない。アーティストだ」とか誰かを褒めるためにアイドルを下等なものとして見るような表現もそうです。
対して、「音楽として評価されるのもうれしいけど、アイドルとして観てほしい」という当事者からの言葉。

アイドルというものを低く見る人たちには、「アイドルはやらされている」という感覚が強いのだろうな。自分の意思で「アイドルというアート」をやっている当事者たちを無視して。アイドルの女性プロデューサーたちが透明化されて無視されるのも「男にやらされている」という思い込みの強さから来ているのだろうし。
そして、内山結愛の言う"「今どき冷笑はダサいよなあ」"は、彼女に限らず、色々なアイドルのインタビューやMCから聞くキーワード。


『楽曲派アイドル・ガイドブック』から「カワイイ系」のムーヴメントを作った一人であるヤマモトショウへのインタビューより。
――となると、アイドルってもどかしい存在でもありますね。新曲のコンペに参加している子もいるんだろうけど、たいていの場合、自作曲ではないし、作家も選べないから、「私が歌いたかった曲を誰かが歌っている」みたいなことが起きかねない。
だからこそクリエイターや運営は、そんなことを思わせないほどにその子を魅せるための箱を責任を持って作らなきゃいけないんですよね。なんて言えばいいんだろう? 僕らは監督や脚本家でアイドルは作り上げた物語を演じてくれる俳優というイメージ。映画のセリフを聴いて「あ、これ俳優の〇〇さんがしゃべってる」って思われたらもう終わりじゃないですか。
~(中略)~
アイドルについても同じで、本名のその子ではなく、"ステージに立っている人"がいい曲を歌っていることに疑問を持たれないような設定を作っていくのが僕らの仕事なんです。ただ、これって芸能の世界では実は普通なんですよね。今はシンガーソングライターという存在が話をややこしくしてますけど(笑)。
アイドル楽曲について語ると、つい背後にいる「大人おとな」と俗に称される運営プロデューサーや楽曲プロデューサーの趣味を若いパフォーマーに押し付けているのではないか? なんて話にもなります。
ヤマモトショウはこの構造を演劇で説明するのですね。監督や脚本家の作劇したものを舞台上で演じる俳優としてのアイドル、と。
演劇で監督や脚本家に対し「おじさんが若い子に趣味を押し付けてる」みたいなことは言われないですよね。これも「アイドルはやらされている」という感覚の強さから来るのでしょう。アイドル本人の意思を無視して。
現在のアイドル業界は芸能界と違って(相対的に)移籍は自由ですから、アイドル自身に"私が歌いたかった曲"があるのならば歌いたい曲を歌っているグループに移籍すればいいし、運営側も良い人材を確保したいのならば音楽はもちろんとして良い"箱"としても提示しなければいけない競争原理が働く。……当然、どんな業界にも意識の低い人はいるでしょうが。


ヤマモトショウは故郷の静岡で地方アイドル〈fishbowl〉をプロデュースしています。これが彼が提示する"箱"ということになるのでしょう。
――ヤマモトさんのそのシンガーソングライター評、大好きなんですよ(笑)。誰もが詞も曲も書けて、ギターも歌も上手い椎名林檎みたいになれるわけではないだろう、という。
自分の言葉と音で自分の世界を100%表現できる人がいるのは事実だし、そういう人は天才だから目だつんだけど、そんな存在、めったにいないですよ。映画の話をするなら、それって、ドキュメンタリーですよね?
――自分の過去や現在について自分で綴って歌っているから。しかもそれがハイレベルだから、みんな憧れるし、自分で曲を作って歌うほうが優れているのでは? という幻想を抱く。
でも、多くの人の手によって作り上げられたフィクションにも名作はたくさんあるんだから、天才になれることを期待して生きるのもおかしな話ですよね。
――それって音楽の世界以外にも見られる傾向ですよね。マンガや絵本であれば絵を描く才能とお話を作る才能って別物のはずなんだけど……。
~(中略)~
音楽だってその思い込みをエポケーしてもいいはずですよね。「クリエイティブも表現もすべてひとりでやらなければ」という固定観念を外したほうがラクに活動できるし、いい作品ができるはずだよなあ、とは思っています。
――美空ひばりだって職業作家からもらった歌詞と曲を歌って名曲を生み出し続けていたわけだし。
そうそう、運営はクリエイターを探してくることやグループの宣伝についてがんばって、クリエイターはいい歌詞やいい曲をがんばって書いて、アイドルはがんばってその曲を魅力的に表現すれば十分戦えるはずですから。
今の時代、日本に限らず、フィクションをフィクションとして楽しめない人が多すぎるように思うのですね。ノンフィクションでドキュメンタリー「と見えるもの」こそがリアルで本物。多様な人の手を介して作られる「作り物」は偽物フェイクであるかのように語られ、冷笑される。
現実リアル虚構フィクションは切り分けて遊んだ方が良いと私は最近特に思う。応援はあっても、人生そのものを消費に換えて商品化しようとする「推し活」とか良くない。
現実と虚構を切り分けて遊べないからフェイクが現実を浸食していくのじゃないのかな。


リンクしてあるのは、sombrの『back to friends』。

2025年を代表する世界的な(本来の意味での)アイドルは男性だとsombrになるのでしょう。2005年生まれのシンガーソングライターな彼が24年12月に発表した『back to friends』は一年通してBillbordチャートに入り続ける大ヒット。


普段の年ならプロレス界隈のみの盛り上がりだったのに、2025年のプロレス大賞は主催の東スポだけで様々なメディアで注目されました。

年間MVPに選ばれたのは上谷沙弥(STARDOM)。これまで男性ばかりだったMVPの初の女性受賞者となります。


年間最高試合賞は2025年上半期のプロレスを盛り上げたOZAWAと清宮海斗の一戦(NOAH、1月1日GHCヘビー級選手権)。
最優秀タッグ賞はYuto-Ice&OSKAR(NJPW)
殊勲賞はDDT所属でありながら米国AEWと新日にも参戦するKONOSUKE TAKESHITA(DDT/AEW/NJPW)。
敢闘賞はフリーランスとして女子プロレス各団体に参戦して話題を作るSareee
技能賞は現役引退を控えた棚橋弘至(NJPW)。
新人賞はTHE RAMPAGEに所属しつつプロレスに参入した武知海青(DDT)。
そして女子プロレス大賞は当然ながら上谷沙弥。

今年(2025年)のプロレス、特に女子プロレスが注目されたのは、上谷沙弥がマス向けメディアであるテレビで新しいスターとして取り上げられる機会が増えたからでしょうが、なんだかんだ言っても「テレビ」の力って大きいですよね。
で、今年のプロレス大賞で私が注目したのは、格闘技ではなくダンスをバックグラウンドとして登場したプロレスラーたち。新人賞の武知海青は当然ながら現役のダンスパフォーマーですし、MVPを争った上谷沙弥とOZAWAもダンサー出身です。
ひと昔前までは「プロレスはダンスじゃねえぞ」なんて怒られたものですが、今年のプロレスは女子も男子もダンサー出身者が盛り上げた事実があります。


プロレスラーとしては新人の武知海青のために、入場曲『BREAK IT DOWN』MVには国内各団体のレスラーたちが集まりました。

上谷沙弥がバラエティ番組の一コーナーではあるもののプロレスを披露した際には「TBSでは51年ぶり、地上波23年ぶりの女子プロレスの生中継」と話題になりました。
プロレスは2000年代に入ってから長い間日本では「冬の時代」が続いていたわけですが、2024年の『極悪女王』の地均しを経てようやく「地上」に出れたということなのでしょう。

最近、私が気になっているのは、世界三大プロレス大国といえば米国・メキシコ・日本ですが、この三国以外におけるプロレスの復興傾向について。
例えば、現代日本プロレスの創業者とされる力道山は朝鮮半島出身で、韓国でも1970年代まではプロレスの人気はあったはずですが、キム・イルとキム・ドク(日本でのリングネームは大木金太郎とタイガー戸口)の後に続く名前が出てこない状況が長く続いてきました。しかし、ここ数年、新しいプロレス団体として2018年に設立されたPWS Korea(Pro Wrestling Society Korea)が徐々に人を集められるようになってきて、客席を見ると子どものファンが多いのに驚きます。
日本とメキシコを除く世界各国はどこも、自国のプロレスが衰退し命脈を細々と保つばかりになった後に市場を米国WWEが制覇し、歴史の断絶からどこの国でもローカルなプロレスすらも「WWEごっこ」になり、国によってはプロレスそのものがWWEと呼ばれる(例えば「日本のプロレス」を見て「日本版WWE」と呼ぶ)ような状況がありました。全てがWWEになってしまうのかな、なんて2010年代までは思っていたのですが、WWEごっこではない独自のプロレスが各国で復興し、再び各国固有のプロレスの歴史に接続したら面白い。
そんな時、WWE式ではない日本とメキシコのプロレスを教える立場として、昔の知人たちが世界各地を伝道師かのように旅しているのを知ると感嘆します。

個人的に2025年に気になったプロレスラーは、WWEが登場させた新キャラクター、El Grande Americano。

メキシコ湾改めアメリカ湾からやって来た謎のマスクマン。
この色々と微妙な時代に、AIで作ったチープな存在しない歴史、偽史をキャラクター化したプロレスラーは興味深い。
エル・グランデ・アメリカーノ=大アメリカ人とは米国に呑み込まれたメキシコ人なのか、それともメキシコに呑み込まれた米国人なのか。
私はプロレスを伝統芸能化していない生きた民俗芸能だと思って観ているのですが、このキャラクターは民衆のどのような想像力に寄り添ったものなのかストーリー展開が気になります。


今回、紹介するのは、藪耕太郎の『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか 大正十年「サンテル事件」を読み解く』(2025年)。

1921年に来日し柔道家たちに異種格闘技戦を挑んだ米国人プロレスラーのアド・サンテル(Ad Santel)を軸に近代柔道とプロレスの関係を記した本ですが、読みながら、何だか懐かしい気持ちになりました。
私の若い頃も異種格闘技戦ブームの時代だったので、うさんくさい山師な興行主やドサ回り、各国の民俗的な武術道場への体験入門とか、色んなことあったな、と。日本人の特権として、どこの国でも日本人は戦闘民族として一目置いてくれるので、するっと中に入れてしまう。
著者の藪耕太郎は1979年生まれの立命館大学出身ということは、76年生まれの棚橋弘至とは同世代か。
2025年現在、日本最大のプロレス団体である新日本プロレス社長の棚橋弘至は立命館大学、スターダム社長の岡田太郎は同志社大学のプロレス同好会出身。棚橋弘至がプロレスラーになる頃は学生プロレス出身者はプロレスの世界では嫌われるしいじめられるなんて言われていたけれど、男子と女子の日本最大手がどちらも学生プロレス出身者が社長になるのだから時代は変わりました。

そんな本の中からサンテルと講道館の対決に至る主筋からではなく、コラムとして挿入された「職業レスリングからプロレスリングへ」より。
近代スポーツの歴史を辿ると、アマチュアが誕生してからプロが登場する、というパターンが多い。ただし中には例外もある。そのひとつが近代レスリングだ。その発祥には不明な点も多いが、大別すると、一方にはフランスのサーカスを発祥とする、投技主体の大陸ヨーロッパ型レスリングがあり、これは後のグレコローマン・レスリングへと繋がる。他方、イギリスのランカシャー地方を中心に発展し、多彩な関節技と攻防の自由度の高さから、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(手あたり次第)」(以下、「CACC」)と呼ばれるスタイルもあった。グレコローマンと並んで現在ではオリンピック種目となっているフリースタイル・レスリングは、CACCを祖としつつ、アメリカでスポーツライクに発展したカレッジ・レスリングに由来するものだ。
近代スポーツとしてのレスリングは二つの流派があり、現在のオリンピックでもグレコローマンとフリースタイルに分かれて競技されていますが、この二つは同じ競技から分かれたのではなく、グレコローマンは(ヨーロッパ)大陸式で、フリースタイルは英米式と出自が異なります。なので、流派というよりは相撲と柔道のように異なる格闘技だと考えた方がよいのかもしれません。
どっちが相撲で柔道か? となると、グレコローマンが相撲でフリースタイルが柔道と見ると分かりやすい。

レスリングがサーカス発祥だと聞くと不思議に思う人もいるかもしれません。Greco-Romanとギリシア・ローマ式レスリングを名乗りますが、古代のレスリングとの連続性は無く、街の腕自慢たちの祭りにかこつけた半ば喧嘩騒ぎの格闘に、フランス人で元兵士のサーカス興行主ジャン・エクスブライヤが1848年に共通ルールを作ったのが始まりで、この共通ルールが出来たことで格闘技興行が国境を越えて打てるようになったのです。そこにいかにも伝統があるかのように見せるためにグレコローマンを名乗るようになったとされています。
英米式のフリースタイルも始まりは似ていて、英国での腕自慢たちの祭りの日の「手あたり次第(Catch As Catch Can)」の力比べが洗練化され、米国でスポーツ化して現代のレスリングにつながるとされます。

"近代スポーツの歴史を辿ると、アマチュアが誕生してからプロが登場する、というパターンが多い"のに対し、近代スポーツの概念が確立する以前から存在するプリミティヴなスポーツ…例えば、日本人に分かりやすく言えば、まずお祭りでの賞金付きの草相撲があって、それが全国共通ルールで大相撲となる。そして相撲が仮にスモウ・レスリングとしてオリンピック競技になれば…とイメージすれば、近代スポーツとしてのアマチュアレスリングと興行としてのプロレス成立までの過程が分かりやすくなるのではないでしょうか。
開拓時代の西部では、殴る・蹴る・絞める・捻るに加えて、目潰しから耳削ぎ、頭突き、噛み付き、その他あらゆる攻撃が許容される喧嘩や決闘の習慣があったという。やがて各地に小規模な町が形成されると、各町を代表する「親方ブリー」と呼ばれる屈強な喧嘩自慢が登場し、町同士の代表が闘って互いの力を誇示していた。同時にこうした闘いは観客を動員してのお祭り興行としての一面もあり、やがて喧嘩自慢たちは見世物一座に加わって巡業するようになる。
これが格闘技興行のどこの国にもあった原風景。
娯楽に乏しい開拓時代のアメリカ大陸では、武器を使わず素手で行なう喧嘩が最大の娯楽の一つであり、こうした祭りの日に開催される草相撲ならぬ草喧嘩が徐々に興行化し、喧嘩自慢は見世物一座のサーカス団の巡業稼業に加わる一方で、町に残った"親方ブリー"は裏稼業にも通じた町の顔役の一人として興行のプロモーターとなって、後に言う「テリトリー」の初期段階を形成していきます(「テリトリー」は日本語に訳すなら「シマ」とか「ショバ」の概念が近い)。

興行として成立させるためにはレスラーが毎試合ごと怪我をするのでは商売にならない。徐々にルールは整備されていきます。
その後、南北戦争以降の三〇年間で、初期に見られた粗暴な闘争は様変わりしていく。町々を巡業するカーニヴァルは都市を拠点とする定期的なイベントに変わり、また観客層も骨が折れ血が迸る粗暴な戦いを好む荒くれ者の自営業者から、仕事の疲れをいやす程度の刺激を求める賃金労働者へと代わった。関節の取り合いやフォールの奪い合いなど、細かな技術の応酬を旨とするCACCの人気の高まりは、こうした社会変化に呼応している。スピーディでテクニカルなCACCは凄まじい勢いで資本主義社会が形成される〈金メッキ時代〉のアメリカと合致していたのだ。
南北戦争は1861年から65年にかけて戦われますが、戦後の米国は急激な経済発展を遂げます。
1870年代から90年代にかけての米国はマーク・トゥエインの本のタイトルからGilded Age(金メッキ時代、もしくは金ぴか時代)として知られます。
経済発展によって米国社会は急激に変化し、粗暴な荒くれ者の時代は終わり、単なる喧嘩自慢ではない、英国から舶来した上品でテクニカルな格闘術としてCACCが導入されてキャッチ・レスリングとなり、興行としても洗練されて現代プロレスにつながっていきます。
その一方で、CACCは体育にも取り入れられ、学生がやっても健全なカレッジ・スポーツとしてのアマチュア・レスリングへと分岐していったのですね。
この点でアマレスの形成期は、日本における柔術から柔道への変化と時代をほぼ同じくしており、『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか』というタイトルになるわけです。
アメリカの職業レスリングを見舞った最初の危機は一九〇〇年代前半に起きた。八百長試合の発覚である。このとき職業レスリングには非洗練的あるいは反都会的という刻印が捺され、
~(中略)~
職業レスリングの試合は少なからずスポーツを装ったフェイクである、という認識が広く共有されるようになる。二〇世紀に至ってなお、前時代的なサーカス芸が横行していたこともそれに拍車をかけた。とはいえ、中にはリアルファイトも混じっているとも思われていたし、なにより試合の結末が決まっていようがいまいが、職業レスラーがCACCの専門家である以上、その実力に疑いはなかった。
金メッキ時代を過ぎ、20世紀に入る頃には、現代プロレス成立まであと一息。
経済発展した米国にヨーロッパのレスラーたちが次々と海を渡って集まり、1905年にはThe World Heavyweight Championship(統一世界ヘビー級王座)が制定されて世界一を決める試合と称して興行が打たれるようになりました。初代の王者はジョージ・ハッケンシュミット。エストニアからやって来たレスラーです。
この世界王者ハッケンシュミットのライバルがアメリカ王者のフランク・ゴッチ。1908年4月3日に行なわれた両者の戦いは多くの観衆を集めた注目の一戦でしたが、(広義の)プロレス史に残る疑惑の一戦となり、それまでの数々の八百長疑惑の総決算となって米国の職業レスリング興行は失速。「フェイク」の概念が広く認識されるようになったのです。

ただ、興行にはフェイクも含め「虚実入り乱れるものだ」という共通認識が行き渡ったことで、1910年代から20年代にかけ、
この頃、現在私たちが知るプロレスが誕生する芽があった。
~(中略)~
実力よりも見た目の分かりやすさが重視されるようになり、ルックスに秀でた美形のレスラーが登場するようになっていく。その傍らでは、まるで一九世紀の見世物小屋が復権するかのように、いわゆる〈怪奇派フリークス〉レスラーも登場した。シナリオが本格的に導入されるのもこの時期だ。ある職業レスラーは、当時の様子を次のように振り返る。「レベルの高い試合をすると、退屈で飽きられ、観客に嫌われてしまう。だから、ほとんどの試合はフェイクをやり切るしかない。フェイクが観客にバレてもなお、フェイクの試合を受けたよ。(中略)全く厳しいゲームだ。どう転んでもどうせ間違いなんだから」。レスラーありきの試合から観客ありきの興行へと、職業レスリングは舵を切ったのだ。
1914年から18年にかけて戦われた第一次世界大戦はヨーロッパを疲弊させる一方、無傷のアメリカ大陸は繁栄を謳歌します。多くの移民がアメリカ大陸に流れ込み、世界各地から腕自慢の格闘家たちもやって来ます。その中には日本の柔道家たちも。
この結果、レスラーに様々な独自のキャラクターを割り振って対決させる現代プロレスが誕生するわけです。
異なる出自とキャラクターを持つレスラーを対決させつつ、観客を盛り上げて試合を成立させるためには、当然ながら、レスラーたちには「お約束」の共通認識が必要となります。
一九三〇年代になると、プロレスの約束事を理解することは観戦上の作法にすらなる。やや長い引用だが当時の記事を提出しよう。
として1932年の『Collier`s Weekly』誌に掲載されたビル・カニンガムの「The Bigger They Are」という記事を引用しています。
……原文を探したのだけど前半部分しか見つけられなかったので私自身で確認してはいないのですが。また文中に加えられた訳注はカットして二次引用します。
おそらく最も驚くべき点、それはファンたちがこれらの物語を幾度となく見て知っているにもかかわらず、なお同じようにショーに集まるということだ。〈良きプロレスの街〉でプロレスの観客を観るのは勉強になる。彼らはパフォーマンスのルーティンを完璧に理解しているように見え、彼らの行動は初心者にも帰り支度を始めるタイミングを正確に教えてくれる。
このドラマはほぼ三幕構成で上演される。第一幕では、最終的な勝者が攻撃的な姿勢を示し、清潔かつ紳士的な方法で優位に立つ。彼は粗暴な対戦相手の卑怯な手口をものともせず、速さと技術、そしてスポーツマンシップで観客の支持を獲得する。
第二幕では、粗暴な対戦相手が徐々に攻勢を強めていく。主人公は反撃を仕掛け、戦いはほぼ互角ながらも、対戦相手の汚い戦術が徐々に奏功し始める。第三幕では、最終的な勝者が対戦相手の残虐で不当な戦法により不利に追い込まれていく。彼はリングから叩き出されたり、残酷にも後頭部にパンチを貰ったり、膝蹴りを食らったり、痛々しくも股を裂かれたり、あるいはそれ以上に散々な目に遭う。
人として許容できる限界にまで達し、観客が粗暴な対戦相手に野次を飛ばし、疲労困憊する被害者には同情の声を上げる中、被害者は突如として凄まじい〈フライング・タックル〉でマットから飛び掛かり、一〇ガロンのアイスクリームよりも冷徹に対戦相手を打ちのめす。
重要なのは、お気に入りのレスラーが完全に力尽きたようにみえるや否や、大都市の観衆は帽子やコートに手を伸ばし始めることだ。それがショーの終わりを告げる合図だと彼らは経験的に知っているのだろう。しかし、彼らは来週また戻ってくるのだ。それもほとんどが友人を連れて。
なぜか?
なぜなら、それが何であろうと、あるいは何かでなかろうと、それは見るに値する刺激だからだ。
1930年代に形勢逆転のフライング・タックルを必殺技としていたのはガス・ソネンバーグ。
NFLのプロフットボーラーからプロレスに転向したアメフト仕込みのタックルがソネンバーグの売りで、格闘技をバックグランドとしてしていないキャラクターありきのプロレスです。

百年近く前に書かれたこの"三幕構成"のプロレスの試合展開フォーマットは今も基本的には変わっていませんよね。これはプロレスだけでなく、例えば、アクション映画の戦闘シーンでも基本は同じですから「観客の求めているもの」がこれなのでしょう。
プロレスについて話せば必ず「プロレスって八百長だろ」と冷笑してみせる人が現われます。でも、そもそもプロレスには、プロレスが誕生したその瞬間から八百長という概念は存在しません。それも昨日今日の話ではありません。"プロレスの約束事を理解することは観戦上の作法"としつつ、"それは見るに値する刺激だからだ"と、プロレスというエンタメをショーとして楽しんできた百年の歴史があるのです。
その上で、帰り支度と伸ばした手を思わずマニアでも止めるようなプロレスを創り出そうと、プロレスラーたちは命を懸けてもいるのです。

ただ、「お約束」とか「お作法」が必要なエンタメはハイコンテクスト。マニアだけじゃない大衆的人気を得て維持するには絶妙なバランスが欠かせないのが難しい。
今の日本の大衆マスが、ハイコンテクストなエンタメを理解できるかどうかは疑問なんだよな。



2025年も年末となり、様々なジャンルで今年を振り返る記事やランキングが出ていますね。
日本の洋楽誌ではスペイン出身のROSALÍAが高く評価され、『MUSIC MAGAZINE』では彼女のアルバム『LUX』がポップ部門1位、『rockin'on』では全体6位。

活字メディアもオールドメディアだとかいう不思議な言葉に含まれて雑誌を読む人も少なくなったようですが、自分の視野に入ってこないジャンルについて知るきっかけになると思うんですよね。インターネットは結局のところ自分が知っていることしか知らせてくれない。

『MUSIC MAGAZINE』のラテン部門1位はメキシコ出身のSilvana Estradaの『vendrán suaves lluvias』でしたが、もし、私が今年、スペイン語圏の音楽としてアルバムを一枚、ラテン音楽を普段は聴かない人に紹介するとすれば、Mon Laferteのアルバム『FEMME FATALE』かな。
『MUSIC MAGAZINE』に寄稿するような人たちと私の趣味は合わないけれど、でも、だからこそ知識の拡張が得られる。

モン・ラフェルテは出身国のチリでは最も米国グラミー賞に近いチリ人歌手として知られますが、活動拠点はメキシコ。

リンクしてあるのは、Mon LaferteとNathy Pelusoの『La Tirana』。

このMVを懐かしく感じるのは、私がメキシコの場末を面白がって飲んだくれていた若い頃を思い出したわけじゃなく、昭和のムード歌謡ムンムンなところ。
アルバム『FEMME FATALE』全体としてもラテンアメリカ人だけでなく日本人にも懐かしさを感じられるはず、と昭和生まれだけど昭和の夜は知らない世代の私が紹介します。
日本の昭和歌謡がメキシコ音楽の影響下にあったのは明らかですが、ラテン音楽を聴く日本人の間では逆転してモン・ラフェルテの楽曲を「ラテン演歌」なんて表現する人もいます。彼女自身も知っているのか『Antes De Ti』と演歌を意識した曲を発表していますし、『Paisaje Japonés(日本の風景)』と名付けた曲も私が幼い頃に流れていた歌謡曲っぽい。
そんな彼女の楽曲がグラミーを獲ったらチリ人やメキシコ人だけでなく日本人にとっても面白いとは思いませんか。是非、これまで知らなかった人がいれば過去の曲も含めて聴いてみてください。
そういえば、ROSALÍAには逆に日本の場末感を旅する『TUYA』があったな。