クラブゴーストタウン【カフェ、音楽事務所、モータース、私立探偵、撮影部】

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AI技術の進化がすごい

 

最近、youtube投稿は非常にスローとなっていますがもう、この話題につきます。

 

AE86のLINK ECUにしてもECUチューニングのスタンダードとなる価格の実現と

速い処理。これはこれで素晴らしいものですが、単にそれはごく単純といっても悪いが

PC的なハード的な話であってそういったデバイスが少なかっただけに過ぎない。

 

 

しかし、動画編集していると、編集ソフト内で去年から

本当に様々なAI技術の編集操作がバージョンアップされてきました。

 

 

 

 

 

当YouTubeコンテンツの【異臭の森】(一部の方にはオオウケだが、不人気w)では

ナレーション生成が使えるレベルだったので早速取り入れるとこれがまた面白い。

 

(ナレーション生成の活用によりAIを使うことでより面白い感じに出来ています。)

 

当初 YouTubeを始めるにあたっては顔出しはしなくても、頑張ってしゃべって、

テロップを入れたほうがいいのであるが、それが苦手で躊躇している人も多いのである。

私もしゃべるのは得意ではなかったのだが、頑張ってしゃべっているのである。

そこでナレーション生成が登場しこれがまた、少し前の機械的な音声ではなくより

人物感がでているので、今後は活用幅が大きい。

 

またしゃべりが苦手という人にもナレーション生成がカバーできるので動画コンテンツ制作において、自由度も高く、敷居も下がったのではないだろうか。

人間とナレーション生成との掛け合いなども面白い。

 

少し届かない点といったら、日本語の難易度がある、漢字を正しく読んでくれなかったり、

イントネーションがおかしかったりすることも少々見受けられる。

そこは人間サイドでひらがなにして読んでもらったり、スピードや音の高低を変化を

部分的に変更して幾分かは対処できる。

 

画像生成、動画生成、文章生成など使える用途は多様である。

いわば、単体で頑張っていた生命体に補助脳みたいなものが

増えてマネージメントしてくれるのである。

 

 

そして2023年の年末から沸いているのが楽曲生成AIこれがまた、いよいよ日本語を

いいレベルで歌ってくれだしたのである。

 

(AIで歌詞生成して楽曲生成AIと合わせて、歌詞を再構成、添削、楽曲ブロックを好みに編集)

 

94年頃の私の高校生バンド時代に遡れば、アマチュアミュージシャンといえば、

すでに世の中はCDの普及が成功し高音質な音楽が出回っているにもかかわらず、

カセットテープがまだ主流で多重録音ができるMTR(マルチトラックレコーディング)機材

であった。

 

これは、市販のカセットテープ(タイプ2ポジション)を使用して

テープを市販プレーヤーより高速で回すことで、音質を上げる。

VHSにもあった録画の標準と3倍、3倍で録画すれば画質ボロボロになるやつ。

それと同じで、理屈を簡単に言うと、ゆっくり進むテープ面に書き込める録音テープ面積と

高速でテープ面に書き込める録音テープ面積では、高速のほうが多くの録音テープ面積が

使えますんで、早回しするほど音質は良くなるのです。

で、A面の左右LRチャンネルと、B面のLRチャンネルを一方通行同時進行にさせる。

これで合計4チャンネル(4トラック)を各トラックごとに録音して

作品やデモテープを作るという手法が90年代までは多かった。

 

しかし、やったことがある人ならわかるであろうが、最終的にミキシングして

トラックダウンするころには音飛びや劣化、低音がすっきり減ってしまうのである。

 

テープ宅録といわれたこの方法には難点があり、中には8トラックの上位機種もあったが、

4トラックでは全くトラックが足りないのである。

そこで行われたのがピンポン録音という手法。

例えば1トラックと2トラックに録音されたものを、まとめて3トラックにダビングするというもので、そうすれば、2in1できてまた使えるトラックができる。しかし、テープの特性上、

やればやるほど音質は劣化する。

加えてステレオサウンドを作りたいともなれば、さあ大変、最初に録音されるであろうセクション(ドラム)はステレオだ。これをLRっステレオで録ると、残り2トラックしか使えない!

ギターダビングしたい、コーラスだのやってると最終的にはボロボロの音源の完成である。

そしてまとめてしまったトラックはもう後でレベル調整が出来ないのである。

独りでやるのは本当に大変だったのである。

当時は打ち込みでオケを作りこみ、オケと同時に自分でギターを弾いて、一気に2トラックステレオで撮り、残った2トラックに、ボーカル、コーラス、ギターなどを差し込んで、極力ピンポン録音はせずにやるという技を使っていた。

 

もう一つおもしろい話だが、MTR機が買えなかった頃。

市販のオーディオやラジカセの録音をガチャ!と押して録音である。

床の物音、足音などを録音しないようにひもでラジカセを天井から吊り、

いい感じのバランスで撮れる場所を探し、みんなで演奏する。

最終的にはドラムスの天井からマイクをつるして録ったりしていた。

こうして苦労の末、できたカラオケテープをオーディオコンポで再生させ、

もう一つレコーダー機能があるコンポを用意して、

そこに再生側機からRCAケーブルで録音入力させる。

レコーダー側コンポにマイクをつなぎ、重ね録りしたい、

ボーカルやギターを演奏して多重録音を行っていた。

これを繰り返せば多重録音ができるのであるが、

二度目の多重録音をやれば、ベースなんて全く聞こえなくなっていたのだww

 

そんな時代だったのでプロ(セミプロ)かアマチュアなのか?というのは、

楽曲がどうこうの前に持ってきた音源の音質で一発で区別がつくもので、

バンドの音源音質が悪いというのは僕たち素人と言ってるような感覚があったものだ。

そういった苦労で音質問題と時間効率の悪い作業でやっていたものが、

手の平に収まるスマートフォン一つでなんでも、

一流なことはできないが、それなりなことが出来てしまうのである。

これは感動である。

 

また楽器や楽曲に取り組みたく、ボーカルは入れたいけど歌えない、苦手といった

状況にも最適である。

 

AI技術がここまでのレベルに来ればプロユースとしても使える機能も装備してくるのは

もうはやいと思うそうなれば、センスと感覚的なものだけで、今まで聴く側だった人たちが

すごい作品を作る可能性は無限大である。

 

しかし、いろいろ試行錯誤してきた経験、技術、知識は無駄にはならないと信じている。

それはAIのみでやらせて、仕上げるとどうもおかしな点は多々でてくるのはあるし、

そこが進化はするだろうが、やはりネット上にある既存のものを食ってきたAIが生成するので、

人間による加筆というか添削、編集でAIと上手にタッグを組めないと今一つしょっぱい作品しか

出てこないからである。

そこは前回書いた 大切なことはネットにも本にもないという推察が

私は正しいと思っているしAIの持ってきたアイデア、作ってきたものを基にしていっても

最終的には素晴らしい例えば、構成作家、監督が仕上げることが必要である。

その仕事は人間であってほしいし、そうでないと心はつかめないのかなと思っている。

生成した曲に人間による演奏や歌唱、再構築、歌詞の手直しやそこからのイマジネーションで

仕上げるとこれまた新しいものが生まれるだろう。

だから人間は絶対必要でレベルもそれぞれの作者で差が出るはずである。

 

 

 

当店はLINK JAPAN加盟店です。

 

お取り付けセッティングについてもご依頼可能です。

 

また、LINK ECU や 関連商品は通販させて頂きますので

お求めの際は、当店HPよりお問い合わせください。

 

只今、キャンペーン中は特にお買い得価格にてお見積りいたします。

 

ECUやセンサー類、ハーネス類、カプラー、...etc 通販対応いたします。

 

 

 

はまってはいけない世界、

今年はじめたカメラの話で、今日は書きます。

 

これに限らず、車の世界、音楽の世界も同じだなと思っています。

 

仕事柄車の写真撮影もかなりやってきました。

ただ、雰囲気のみで撮影をしており、

基本的な絞り、シャッタースピード、ISOなどは気にしてませんでした。

 

やるからには、基礎から。

当たり前のように登場する専門用語の意味、その使い方。

そこからのスタートとなりました。

 

とはいえ、構図みたいなものは昔から自分なりにどうすればかっこよく見えるか

どうすれば迫力出るか、どうすればドラマチックになるか、などとやってはきたので

我ながらといえばおかしいかもしれないが、、アングルや構図は結構、意識してきたのである。

こんな感じで、基礎もわからずともフィーリング程度のこだわりは有りました。

 

でもカメラの仕組みや構造、操作方法などは知らずにデジカメ、スマホ任せでしたので、

これからはより、表現力を付けれたらいいなといった感じで趣き深い楽しみでもあります。

 

 
 
きっかけはカメラを安く譲りうけたこと、頂いて数か月放置していたのだが、
なんとなしに使ってみようかと持ち出し、近所の公園で夕方撮影してみた。
  
なんかね、全然 自分で撮ったという感触がない。
使い方のわからないカメラのシャッターを押しただけという感覚で
欲しい絵にできない。とても嫌な感触でした。
夕方ということもあり、明るさや色も思いとはなにか違う。
 
その晩、さっそく基礎的な情報をYouTubeで漁る。
どうやら、シャッタースピードを自分で決めるモードから
初心者は練習というところに行きついたので、ではやってみようと
このB500をみてもそのようなモードはない。
 
 

 

ちょっと待て!
ん?レンズの脱着はどうやるんだ?
あれ?外れないやつだ、一眼レフかと思っていたのだ、、、
 
何かと勘違いが重なっていた。
使い方云々よりもっと前の段階、カメラの種類を見過ごしていた。
 
手にしているB500をざっと調べると
コンパクトデジタルカメラ、略してコンデジといわれるカメラだった。
コンデジでも上位モデルというか、こだわり向けの機種だと
絞り、シャッタースピード、ISOなど自由に操作できるものがあるが、
このB500はシーンを選んでそれっぽく素晴らしい撮影をしてくれる、
高級お任せカメラ的な感じで、自分の好きに設定をいじれないのである。
 
一気に冷めた。
 
これでは練習にならない。
 
どうせならフィルムがカッコいい!くらいのノリで
Leicaのフィルムの中古をそろえる。
 
なかなかのいい味の写真が撮れるわけではあるが、練習するとなると
フィルムの無駄打ちやフィルム代、現像代のコスパが非常に悪く、
これは腕を磨いてからフィルムに帰ってきたほうがいいと痛感しました。
 
 
では、プロが使ってるカメラなら、いいだろうと覚悟して、いろいろ調べに調べ、
現役でも使用されているという一眼レフ機のこちらの中古を買いました。
 
ブランド キヤノン
モデル名 EOS 5D Mark IV
最大画像解像度  30.4 MP
フォトセンサーサイズ  フルフレーム(35mm)
最大シャッター速度 30 seconds
最小シャッター速度 1/8000秒
   

デジタルカメラはどうもセンサーサイズというのが

そのカメラの性能を図るには大きな要因の一つのようで

フルサイズセンサーと呼ばれるカメラなくしては簡単に言うと

カメラマン語るな!って話になっている。

乱暴な書き方にはなっているかもしれないが、そうこうしているうちにも

正月からカメラを初めて2か月あまりで4000枚以上も撮影し、

初心者として、ニュートラルな精神で基礎を中心にネットで学び、

ネットにない情報は本から仕入れ、情報を乱読しつつシャッターを切っている。

 

で、このEOS 5D Mark IVを使い、何気に取った目の前のビール。

素人ながらその性能の違いに圧巻された。

 

ただシャッターを切っただけでこんなに撮れてしまうカメラを

自分の思い通りに操れたら、もうカメラのせいにはできないから

これで腕を磨いていけば間違いないだろうと思った。

 

専門分野 実は初心者を歓迎しない事について。

 

今回、新しいことをはじめ、新しい世界へ足を踏み入れたのであるが、

やはり 存在するあれ。 違和感。

 

過激なことを言うと プロは新参者を望んではいないのである。

社会通念上、夢は大事、楽しいからおいで!、初心者でもOK!みたいな歓迎モードでは

一見あるが、本当に内心そうなのだろうか?

 

さかのぼること30年前、15歳の頃、ギターをはじめたのであるが、

当然、楽器も触ったことのない状態からの超初心者である。

意気込みだけはかなりあって、猛練習して絶対うまくなってやる!と思っていた。

当時、先陣切って始めたのが自分であり、教えてくれるような先輩はいなかった。

じゃ、どうやって覚えていくかだが、当時はネットもなく本、雑誌の初心者向けコーナー

みたいなものを読んでは実践するくらいしかなかったのだ。

 

それは、意気込みを打ち砕くには充分な内容だった。

弦の張り方、チューニングのやり方、

コードの押さえ方、コードチェンジのやりかた、スケール練習、ストローク


一見、親切そうには書いてはあるが、

ルート、主音、ドミナント、サブドミナント、ペンタトニックスケール

ダイアトニックだのへんてこりんな用語ばかり、平気で専門用語も

説明なく書かれており、15歳の少年にはとても難しいものであった。

 

今思えば、いわゆるどの記事を読んでも嘘は書いてはいないが、

親切に難しくしている節が多々あり、

 

こっちの世界はとても難しくレベルが高いから、

こっちの世界には、入ってこないであきらめてね

 

このような意図があるのである。

 

夢は売るが、本当の意味での成功は与えない。

 

この構造である。

 

それは商業的な本質と、職人敵、商売敵となる脅威はできるだけ

芽を摘み、それを乗り越えたものだけの世界。

彼らはハイレベルな人材が量産されては困るからである。

楽しいことは教えてくれず、プロ志向の苦行である。

 

本当の意味でのコツみたいなことや、核心にある単純な何かは

どれも教えてくれない。

 

これは自分でたどり着くか、信頼関係あっての人からの伝承でしか

知ることはできない。

 

小出しにされた 楽しそうな 目からうろこ情報は、中の下レベルまでは

こんなもんで出来るよ!というもので、大事な本当の部分は絶対に教えないものである。

 

そんな中2年が経ち、少し、ギターも触れるようになって、高校卒業して

ギターのプロともいえる大先輩に出会った。

たった一言、教えてもらったことが、すごい大事なことで

あれなしには先に進めない技術であり、

自分一人ではなかなかたどり着けないだろうなといったことであった。

 

さて、少し話を変えて、

ピアノや鍵盤楽器が出来ない人に問いたい。

 

ピアノ両手で弾くことって、すごい難しく思ってないでしょうか?

自分も鍵盤弾けたらどんなにいいだろうと思いチャレンジしたことがあります。

で、本屋さんで大人から始めるピアノみたいな初心者本を買い2ページ目で挫折。

 

やっぱり鍵盤なんて幼少期からやってないと無理だわ。

 

そうなるわけです。

 

あんな本で本当に弾けるようになる人いるのだろうか。

 

こっちの世界はとても難しくレベルが高いから、

こっちの世界には、入ってこないであきらめてね

 

また言われてしまったわけです。

 

 

それからまた出会いがあったわけで、

音楽家の先生と出会いました。

 

自分は鍵盤ってあこがれるけど とても今更、無理でしたよ。

 

先生は、超一流になるなら無理だ。

それなりにはできるというのである。

 

それから週一日、先生のもとで音楽全般の理論的なことや

ピアノの弾き方を習い、ここでようやくわかった。

 

ネット、雑誌、本、さらにプロアーティストまでも

プロ〇〇といった初心者向けユーチューバーもそうで、

発信している内容は

 

こっちの世界はとても難しくレベルが高いから、

こっちの世界には、入ってこないであきらめてね

 

これなんですよね。

 

中には親切にわかりやすく評判も良いものも確かにあるし、

確かに勉強になるものがある。

 

でもそれは、核心を抜いたレベルまでで、

とっておきのコツみたいなものは絶対に教えない。

 

これはそのそれらを批判する意図ではなく、この構造が分かって

学ばないと、天才でもなく素質のない我々は、

夢だけ売られて騙されちゃうよって警鐘のようなものである。

 

 

 

 

 

 

日頃、AE86のエンジンチューン デフなどで、大変お世話になっている

専門業者を超えたプライベートガレージの赤ハチさんの協力で

今回 お店のキモハチことAE86トレノへLINK G4プラグインが実現いたしました。

 

 

 

35年選手の老体ともなるAE86がまだまだ、

様々な新商品や新たな手法でリファインされ続けておりますが、

頭脳も同じですね。

 

車体は高騰してしまいましたが、まだまだ遊ばせてもらえそうです。

 

 

 

 

 

 

 

またしてもでましたね。


4日の歌唱イベントは



一旦、延期で仕切り直しという連絡がきました。


生バンド歌唱は、スタッフオンリーの無観客で

デモンストレーション的にあるようで、

折角の機会ですからやります。



さて、大変な世の中で、

緊宣感覚がおかしくなってしまうこの頃。


車の方は、

面白いものが入荷予定です。


その一

わかりますか?

そのニ


こちらはわかりますね。

近日入荷します。

まだ、どう扱うかは決めてませんがね。




急にブログ更新しだしてどうしたんだ?と思えば重いことを書きなぐってしまいました。

勝手に一つの区切りとして、ずっとモヤモヤとしていた思いの丈を書かせてもらいました。

 

内容だけにフォーカスすればよくあることなのかもしれないが、

取り囲むバックグラウンドで起こることに大いに影響し、

芯の深い不自由と圧力と、言えない事情が絡み合っているもので、

一見、表面は、好き勝手に自由そうでも、中身はそうではないのでる。

 

ほんの一部見えた様子に過ぎない。

 

それは、仕事とは別に生き抜きでやっている趣味、家庭にもつながることばかりで、

全てはつながっている。

 

あの職場は人間的な生活を破壊するものがあった。

どんなにタフでにこなしていても、

確実にあのストレスは【精神と活力】を木っ端微塵に破壊していった。

 

 

よくも昨日は休めたもんだな!

 

こんな状況で休めると思うなよ!

 

これが出来てないってことは普段から全部できてないって事とみる!

 

どれくらいのつもりで言ってたのかわかないけど、

この力は絶大で、売り上げの悪い時にこういわれると、

悪い報告はできなくなるし、

バンドをやってライブが決まり毎週練習し、ライブ当日の休みを希望したくても

ずっと今調子じゃそれも言えない。

車の走行会に行きたいとしても同じ。

コンサートを見に行きたくてもいけない。

家族の行事で休みたくても休みを求められない。

旅行なんて到底計画できない。

気が付けば子供は大きくなってしまい取り返せない時間はどうにもならない。

 

僕は中学2年生の時にBOOWYを聞き、ヒムロックに憧れた。

いまだに聞いている。

 

矢沢さんの【成り上がり】は読んではいないが、

BOOWYの【大きなビートの木のしたで】を何度も読んでいた。

 

ヒムロックのようにかっこよく生きていたかった。

 

似ても似つかないような姿で過ごしてきた。

 

信念とは裏腹に、罵倒、屈辱に耐え、

それでも顔色を伺いながら、なんとかやってきて

弱く非常に惨めな思いをしてきた。

 

ヒムロックが引退を発表し、最後になる【LAST GIGS】福岡公演。

 

僕にとってはかかせないものだったので、

なんとか半日休暇をお願いした。

 

しかし、それにもケチをつけられ、当日出勤したら、

今日は何時まで働くんだ!、どんな格好をしてきてるんだ!

コンサート仕様のファッションか?などと、

強い風たりで、嫌な思いをヤフオクドームまで持ち込み、

ヒムロックのラストだったのに、もやついたままだった。

 

どんなに忙しくても毎日ブログを書くのがルールになり、

記事がつまらなかったり、内容が悪いとまたゆわれる。

 

せめていつも機嫌よくしてくれさえいれば、気も楽だったのに、

一瞬で機嫌も変わるので、気が気でない。

 

気が付けばプライベートまで支配され、

思想も気に沿わないと少しでも感じさせると

そんな風に考えてるのか? なぜこう思って行動してないのか?

といわれていた。

 

横でピンハネ、横領で私腹を肥やす者を

横目に金策と対策に頭を抱える。

 

それでもだ、

人間、そんなに悪い奴はそういないと思う。

 

 

追い込まれなけば。

 

基本、良い奴ばかりだと思う。

 

追い込まれなけば。

 

それで私生活や家庭までも、壊れてしまうのだ。

 

追い込まれさえしなければ、背徳も裏切りもそうで、そうは行動しないものだ。

 

 

彼はたまに来ては新調した車や、バイクを自慢し、

ツーリングに行ったことや、コンサートに行ったことを聞かされる。

それでいて、従ってくれる人の精神を攻撃し、自由を奪い、ペナルティと減給し、

時間、お金、自由を奪う。

 

すべて現実でどこに僕の責任はあるのだろうか?

 

なんとか隙間で小さくもがき動いてきた。

 

【ショーシャンクの空に】のように

結局、自由は

自分で手に入れないといけないことに気が付き、

脱獄を計画し、僕なりに少しづつやってきたわけである。

 

そう思ってもそうはいかない。

 

18年間いて、会社に多少なりとも、たしかに損害は与えたかもしれない。

しかし、それ以上に貢献はしてきたはずだ。

 

360連勤の報酬もない。

残業手当なんてない。

代わりのつもりか知らない販売手当の歩合以上に働いた。

時給計算するとバイト以下の賃金に幻滅もした。

お客の信用も上げる努力はしてきた。

書ききれない貢献は数知れない。

退職金なんて契約はもともとなかったが、

これらの清算は何一つなかった。

 

数えきれない罵声、

後ろから蹴り飛ばされたことも、

胸倉つかまれて壁に叩きつけられたこと、

スネをけられたことも、

売り上げが悪く、密室に呼び出されて

日本刀を抜かれ、顔の前に突き出されたこと。

お店で安暴れて、同僚の顔面を蹴り上げて、ぶん殴っていたことも

全てを記憶している。

 

事実しかここには書いてない。

人には言えない職場だったし、この屈辱は今でも消えないのだ。

まだ、そんな嫌な夢をたまに見る。

 

計画途中で彼の旅立ちという、天命をもって、

今、この状況にいるようなものだが、

戦う準備はしていた。

 

今、社風は改善されているに違いないし、

特定して攻撃するつもりもない今だからこそ書けるし、言える。

当時は決して外には言えなかったことを言わせてもらえば

甘えではなく、心の底から本当に辛かった。

最悪の職場だった。

 

似たような環境の人がもし、読んでくれていたら、

僕は言いたい。

 

どうか自責の念を捨て、すぐにでも逃げて欲しい。

 

修行、下積み、未熟、だと思っても

間違えると、とんでもなく取り返せないものになるから。

 

たとえ周りにも迷惑かけたとしても

あなたは悪くないから、逃げる道を選ぶべきだと。

 

そして2020五輪が開催された今年。

僕にとって、挑戦の機会に恵まれました。

 

一つは、

AE86 DRIFT ChampionsCup

これは流れで参加します。(笑)

強豪相手に力は及ばないのはわかっていますが、初の大会経験となります。

 

二つ目は、

恥ずかしながら、9/4のコスモスコモン大ホールでの生バンド演奏で歌わせていただきます。

大ホールで歌う機会は後にも先にもないかもしれませんので、大きな挑戦です。

 

僕のオリンピックともいえる挑戦です。

反動で楽しみすぎてるように見える僕をどうかお察しください。

そう見えても考えてやってるつもりです。

 

ヒムロックみたいにかっこよくは、なれなかったけど、自分なりに

これからは、もっと視野を広げて精進したいと思います。

宜しくお願い致します!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返っていると、好き勝手にわがままな性格が目立つわけだが、

決めたリミットいうか、自分で決めた一定期間は

努力こそ足らないが、嫌な環境でも飽きがきても

忍耐力で絶えるようにはしてきたつもりではある。

 

好きではじめて飽きが来る、嫌な人間はつきもの。

これはなんとか耐えれるものだが、

信念を通せなくなるような

上からの圧力には耐えがたいものがある。

 

 少年野球の監督

 学校の先生

 先輩

 バイト先の店長

 車屋の社長

 

どこにでも存在する話ではある。

僕は協調性が低く、ヤな奴らとは、うまくやろうとも思えず、

処世術は下手だったので、ストレスでしかなかった。

 

働き出してすぐに、同級生WとYにお金をだましとられていた。

高校の時のたまり場だったところに

Wが先輩のバイクの部品ツッパリテールを、置いていたが無くなっている。

5万円払わないといけないから、皆で割り勘でといった話だが、

時間がないらしく、とりあえずついてきてと、いったところが

 

武富士だった。

 

あとで、皆で返せばおわりという話がそもそもだめだった。

 

受付で、いくら必要ですか?に5万円と答えたら

枠を作るために20万円とされて、

20万円が簡単に渡された。

 

その後すぐに割り勘で回収はできたので、全額返してこれでおしまいと

返しに行く寸前にまた WとYが現れた。

 

どうも悪い先輩にどうのこうのなってるようだが、そもそも、WもYもそんなに

親友までもないし、ガラの悪いほうだったので信用できない。

 

案の定 お金を一旦持っている僕のお人よしに付け込んできた。

 

土下座してお願い 10万円貸してくれ!!

Wに10万円貸す、保証人はY。

25日までは返すからなんとかと、泣きつかれた。

 

約束は破られた。

 

Wはどこいったかわからなくなるし、

Yはツケ払いまでして飲み歩いているという。

 

保証人Yは何度も請求しても二人で借りたから俺にばかりゆうのもおかしいとか

言い出す始末。

 

僕はそれから、

作業がきつい時に思い出す、何であいつらの金返すのに働いてるんだ!と

激しく怒りをこらえて働いた。

仕事をして給料をもらうたびに、武富士に返済をしていた。

 

返済が終わったら、すぐにカードを解約し、ハサミをいれてもらった。

貸した10万円は高い授業料となった。

 

黒夢ファンで、ロック教信者みたいなとこが強かったので、

社会のルールも大嫌いだったから大人しくはしていても

黒い炎が常に内側に燃えたぎっていた。

 

反骨精神。

 

くだらない忖度 FUCK OFF!

同調勢力 FUCK OFF!

伝統 様式にまで FUCK OFF!

 

そんな奴だったので、

バンドをしなくなってからの峠のドリフトは

すべてを吹っ飛ばす麻薬だった。

 

工場をやめる直前、2000年の2月くらいだったと思う、

20歳の僕はパソコン一式のセット SONY VAIOのデスクトップ プリンター スキャナーなど

30万円くらいをローンで買い、当時のダイヤルアップ回線インターネットをはじめる手続きを

済ませて、3年間務めた工場を退職した。

要は、働いてるうちにローンを組んで辞めたわけだ。

4月には娘が生まれる予定だったが、とりあえず自分の力で何かやりたかった。

 

ハチロクで福岡市内をうろついた。

 

数件の販売商材を提供する会社と繋がり、

耳にはピアス。

直管、ペンキ塗りのハチロクで

スーツを着込んで営業に回った。

 

今思えば非常に滑稽だ。

 

当然、一件も契約なんて取れない、全く稼げない。

安いエンジンオイルを買って、友達の車のオイル交換をして、

1000円もらったくらいで、まともにお金なんてもらえたためしがなかった。

 

会社で働いたら負けみたいな考えもあった。

 

しかし、金がない、、、。

 

2か月くらいで、貯金を溶かしてしまった。

 

 

そんなとき、パチンコ通いの同級生に、【代打ち】というシゴトを紹介された。

 

パチンコはやったこともなかった僕は、いやパチンコなんてそんな、、、と

思い話を聞くと、なんでも

 

・自分のお金は使うことはない

・成果報酬だが、どんな結果でも日当の5000円は必ずくれる。

 

背に腹はかえれず、やってみることにした。

 

単発も確変もわけのわからない僕は初日、親分の人が、

よこで確変、確変とよろこんでいて、なんのこっちゃわからなかったが、

どうも連チャンしているらしい。

 

奇数で当たれば次も必ずくるのか、、、。

 

そんな感じで、初心者の僕は出しまくった。

 

たしか 15連チャンだった。

 

3人で大勝していた。

 

終わると3万円くれたのだ!

 

!?

 

明日もよろしくね!

 

あんなにお金をもらうのって大変、そして嫌な思いして返済した借金、、、。

 

背水の陣で買ったパソコン、、、、。 一日で何なんこれ?

 

日曜日以外は毎日、彼(親分)の元につき、地元のパチンコ屋に通っていた。

 

午前中で負けて、見切りをつけ辞める時は5000円

夕方まで打って負けた時は、7000円

買ったときは15000~30000円を頂いていた。

勤めてた時より、手取りは多かった。

 

ただ、ずっとこれではいけないのもわかっていたので、

自分の開拓には励んだが、それに散財していた。

 

それと、友達や知り合いの冷ややかな視線も薄々感じていた。

 

煙草は玉で買い放題、

コーヒーはどこからともなく、朝 昼 3時 夕方と差し入れがバンバンくる。

お昼はかつ丼やカレーとビール。

当然それらは奢っていただいていた。

クーラーの効いた屋内でパチンコ台のハンドル握ってるだけ。

 

10Kgくらい太ってしまった。

 

これじゃあいかんよな、、、。

 

僕は自分の会社をつくるためには、

 

資金稼ぎと経験、人脈がなさ過ぎていた。

 

そこで、自分なりに方向性を考えた時、

 

今は仕事につこう。

ただし、興味のない仕事にはつかない。

さらに、辞めやすい仕事について、時が来たら

そこを辞めて自分のプロジェクトへシフトしようと考えた。

 

私生活が充実していることが支えだったけど、働かざるを得ない。

 

そこで、ハローワークで、車屋さんの求人をみつけた。

 

基本給は180000円。

日曜日休みで、就業時間は9:30~18:00時までとかいてあった。

 

僕はハチロクのエンジン載せ替えまで当時していたので、

整備はできると自信過剰なとこもあり、パソコンもできると

高をくくって面接へ挑み。入社することとなった。

 

どうも、求人票は規定に沿うために調整されて掲載してたらしく、

実際は19:30までで、それ以上になることもよくあった。

1台販売すると、手当が10000円。知り合いや、オーダーは30000円となっており、

21歳で手取り30万を超える月もあり、周りの友達より多かったと思う。

 

ただ、オーナーはいわゆるゲッテン持ち かなりの気分屋でスタッフ一同

社長の機嫌は良いか?が合言葉だった。

 

辞めやすそうな会社ではなかったことにすぐ気が付いてしまう。

 

それでもこうやってなんとかたどり着いた車の仕事。

歩合ももらえるので、まじめに取り組んで働いた。

 

1年~2年くらいで仕事もこなせるようになり、

実力も認められてきたと思う。

 でも、次々に、スタッフが失踪するように逃げて入れ替わる。

気が付けば僕が古株になっており、店長になった。

 

日曜日の休みはなくなり、平日の一日になった。

そこらへんから友達や走り仲間とも縁が遠くなってきた。

 

人員不足で休みがなかった年もあった(僕と支店のもう一人は360連勤もやっていた)

 

そんな中 社長からは「休みなしで働いてるけど、『こんなにやってるのに』って思わず、

まだやれるって思え」と、言っていた。

 

事故車ばかり売っている、すぐ壊れる、壊れた車を売られて全く修理してくれない。

経営者が・・・だ。などなどと 評判の悪いお店だった。

 

それでもそんな噂は払拭しようと やれる範囲はがんばった。

 

たしかに車は売れていた。

 

ひどく落ち込む時期もあった。

必ず、展示車を事細かにチェックされて、できてないから売れないんだ!とゆわれ、

ちゃんとできてたら返すからと、ペナルティ5万円以上も減給されたり、

よくこんな状況でよく昨日は休めたもんだな!。など、ゆわれながら耐えていた。

 

そんな状況でクレームでも報告してたら、大噴火していた。

 

そこら中のものを蹴飛ばし、椅子を投げつけ、書類はまき散らす、

お客さんがいても怒鳴り散らして、窓ガラスをたたき割る。

 

ガラスの修理代は給料から差し引かれる。

 

とても知り合いになんか売りたくない。

 

何年もそんな中働いてきた。

 

限界をこえて疲れはてていた。

 

クレームはもう面倒だから、自腹が多い。

 

出来ませんというのも、気の毒すぎて出来ない。

 

それでも行き届かなくて、お客さんに嫌われてしまうことも多々ある。

 

こんな中ノーミスで、こなすのはもう無理だった。

 

休まる時間も心の整理の付きようがない。

 

間違いはたくさん犯してきた。

 

売れた車に時間をかけることを咎められて、

売る車をめいいっぱい仕上げろ!だった。

その間もなく売れるとどっちも仕上がらない。

たまる一方だ。

 

知り合いに売った車で、

メタルが流れ打音のひどい車を納車させられ、

コンロッドがブロックを突き抜けてレッカーで搬入されても

オイル管理が悪いから修理代を請求しろとゆわれる。

 

さすがにそんなことできない。自腹で治す。

 

何度もオーバーヒートを起こす車も2回目は修理工場のせいにしたりするから、

付き合ってくれる工場も減る。

 

僕らは周りの工場に同情されるほどだった。

 

いくら売っても、修理代にお金は消えていく、

足らない時は借りてまで自腹をした。

 

月々の返済は20万をこえ、26歳くらいには、

借金総額1000万をこえていた。

 

なんとか自分の持ち玉を売り、借金を借金で返し、

携帯は止まり、クレジット、信販会社からの信用はなくなった。

 

それでも、かかえこんだクレームは片付かないので、

逃げてやめることもできない。

 

もう、どうすればいいんだというときに後輩が売ったベンツが

大きなクレームを持ち込み、社長に言えない状況なる。

 

相手はやくざだった。

 

W140 S600のエンジン修理に90万円、、、。

 

二人で借りまくってなんとかしのぐもこれからどうしようか、、、。

 

後輩はその後、退職した。

 

残された僕にはそのやくざからその後もクレームは続いた。

 

そんななか、クラブゴーストタウンは生まれたわけだが、

一体どうやって並行出来てきたのか自分でも不思議である。

 

 

ゆっくりではあるが、落ち着いては来ていたかもしれない。

緊急事態に対しての免疫力がかなり強くなっていた。

予防線も自然にはる癖ができてはきたが、

相変わらず末期がんのような中古車を治療しながら

なんとかお店とお金をやりくりしながら少しづつ稼ぐことを覚えてきた。

 

それでもここから抜け出すチャンスはあきらめてなかったので、

中学の勉強をおさらいして、高校へ卒業証明を取りに行き、

通信の大学に入学して、講義を受けていた。

 

①に前述した同窓会の後から考えも変わり始めていた。

 

取り囲む環境もなにか変わり始めていた。

 

18年勤め、ゴーストタウンが10年目の時、

 

突然だった。

 

社長が旅立った。

 

当然悪くばかり書いてはいるが、

たくさん良くしてくれたこともあった。

 

しかし、悪いことの方が多すぎた。

 

どうしても悲しみより別の感情が先にあった。

 

長い季節が流れていた。21から39歳になっていた。

 

意地で維持してきたGHOST一本ですぐにスタートした。

 

すぐにお店をやめて、まわりから悪くゆわれても仕方ないし。

もう関係ない。どれほどの苦労かはわかってもらえないだろう。

 

だらしないせいで、家族構成も2度変えている。

 

書ききれないほどの血のにじむ経験ばかりだった。

 

すぐに先輩の苦労に巻き込まれて変なことになってしまった。

 

しかし、自分なりにはその苦しみがわかるからこそと、

人には事情(ジジョウ)があるもので、助けになれるならと思い

見捨てれずやったことで、あまり干渉せずに助けをやったつもりだ。

甘いとはよく言われるけど、甘やかすという気もなかった。

 

ただ通じてない結果だったのかなと思うけど、今は後悔はないし、

解決したので、今は恨むような気もなくなっている。

 

幸い仲間が増え、友達もよりついてくれるので、

目の前の人たちを大事にしたいという思いで、

今、やっときた自分のターンを楽しんでいます。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回から、少し話を戻すと、

 

幼少期~小学生の3年生くらいまでだったと思うが、

親が町のバイク屋さんをやっており、

自転車がパンクするとよくお店に持ち込んでいた。

さっと、自転車をひっくり返して、

あっという間にパンク修理してもらっていたのを頼もしく見ていた。

 

小学校3年生くらいからは、修理をしてくれなくなった。

 

なぜか僕は、家で壊れた家電を分解してよく遊んでいたこともあり、

パンク修理は教えるから自分でやれ。だった。

 

パンク修理とはいえ未熟な僕が修理してもすぐに空気がもれて

失敗ばかりしていた。

 

おまけに友達までやってくれと、持ってくるし、それでも失敗をよくやった。

この時から整備責任についておぼえたのかもしれない。

 

ネクラで静かな少年だったわけだが、かっこいいことにあこがれだした。

当時は、キャプテン翼の影響でサッカーが大流行しており、

男子はサッカークラブにはいり、人口の割には部員たちはかなりの数が居た。

100人は超えていたと思う。

スノッブ思考のひねくれ者だった僕は逆の少数派?だった野球をはじめる。

流行りに流されてやるチャラチャラしたサッカーよりも硬派で、なんとなく

渋い感じあったからである。

 

最初は楽しかったけど、監督は怖いし、運動神経はあまり良くなかったので、

そんなには上手にはなれなかったと思う。

 

野球チームという小さな社会は、大人になってからも同じような環境を多々経験するわけだが、

これが大人になるとお金も絡んでくるので、さらに厄介だ。

 

純粋に野球が好きな野球少年でもなかったので、きつい練習もすぐ嫌になってたし、

日曜日の試合も苦痛だった。

 

バッティングはともかく、守備についてもどうせ捕れないで失敗しそうなので

【ボール来るな~!】と心の中で思いながら『さあ!こーい!』とか言っていた。

 

そう、日曜日、休日は、いつものように家電の分解にいそしんだり、

山の中へ友達と探検、

地域の駄菓子屋を万引き巡り

(後日大問題になったわけだが、ここでは割愛します。)に、行きたいのだ。

 

午前中の試合に勝つとトーナメントを勝ち進み、

午後にも試合がある。負ければ昼までで終わり。

 

【頼むから負けてくれよ】なんていつも思っていた。

 

ただ、そんななのに、辞めれなかったのは

密かに負けず嫌いな性格で、一緒にやっている友達や先輩、後輩に

あいつはきつくてやめたとか、腰抜け呼ばわりされたくないから。

それだけで、やりたくもなくなった野球を続けた。

理由なんてしょうもないことなのである。

 

そんな中、6年生に上がるタイミングで、各チームの新レギュラーメンバーで開催される

新人戦。

 

記憶では、敏腕キャプテンが何かの事情で欠席だった。

で、なぜか、代理キャプテンで、先頭に並んで試合に臨んだ。

 

いうまでもなくやる気はない。

 

今日は負けて早く帰れたらいいな。なんて考えながら試合開始。

 

僕以外は真剣だ。

相手チームにいたっては純粋に野球好きな少年たちばかりで、

新人戦への意気込みが熱く伝わってくる。

 

いい調子で得点を奪われていた。

 

よしよし!負けてる!負けてる!いいぞ!いいぞ!その調子!と考えていた。

 

これだけ点とられてると、安泰して負けるだろうとニヤニヤしていた。

 

ところが、最終回。

負け濃厚な中、次々とみんながヒットを飛ばし、

僕もバットを振ればクリーンヒットさせてしまうミス?を犯し、

あれよ、あれよとサヨナラ勝ちをしてしまう。

 

『くそ!帰れないじゃないか!』とチームが歓喜にあふれる中

僕は不機嫌になっていた。

 

僕は相手チームを見たら、キャプテンが悔しくて歯を食いしばって泣いている。

それを監督、親たちが良くやったと肩をたたいていた。

 

真剣勝負の場においてこんなにもふざけた緊張感のない僕はふさわしくないな、

悔しくて泣いてる純粋な彼らに失礼だなと思った。

 

それと同時にあんなにも真剣に好きでやっているなんて羨ましいとも思った。

 

好きで始めた野球も人間関係や、監督に怒鳴られないようにやりだしたのが苦痛だった。

 

付き合いのいい親への忖度でポジションはきまり、

適材適所とは少し違った面も子供ながらに感じていたこともある。

 

協調性のない僕がゆうのもなんだけど、チームって上辺でやっていけないのである。

 

相手のチームは、新人戦には負けてしまったけど

皆がみんなを応援して楽しそうだった。

いい監督、チームに違いない。

 

 後日談ではあるが、相手チームのキャプテンは高校で同じクラスとなり、ギターに憧れ、卒業後には

 そこそこ人気バンドになり、インディーズでいいとこいき、メジャー寸前までいっていた。

 

そんなこともあり中学は部活をしないことにした。

正確には1年間だけ楽そうな卓球部にはいり、幽霊部員。

たまに出ては女子バレーと女子バスケを眺めたり、部室にこもってたりしたが退部した。

卓球はほぼやっていない(笑)

 

中二病とはよく言ったもので、中二にロックを聞き出して、高校生でギターをはじめ、

バンドを組み毎日バンド練習ばかりしていた。

 

気心の知れた友達と真剣に楽しんでいた。

あの新人戦で見た相手チームみたいだったかもしれない。

誰にに怒られるわけでもなく好きな音楽を奏でる、曲をみんなで作ったりもよくしていた。

 

バイクにも熱中する年齢で、周りにはバイク好きも集まっていたが、

パンク修理の変なトラウマと工業高校だったのもあり、

工具や作業着の雰囲気のあるものから距離を置いていた。

油汚れと手の爪の中にに黒いのがたまるようなことはしたくなかった。

反動で華やかなものへ心惹かれていた時期だったので、

この時期はチャラついた方へいっていたのかもしれない。

バイクはそこそこに、バンド中心で楽しんでいた。

まあ、性格上、変なバイクには乗っていたが(笑)

【KAWASAKI KR-1をネイキッドにしたやつ】

そして、バンドは高校卒業までで最後のライブで終了。

 

3月生まれなので、卒業してすぐ車の免許を取り、

空冷ビートルにあこがれていた。

 

親の知り合いが居たトヨタディーラーの下取り車置き場から

平成元年式 トゥデイポシェット(貨物)550のキャブエンジンの4速マニュアルを

格安で手に入れた。車検2年いれて7万円だった。

 

当時平成9年だったので8年落ちのバンがこの値段はどう考えても格安だった。

 

クーラーもよく効いて、キャブはゴキゲンだった。

 

就職も華やかな職業を探したが、工業高校への求人は工業系ばかりで悩んだが、

担任に公園でギター弾いて、小銭もらって生活するか、

休みと給料がしっかりあって自分の好きなことするかどっちかだ。みたいなことを言われて、

近くの鉄筋、鉄線などのワイヤーメッシュを作る工場へ入った。

 

18歳の僕には判断能力は備わってなく、流されたわけである。(笑)


 

その工場は、給料、休日もしっかりしてはいたものの、

古典的なやり方で工夫もしない風潮。

 

こうやった方が効率いいのになあとか、思って提案しても、

 

いらんことすんな!これでやってりゃいい。

 

体力さえあればできるような、単純仕事にうんざり、いつか機械をさわれてもあんなんかぁ、、、、。

 

身内やコネ、つまりはその忖度で、出来もしないような人間が要所を構成する。

 

機械の操作も整備も絶対、俺にやらせてくれれば、格段に良くなるのになぁと思っていた。

 

あの頃の少年野球チームに中身は似ていたと思う。

 

石の上にも3年と思い続けていた。

 

当時、ドリフトが沸いていた。

他の友達は13シルビア、180SX R32スカイラインなどで、

僕はトゥデイで苅田港のドリフト見学によくついていってた。

 

当然 トゥデイでもサイドブレーキを引きまくり、

ドリフトのまねごとを楽しんでいたが、後輪で激しくかきあげ、進んではいかないし、

サイド急ブレーキで挙動を乱しているだけ。

 

社会に出て一年後、

友達に車屋さんに10万円でハチロクが売っていると聞いたので、

ハチロク?ってなに?くらいの知識で次の日、その車屋さんに行き、

それを購入した。

 

前期のトレノクーペGTだった。

 

バンドを失い、仕事も作業着で華やかさとはかけ離れた生活を送っていた反動からか、

毎日、毎日、峠に通い、避けていた工具を持ちハチロクをいじっては峠へ行く。

 

ハチロクはみるみるボコボコになってはいったが、楽しくて仕方ない。

 

すっかり車好きになってしまう。

小学生のころから慣れ親しんだ工具とは切っても切れない腐れ縁なのか、

俺はこっちなんだなと、、、、。

 

もう、原始人の刑務所みたいな工場は出ようと思い

車関係へ仕事を変えた。

そこが長い地獄の入口とは知りもせずに。

 

続く

 

 

 

 

最近、YouTubeばかりのアップでブログの存在をすっかり忘れていました。

もともと、シャベリは苦手で、こうして文章を書くのは苦にならず、嫌いではない。

 

というわけで久しぶりになんですが、ヘビーな記事を書きます。

もの好きな方は小説でも読んでる気分でどうぞ。

 

なお、今回の記事は当事者等へのイメージダウン、抗議、賠償等を求めることを目的としてではなく、

まあ、知ってる方はあのことか、まだ言ってるのかとは思うかもしれませんが、

時が過ぎて振り返り、自分の気持ちの整理として事実と回想を綴るものです。

 

 ここ十数年を振り返ってみると、

【ここまで嫌いな人はいないだろう】とゆうほどに、大嫌いな人がいた。

 

本当に嫌いだった。

 

【嫌な人間でも何か意味があって自分の人生には必要な存在である】という考え方も

何度も挑戦してはみたが、お人よしの僕でさえ、、

つまりは、不謹慎で、誤解を恐れずにゆうなら、【死ねばいいのに】と思うほど嫌いだった。

そばにいた同じ思いの人間も本音として話していたので少なくとも僕と二人は確実にいた。

 

【自分の不甲斐なさと、勇気のなさ】+【大嫌いな人】の化学反応は強烈で

地獄以下の生活を余儀なくされた。

 

大嫌いな本人の口からは聞かなかったが、良くない団体に所属しているのもわかっていた。

特に労働環境は劣悪なもので、360連勤(当然休日手当などない)もあるし、

侮辱され、屈辱を受け、圧力、暴言、暴力の中で、自分を見失いそうになる日々。

 

こんな中でパーフェクトなパフォーマンスで仕事をやっていたとしても

当人のご機嫌次第で全ての舵は決まる。

 

ミスを受け入れてもらえそうにない不安、悪い報告などできるパワー、勇気、もう面倒になってしまい

責任は自腹で解決する癖がつき、時間とお金に追われていた。

 

【自分のやり方が悪いんだ】確かにそうだった。

 

ずっと、そう考えるようにしてはいたが、

 

一人ではない状況で 養うため、生きるため必要に迫られて悪に手を染めることもあった。

 

おかげさまで自分だけではなく、身内にも随分 心配、不安、迷惑をかけてしまったし、

失うものも少なくはなかった。

 

職場では責任のパスばかりでうんざりするのも通り過ぎ、

楽しい会話も上辺だけで、みんなが腹にイチモツを抱え、

裏切りと殺伐とした中で働いていたのである。

 

にもかかわらず、僕らは、当人へはニコニコとへつらい、

波風立てないようにと(爆破スイッチを押さないように)、ご機嫌を伺ってしまう。

友人や知り合いには、自由に働いていい環境のように言い、そうふるまう。

 

こんなにも惨めな自分の姿を想像できただろうか?

 

今、思えば、どんな報告もやりやすいように、受け入れる体制は皆無だったと思う。

 

こんな中で人間が正常な舵をきれるのだろうか?

 

好きなことをやろう!ではじめた車の仕事、

すぐ壊れて自分のせいにされて、責任取らされるし、

もう車もうんざり大嫌いになっていた。

 

諸行無常、いつか転機は来るのかと待ちながらも、

 

それだけでは何も変わらないのはわかっていた。

 

 

何かが突破口にならないかと、戦う準備、模索を、

藁にもすがる思いで微力とはわかっていながら手探りでやっていた。

 

情報販売のネットビジネスにはげみ、そこそこ利益は出ても、

自腹地獄で泡のように消えていく財、、、。

 

なにをやっているのだろうと自問自答、、、、

 

本当に逃げ出したかった。

 

同僚に冗談で神龍(ドラゴンボール)が一つ願いを叶えてくれるなら何を頼む?と聞いたことがある。

 

答えは大金をくれでもなく、【今すぐ、無害でここをやめさせてくれ】だった。

 

やらされることだけで一日を終えずに、自分のやりたいこと、

せめて自分に取って何か意味を残して、一日を終えたかった。

 

バンドをはじめるために、福岡市内へ出向き、3つほどバンドを経た時に、

音楽仲間でもある親友が会社を辞めて帰省していた。

 

彼をベース担当、地元の友達をドラムに誘い、3人でバンドを組んだ。

 

そんなに熱を入れてガンガン活動はできないから、

やってるのかどうかわからない、あるのかないのかわからない、

中身が無いという意味で、

 

【THE GHOST-TOWN】というバンド名にした。

ネーミング通りのバンドである。

 

自分たちの場所が欲しくなり、自分の限界を超えてほんとに無理して、

ぼろテナントを借りて、手作りでスタジオ&ライブハウスをなんとか立ち上げた。

 

平成21年11月 【CLUB GHOST-TOWN】と名付けた。

 

それと同時にドラムが来なくなってしまった。

後日談で【友人間でもめ事になりそうだったから。】と聞いた。

 

熱しやすい性格で ライブハウスで一攫千金くらいの勢いで無理を続けていたが

ベースの親友は、お金こそ一円も投資はなかったが、ずっといる。

スタジオで稼いだ額では回らず、加えて自腹でなんとか意地で維持を続けた。

当然、二人となると、不満もたまるし、意思の相違でぶつかることも、少々あった。

ただ彼の場合、僕にとっては特別な存在で辞書のような尊敬できる人物。

何故か車にも詳しい。

 

 

破天荒である。

 

相変わらず、職場では病んだ空間の中で、悶え続けていた。

さらに職場でも悪くばかりゆわれるわけで

自己評価でも正直、自分のことは良いとは思ってなかった。

 

そんな自分を承認してくれてたのは、ベースの親友だけだった。

語らず悟ってくれてるのは痛いほどわかっていた。

 

ちっぽけな人間だと、自分の事を真剣に思っていた。

 

少し意識が変わるきっかけになったのは、

 

そこから数年後に中学時代の大きな同窓会があったこと。

同級生全員集合!くらいの勢いだった。

 

久しぶりの再会にLINE、SNSが盛り上がり、飲み会も増えて

調子に乗った僕は校歌をロックバージョンにしてSNSで紹介したりした。

 

飲み会も自分の店(クラブゴーストタウン)に呼んでやったりもして、

日頃のストレスを発散していたのかもしれない。

 

そんな中、うぬぼれではなく、

車屋で店長してて、ライブハウスを趣味で運営。

 

同級生たちから、【すごいね!】みたいなニュアンスが

多少は伝わってきていた。

 

次第に職場で考え方も変わってきた。

 

前述したように

 

【こんな中で人間が正常な舵をきれるのだろうか?】

 

【俺は悪くない!】

 

そう考えるように変わってきて、少しづつではあるが、自分を取り戻しはじめたと思う。

 

評価に恥じないように行動しようと考え出した。

 

でもやっぱり悪くしか言ってこない連中を、心の中で笑ってやった。

 

こんな中でしか生きてないくせに!

そんな自分が好きなのかね?ってバカにすることにした。

 

職場での自分への評価は、

苦しまずに楽しそうにしている自分(苦しいのだが)へのヒガミだということに気が付き

全てが一本でつながった。

 

職場では難解な整備問題、ネットなど多様に任されていたことも事実。

それをなんとかクリアしていたのも事実。

 

あー、俺はひがまれていたのだと確信した。

 

余計、連中は嫌いになった。

 

その反対側にとても幸せなことが少しづつ増えてきて

何かが変わり始めていた。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


立派なドアも、つくってもらいまして、
楽しいガレージオープンしました!
飯塚にアップガレージもオープンするようですが、そこには到底およびません。





中古バイクに中古パーツ
たいしたものはまだありませんが、
とりあえず小物からナビ、LED などなど
ストック分をだしてます。

今回店先に配備したコンテナ用の
シボレーアストロにも、
中古工具、パーツなど並べました。


詳しい商品などは
ジモティーに多数掲載してます。


YouTubeチャンネル
少しずつ動画も頑張りますので