回想記② 油汚れと工具とは、縁が切れなかった件。 | クラブゴーストタウン【カフェ、音楽事務所、モータース、私立探偵、撮影部】

クラブゴーストタウン【カフェ、音楽事務所、モータース、私立探偵、撮影部】

異業種複合カフェです。
カスタムを行っております。
ライブカフェ、バー
こだわりのコーヒーのみのシンプルメニュー
土曜日はバー
ステージでカラオケ、レースシムも設置
私立探偵事務所も運営しております。
カフェにてご相談下さい。

前回から、少し話を戻すと、

 

幼少期~小学生の3年生くらいまでだったと思うが、

親が町のバイク屋さんをやっており、

自転車がパンクするとよくお店に持ち込んでいた。

さっと、自転車をひっくり返して、

あっという間にパンク修理してもらっていたのを頼もしく見ていた。

 

小学校3年生くらいからは、修理をしてくれなくなった。

 

なぜか僕は、家で壊れた家電を分解してよく遊んでいたこともあり、

パンク修理は教えるから自分でやれ。だった。

 

パンク修理とはいえ未熟な僕が修理してもすぐに空気がもれて

失敗ばかりしていた。

 

おまけに友達までやってくれと、持ってくるし、それでも失敗をよくやった。

この時から整備責任についておぼえたのかもしれない。

 

ネクラで静かな少年だったわけだが、かっこいいことにあこがれだした。

当時は、キャプテン翼の影響でサッカーが大流行しており、

男子はサッカークラブにはいり、人口の割には部員たちはかなりの数が居た。

100人は超えていたと思う。

スノッブ思考のひねくれ者だった僕は逆の少数派?だった野球をはじめる。

流行りに流されてやるチャラチャラしたサッカーよりも硬派で、なんとなく

渋い感じあったからである。

 

最初は楽しかったけど、監督は怖いし、運動神経はあまり良くなかったので、

そんなには上手にはなれなかったと思う。

 

野球チームという小さな社会は、大人になってからも同じような環境を多々経験するわけだが、

これが大人になるとお金も絡んでくるので、さらに厄介だ。

 

純粋に野球が好きな野球少年でもなかったので、きつい練習もすぐ嫌になってたし、

日曜日の試合も苦痛だった。

 

バッティングはともかく、守備についてもどうせ捕れないで失敗しそうなので

【ボール来るな~!】と心の中で思いながら『さあ!こーい!』とか言っていた。

 

そう、日曜日、休日は、いつものように家電の分解にいそしんだり、

山の中へ友達と探検、

地域の駄菓子屋を万引き巡り

(後日大問題になったわけだが、ここでは割愛します。)に、行きたいのだ。

 

午前中の試合に勝つとトーナメントを勝ち進み、

午後にも試合がある。負ければ昼までで終わり。

 

【頼むから負けてくれよ】なんていつも思っていた。

 

ただ、そんななのに、辞めれなかったのは

密かに負けず嫌いな性格で、一緒にやっている友達や先輩、後輩に

あいつはきつくてやめたとか、腰抜け呼ばわりされたくないから。

それだけで、やりたくもなくなった野球を続けた。

理由なんてしょうもないことなのである。

 

そんな中、6年生に上がるタイミングで、各チームの新レギュラーメンバーで開催される

新人戦。

 

記憶では、敏腕キャプテンが何かの事情で欠席だった。

で、なぜか、代理キャプテンで、先頭に並んで試合に臨んだ。

 

いうまでもなくやる気はない。

 

今日は負けて早く帰れたらいいな。なんて考えながら試合開始。

 

僕以外は真剣だ。

相手チームにいたっては純粋に野球好きな少年たちばかりで、

新人戦への意気込みが熱く伝わってくる。

 

いい調子で得点を奪われていた。

 

よしよし!負けてる!負けてる!いいぞ!いいぞ!その調子!と考えていた。

 

これだけ点とられてると、安泰して負けるだろうとニヤニヤしていた。

 

ところが、最終回。

負け濃厚な中、次々とみんながヒットを飛ばし、

僕もバットを振ればクリーンヒットさせてしまうミス?を犯し、

あれよ、あれよとサヨナラ勝ちをしてしまう。

 

『くそ!帰れないじゃないか!』とチームが歓喜にあふれる中

僕は不機嫌になっていた。

 

僕は相手チームを見たら、キャプテンが悔しくて歯を食いしばって泣いている。

それを監督、親たちが良くやったと肩をたたいていた。

 

真剣勝負の場においてこんなにもふざけた緊張感のない僕はふさわしくないな、

悔しくて泣いてる純粋な彼らに失礼だなと思った。

 

それと同時にあんなにも真剣に好きでやっているなんて羨ましいとも思った。

 

好きで始めた野球も人間関係や、監督に怒鳴られないようにやりだしたのが苦痛だった。

 

付き合いのいい親への忖度でポジションはきまり、

適材適所とは少し違った面も子供ながらに感じていたこともある。

 

協調性のない僕がゆうのもなんだけど、チームって上辺でやっていけないのである。

 

相手のチームは、新人戦には負けてしまったけど

皆がみんなを応援して楽しそうだった。

いい監督、チームに違いない。

 

 後日談ではあるが、相手チームのキャプテンは高校で同じクラスとなり、ギターに憧れ、卒業後には

 そこそこ人気バンドになり、インディーズでいいとこいき、メジャー寸前までいっていた。

 

そんなこともあり中学は部活をしないことにした。

正確には1年間だけ楽そうな卓球部にはいり、幽霊部員。

たまに出ては女子バレーと女子バスケを眺めたり、部室にこもってたりしたが退部した。

卓球はほぼやっていない(笑)

 

中二病とはよく言ったもので、中二にロックを聞き出して、高校生でギターをはじめ、

バンドを組み毎日バンド練習ばかりしていた。

 

気心の知れた友達と真剣に楽しんでいた。

あの新人戦で見た相手チームみたいだったかもしれない。

誰にに怒られるわけでもなく好きな音楽を奏でる、曲をみんなで作ったりもよくしていた。

 

バイクにも熱中する年齢で、周りにはバイク好きも集まっていたが、

パンク修理の変なトラウマと工業高校だったのもあり、

工具や作業着の雰囲気のあるものから距離を置いていた。

油汚れと手の爪の中にに黒いのがたまるようなことはしたくなかった。

反動で華やかなものへ心惹かれていた時期だったので、

この時期はチャラついた方へいっていたのかもしれない。

バイクはそこそこに、バンド中心で楽しんでいた。

まあ、性格上、変なバイクには乗っていたが(笑)

【KAWASAKI KR-1をネイキッドにしたやつ】

そして、バンドは高校卒業までで最後のライブで終了。

 

3月生まれなので、卒業してすぐ車の免許を取り、

空冷ビートルにあこがれていた。

 

親の知り合いが居たトヨタディーラーの下取り車置き場から

平成元年式 トゥデイポシェット(貨物)550のキャブエンジンの4速マニュアルを

格安で手に入れた。車検2年いれて7万円だった。

 

当時平成9年だったので8年落ちのバンがこの値段はどう考えても格安だった。

 

クーラーもよく効いて、キャブはゴキゲンだった。

 

就職も華やかな職業を探したが、工業高校への求人は工業系ばかりで悩んだが、

担任に公園でギター弾いて、小銭もらって生活するか、

休みと給料がしっかりあって自分の好きなことするかどっちかだ。みたいなことを言われて、

近くの鉄筋、鉄線などのワイヤーメッシュを作る工場へ入った。

 

18歳の僕には判断能力は備わってなく、流されたわけである。(笑)


 

その工場は、給料、休日もしっかりしてはいたものの、

古典的なやり方で工夫もしない風潮。

 

こうやった方が効率いいのになあとか、思って提案しても、

 

いらんことすんな!これでやってりゃいい。

 

体力さえあればできるような、単純仕事にうんざり、いつか機械をさわれてもあんなんかぁ、、、、。

 

身内やコネ、つまりはその忖度で、出来もしないような人間が要所を構成する。

 

機械の操作も整備も絶対、俺にやらせてくれれば、格段に良くなるのになぁと思っていた。

 

あの頃の少年野球チームに中身は似ていたと思う。

 

石の上にも3年と思い続けていた。

 

当時、ドリフトが沸いていた。

他の友達は13シルビア、180SX R32スカイラインなどで、

僕はトゥデイで苅田港のドリフト見学によくついていってた。

 

当然 トゥデイでもサイドブレーキを引きまくり、

ドリフトのまねごとを楽しんでいたが、後輪で激しくかきあげ、進んではいかないし、

サイド急ブレーキで挙動を乱しているだけ。

 

社会に出て一年後、

友達に車屋さんに10万円でハチロクが売っていると聞いたので、

ハチロク?ってなに?くらいの知識で次の日、その車屋さんに行き、

それを購入した。

 

前期のトレノクーペGTだった。

 

バンドを失い、仕事も作業着で華やかさとはかけ離れた生活を送っていた反動からか、

毎日、毎日、峠に通い、避けていた工具を持ちハチロクをいじっては峠へ行く。

 

ハチロクはみるみるボコボコになってはいったが、楽しくて仕方ない。

 

すっかり車好きになってしまう。

小学生のころから慣れ親しんだ工具とは切っても切れない腐れ縁なのか、

俺はこっちなんだなと、、、、。

 

もう、原始人の刑務所みたいな工場は出ようと思い

車関係へ仕事を変えた。

そこが長い地獄の入口とは知りもせずに。

 

続く