パソコンはCPUやハードディスクの部品をどこのメーカーのものを使ったとしても、問題なく作動する。


ソニーのパソコンの中に東芝の部品が入っていたりする。


秋葉原で部品を買い集めてくれば手作りのパソコンを作ることも可能だ。


このモジュールというコンセプトを最大限にビジネス・モデルに取り入れたのが、デル・コンピュータだろう。


一方、自動車なんかは、トータル・デザインが必要だ。


いろんなメーカーの部品を集めてきてもまともな自動車にはならない。(ただし、ガソリン・エンジンのない電気自動車はモジュールである。だから、技術やノウハウの蓄積がなくても、インドや中国のベンチャー企業が部品を集めて、簡単に組み立てられてしまう。)


これが、モジュールに対する統合という概念だ。



ということで、研修やワークショップは、断じてモジュールではない!

トータルなデザインが必要なのである。


したがって、クライアントの担当者が、


「最初のオリエンテーションは30分もいらない」


とか、


「レジュメのページ数が少なすぎるとか」


とか言うのは、研修を単なるモジュールとしてか捉えていないことの裏返しだ。


もちろん、その前段階として、研修のねらいや目的、背景などは充分にご要望をお聞きする。


そして、研修の目的や達成目標が共有されたなら、希望の時間にしたがって、最高の成果を出せるように丹精込めてプログラムをデザインするのだ。


デザインするということは、オリエンテーションが30分あるのも、グループワークが1時間なのも、レジュメが15ページしかないのも、すべて計算されていて、意味があるということなのだ。


もちろん、中には「社内で研修の決済をもらうために」とか、「役員の手前、見栄えが」という事情があるのは、承知しているが、研修の本質とは何の関係もない。


一旦精緻にデザインされた研修のある一部分をモジュールのように切ったり、貼ったりすることは、研修のダイナミズムというか、生命をぶった切りにするようなものだ。


かつて「企画書を書くことやプログラムをデザインすることは、命を削る作業だ。」と言ったコンサルタントがいた。


命を削ったものを簡単に却下するクライアントとはお付き合いできないだろう。

最近、少しだけ論語をかじっている。(論語を読む


論語とは、2500年前の孔子の言行録である。


気の遠くなるほど昔の人であり、学生時代に漢文にあまりなじめなかった私にとっては、書き下し文を素読しても、意味はちんぷんかんぷん。


結局は、口語訳や解釈を読まねば理解できない。


江戸時代には、四書五経として論語は必須科目で、教養の土台になるものだったという。論語をそらんじて、解釈をすることが、知的な会話でもあった。また漢詩を吟じるなどの素養もあった。


だからと言って、現代において論語をそらんじてみても、一から意味を教えてあげないと伝わらないし、単に小難しい印象を与えるだけのような気がする。


意味論で言うところの意味を伝えることができない「前記号的言語」である。


では、意味を理解するだけなら口語訳だけでいいのではないかと思うのだが、口語訳だけ読むと全く味わいがなくなり、読んでいても面白くない。


誤解を恐れず言うと、論語の表現は非常にシンプルすぎて、現代の道徳の本や哲学の本と見分けがつかなくなる。


論語に書いてあることが、他の本と本質的に同じならば、その真理ではなく、孔子が言ったことに意味があるのだろうか。


「論語読みの論語知らず」というくらいだから、相当に奥は深いのだろうが、論語を勉強する意義について思い悩む。

1ヶ月ほど前に、官公庁への入札案件についての懸念を書いた。(官公庁への入札


そこで指摘した通りのことが、最近入ってきた入札案件で発生しているという。


前年・前々年の落札した研修会社の講師のクオリティがひどかったらしい。


一番安い価格で発注したものの、結果はクオリティの低い研修を受講することになった。


受講した公務員の方も哀れだし、実施した研修会社も大した利益も出せず不評を買い、引いては税金の無駄遣いにもつながる。


あまりにも短期的な思考で物事を判断するからこういう結果になるのだ。


それで、今年の入札は講師のクオリティを重視したいので、講師経歴書を詳細に書いてほしいとのことだ。やれやれ。


そもそも研修のクオリティを事前に把握することは、非常に難しい。


だから、書類審査だけではなく、労を惜しまず講師を見るべきだろう。また、前回も指摘したが、もう少し予算を増やせば、黙っていてもいい講師がアサインされるのに。