「指揮者は、一人の人間を受け入れるために、楽譜を書き直したりはしない。」(ドラッカー)



最近のサービス業のクオリティの著しい低下やなんちゃって講師、なんちゃって起業、内容のないビジネス書などを見ていると、いろんな場面でドラッカーの言う楽譜の書きなおしが行われているような気がする。


また、最近の新人にありがちな「その件については、教えてもらってませんから、マニュアルに書いてませんから、わかりません。」的な、自分たちにはわかりやすく教えてもらう権利があるかのような勘違いにも通じるものがある。


演奏しやすいように簡単に書き直された楽譜では、芸術性や感動を味わうことはできないだろう。そんなコンサートにお金を払って行きたいだろうか。


仕事にもハッと息をのむような卓越性、精緻に検討された美、芸術性がある。それが感動を生む。


演奏であれ、仕事であれ、趣味であれ、自分が取り組んでいることをより完璧をできないか、もっと早くできないかと、さらに喜んでもらえないかと研究を重ね、努力を継続すること、困難に挑戦することは、偉大な人間精神の発揮であり、それがこれまでの人類の発展を支えてきたのではないだろうか。


簡単な楽譜を求める人、学芸会の発表レベルの演奏で満足する人は、あまりにも人間の尊厳をないがしろにしているのではないか。


もちろん、今の世の中には人類の進歩が招いた問題もたくさんあるが、それを理由に簡単な楽譜を求め、努力を放棄することは、話のすり替えだ。



研修におけるグループ・ディスカッションとファシリテーションは明らかに違う。


ファシリテーションは、ファシリテーターが進行と成果に責任を持つ。したがって、グループに一人、ファシリテーターが必要である。


以前、この違いをわからずに研修を企画したエージェントの営業担当者がいた。


渡されたカリキュラムには、話し合うテーマが書いてあり、ファシリテーションを1時間半程度すると書かれていた。


30名の受講者を5グループに分けて進めることは営業担当者とも同意していたので、この「ファシリテーション」は「ディスカッション」という意味だろう、と軽く捉えていた。


なぜなら、5グループを1人のファシリテーターが面倒をみることは不可能だからだ。


しかし、ふたを開けてみると、テーマが受講者とマッチしなかったこともあり、ディスカッションがうまく進まなかった。


5グループの間を獅子奮迅の動きでまとめようとしたが、結局時間切れになってしまった。


研修終了後、営業担当者には、ファシリテーションとグループ・ディスカッションの違いをこんこんと説明したが、後味の悪い仕事になってしまった。

論語について、書き下し文を素読しても意味が伝わらない、ということを書いたが、他にも思い当たるものがある。


お坊さんの唱えるお経が最たるものだ。


もともとお経というのはサンスクリット語であり、その音を真似た漢語であり、日本語の意味は、お経を聞いても全くわからない。


漢字で読んでもわからない。


先日、福井の永平寺で、禅問答の様子を見る機会があったが、あれも聞いているだけでは、単語単語はかろうじて聞きとれるが、解説がないと理解できないものだ。


公案を朗々とやり取りしている若いお坊さんにしても、意味が伝わると思って禅問答をしているようではなさそうだ。


台詞が決まっている演劇のようなものかもしれない。


意味が伝わらないということは、コミュニケーションではない。


しかし、儀式としての意味はある。


お経を聞くことで、謙虚な気持ちになったり、厳粛な気持ちになったり、ありがたみを感じたりする。


意味が伝わらないことや分かりにくいことに権威性があったりもするのだろう。


16世紀に、ルターがラテン語で書かれた聖書をわかりやすいドイツ語に翻訳して世に出した時には、教会が相当嫌がったということを聞いたことがある。