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ワイン考察記

ワインの味わい方、楽しみ方をなるべく簡単な軸で考察したい


昔からストライキ(グレーブ)が大好きなフランス人。
観光が落ち込もうが、サッカー欧州選手権が開催されようが、関係ありません。
だって自分大好きだから、、、

電車(RER)も全然走ってないみたいだし、どうやって空港から移動しようかなあ。
最近はタクシーもUberとかネットで呼べるみたいだし、電車で行こうと思ってたけど、ストライキ続くなら考えよっと。
もっともガソリンスタンドもグレーブなんですが


結局なるようにしか、、

なに言ってるかよくわからん国際会議も終了し、結局は、元の書記が一応自分のスケジュールの再調整を試み、ダメだったら役目が回ってくるようなことになった気がする、、、

というのも、はっきり決まった風ではなく、それぞれがなんとなく意見を出しあっただけだから、ダメなパターンはわかったが、落とし所自体はよくわからんから

あーあー、フランス語は、ほっていいて、英語のヒアリングもっと鍛えよっと。フランス語もしてないけど。海外ドラマでも見るか、なにがいいだろ。

しかし、日本人がアメリカべったりなのは、よくわかる。全員にフレンドリーにスマイル振りまいて、意見聞いてくれるのは、世界の警察アメリカさんだけだから、とりま、ここしか、ぶら下がるとこがないw
会議は踊る?廻る?へこたれる?

本日は多国籍の国際会議。今日はオブザーバーだが、明日の会議次第では、次回は書記もどきをする羽目になるかもしれないドキドキの本日。
ぼそぼそ英語も慣れないんだが、初めての議題で、そもそもなんの話なのか、よく迷子になるという、大丈夫なのか明日のオレ状態。

議長が、欧州、米、日で、仏、露などなどが参加国。欧米の進行なのだが、口頭ズラズラでわかりにくいし、そこに微妙なフランスの反抗がボチボチ入り、突然のロシアからのありえない全否定攻撃。他国は我関せずの模様眺めモードです。

ボソボソでわからんが、なんか話が戻っている気もするし、それって事前に調整しとけよって類の話も登場し、当たり前のことが当たり前に進んでいない。まあ、懇切丁寧に目的や定義、方法をなんども説明し協議し、合意を形成しつつ進めていくんだろうなあと思いつつ、、、

正直めんどくさい、、、

どうせ露仏は協議なんて毛頭考えてなく、自分のやり方に揺るぎない自信を持っているんだろうし。
あーあー、なんか、ドラえもんのひみつ道具でもだして、ちゃちゃっと片付けてよ。

が、そうすると僕の仕事がなくなってしまうので、物事が進まなくても、理屈の通らないわけわからんことがゴロゴロしていても、いらだたず、びびらず、どうじず、当たり前の如く振舞うのがいいんだろうなあ。当たり前のことをさも重要そうに言う度胸と、ちっちゃなことをさも特別なことのように伝える愛嬌が欲しい。


夢と自由を勝ちとった人たち

自ら希望し、パリで生活しようと思い、そうしている人たちは、タフだなあと思うわけです。なぜなら、この街は戦場だから、、、ではなくて、ここでは常に個人個人が問われ、あなたは何者か問われ続けるからです。
語学留学で入国するのに、フランス語でビザ申請理由を説明しなければいけない国、書類が揃ってるかは関係なく、私を納得させてごらんと、そうじゃないと聞く耳すら持たないわよという態度の審査官。もちろん山積みの書類の中の埋もれた申請書は、ないの一点張りで消滅させられ、仕事で行ってんのに、2回同じ書類を送りつけ、そこに絶対あるから探せと主張しないと動かない都市。一旦納得させると、少々の不備は見逃してくれるから、慣れれば楽なんですが、なにかをやり遂げるのに、膨大なエネルギーが必要で、終了後はどっと疲れる都市。前回、滞在後、もう二度と縁がないだろうと思ってた都市。

この都市に、自らの意思でくる人たちがいるんです。日本にいると窮屈さを常に感じ、パリにくると解放されると言っていた短期留学生、ウィーンフィルなどの芸術に触れていたくて、欧州の研究機関に移った人、無賃の研修として働くさまざまな職業の人たち。自らの意思を思う存分貫いても、全く誰も傷つけず、むしろ歓迎される都市。吹き溜まりの街にして、奇人の帝都。奇人の都にして、ハードボイルドの都です。強くなければ滞在できない、優しくなければ滞在する価値がない。今度の滞在では、もう十分タフになったので、華麗に美しく過ごせたらよいのですが。



意外なところに意外な生い立ち


職業や憧れとも関係なく、意図せずパリに来てしまった人たちもいる。

そういう巡り合わせなのかもしれないが、日本にいたものがフランスに行くのだから、そこには相当のエネルギー、つまり、時間か財力がかけられている。

だから、普通の暮らしをしてるが、実は貴族名(名前の後にde+地名がつくやつね)を持っている人や、話を聞いていると親戚のシャトーがとかいうエピソードが飛び出す人とかが、ぽろっといたりする。

いやいや、いたとしても、出会う機会ないでしょと思うかもしれないけど、在仏日本人という枠にはめられてる身分としては、意外な縁があったりするのです。


問題は、袖触れ合うわけじゃなし、そんな縁がどうやってできるかということです。もちろんの個人主義の絶対的個の完全障壁がある国に曲がりなりにも住んでいる人たちですから、普通のことをしていたら、そんなものはできません。

答えは、困る、、、そう難題に直面することです。難題に直面し、困って、自分の状況を訴え、助けを求めると、どこからともなく助けてもらえる街なのです。こまったことに、本当に困らないといけないから、まずはなんでも飛び込んでみないとなにも始まらないんですけどね。自由なようでいて自由ではなく、担った責任の分だけ与えられる。本来の意味での自由があるところです。

パリで見かける凄いやつら


パリのお金がかからなくて、興味深いところをうろうろしていると出会う人は、日本ではまず出会わない職業の人たちとなる。 それは、音楽家、料理人、軍人である。

 

音楽家、これはイメージしやすいだろう。だいたい日本から演奏ファイル送って選考されきているので、誰かに師事しているか、学校に所属している。音楽家以外にも舞踏家とかもいたりする。芸術の都だけあって、普通の学生にも見えるが、やはりそれなりの世界観と技術を持っており、隔世の気配を漂わせている。
ただ、だいたい授業や課題で忙しくしてる。画家には残念ながら出会ったことがない。


料理人。超一流の料理人もたくさんいるのだろうが、そういう方々とは縁がないので、僕の知っているのは、ビザも持たずにきちゃったようなタフな方々である。こういう人は髪型も格好も大概奇抜なのだが、住んでるところもアフリカ人の多いベルビルとか奇抜なところである。

僕の知ってる尊敬すべき日系最強ゴリラは、彼はモヒカンなのである、こういうとこは家賃も安いし、市場も売れ残りのゴミとか まだ食べられるものも捨てていっちゃうし、それを拾えば食にも困らないし、週10ユーロぐらいで生活できるよとなかなか奥深いことを教えてくれた。ただ、深すぎてそこは闇かもしれませぬ。

 

軍人。外人部隊に入った日本人の方々です。まじで鍛えてます。根性が半端ないです。同胞意識も強いです(部隊の中のね)。映画に出てくるような人たち、まじで存在するにね。

 

在仏日本人

パリジャンについて語るには、少々心の準備がいるので、まずは軽く在仏日本人について語ろうと思う。
勿論、パリとパリ以外はまったく異なるものだから、ここで在仏日本人とは、在パリの日本人のことである。

パリジャンが自由、平等、友愛の象徴とすると、本当は違うけど、在仏日本人は民主、誠実、少々自由といった位置づけにあたると思う。
日本人の感覚でいうとめちゃくちゃ自由やんとなるのだが、パリジャンと比較すれば、しょせん少しばかりである。

まずは、そういった少しばかり枠にはまらなくなってしまった人たちをこれから紹介しようと思う。なおこれは、前回パリに滞在した時出会った人たちを主観的に記述したものである。

・夢と自由を勝ちとった人たち
・意外なところに意外な生い立ち
・パリで見かける凄いやつら

憎いあんちくしょう、あいつのことです、、、

いや、あいつらのことです


苦々しくも、愛おしい

いや

苦々しくて、苦々しくて、苦々しくて、ちょっとだけ愛おしいあいつらのことです

あのパリジャン
気分屋で、屁理屈ばかりで、わがままなあいつら
そのくせ、自分に正直で、時にお人好しで、妙に人間くさいあいつら


もうあと3週間もすれば、また奴らと生活せねばなりませぬ
もう2度と一緒に暮らすこともないだろうと思っていたのにあいつらと、、、
そろそろ心の準備をするために、明日からあいつらについて少し語ってみたいと思う

X(エックス)


「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「大切な人を踏みにじられたら、どうすべきか?強姦とか殺人に対する復讐に意味はあるのか」というのは、昔たまに考えたことです。悲しいことにそういうことはありえるし、その時にどう捉えるのかということです。

 

それは大切なものを失った後にどうするのかということでもあるわけです。

 

その悲しみは、勿論すぐには癒えるはずもなく、向き合うのも、見るのも嫌なわけです。でも、結局、自分が悲しんでいることに気づき、悲しみを共有することにより、長い時間をかけて、癒えることもありえるというか、癒すことができるわけです。長い道のりではあるけれども。

 

つまり、隣に、その悲しみそのものに気づいたり、悲しんでいることに気づく人がいるのかという点が重要であり、それは、その時である必要はなく、時間を経てでもよく、なんなら、悲しみそのものを知らなくても、悲しんでいることに気づくだけでも意味があると思うのです。というのも、悲しみそのものは変えられないし、変わりえるのは悲しんでいる自分だけなのだから、むしろ悲しみそのものは深くは知らずにいた方がいいかもしれないのです。そして、隣にいるのは、一人である必要もなく、複数の人が別々に関与することもありえるわけです。たぶん、最初は一人で、それをより多くの人と共有していくことが一般的なのだろうけど、相手や時間は、別に限定されるわけではないと思うのです。

 

さて、そうすると、大切なものを失った後にどうするのかというと、どのぐらい悲しんでいるかなんて自分では知る由もないわけですから、それぐらい悲しいわけですから、それは、もう悲しみにというか感情に敏感な人に会える環境にいるほかないと思うのです。それは、事情を知るとか、慰めるとかではなく、悲しみを推しはかりということですね。推しはかり、触ってもいいか観察し、推しはかり、かるくふれ、推しはかり、ともにいるということの行ったり来たりのわけです。

 

大切なものがあったわけですから、きっと、そういう環境はよく見ればあるはずで、もしなくても、きっといずれ訪れると思います。大切なものがあったのだから、大切なものを持つことが一度はできたわけですから。

 

逆に考えると、そういう環境は、とても大切で大事だということで、大切にしないといけないということです。また、これは悲しみだけでなく、多くのことにいえるのだと思います。失敗や間違い、愚かさ、惨めさ、そもそも、人は間違いをおかし、その自分をも認めてほしいから、人を殺すのかもしれません。
悲しみだけじゃなく、間違いや愚かさ、惨めさをも共有するということは人にとって、とても大事なことなのだと思います。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲、いずれも人とは切り離すことができないのですから(と思います)、それらを拒絶することなく、かわいい傲慢や強欲、ひと時の憤怒・怠惰・嫉妬であるうちに、それらと友達になり、人と共有するのが理想なのでしょう。

 

え、そもそも、この文書なにかって? これは、感想文ですよ。「X」のCLAMPの。18巻まで読んだんですが、なんで途中で休載してるんですか、、、完結してると思ったから大人買いしたのに、、、ちゃんと終わらせてくれ~。

谷崎潤一郎の猫文学である。
谷崎だから隷属文学であるわけで、猫を取り巻く隷属文学である。
猫の描写、いや、猫をかわいがる人間の描写の吸引力がダイソン級で、まさに猫が飼いたくなる作品である。
なんというか、このからめ手の心理描写、行動様式、徐々に引き込まれていき、離れられなくなる、まさに猫のような文体。
美しいというより、いやらしい?、肌がしっとり重なるような作品である。
終わりは、近年のプロットとエンディングがはっきりした作品とは異なり、余韻を残す古典的結末であり、これは近代人には賛否あるところだろうが、初子の描写も含め、きれいに終わっていると思う。

そして、新潮文庫、解説がよい。しっかりしている。
文芸評論家とある磯田さんの解説は、

 人はしばしば人間性の解放について語りたがる。しかし人間が自由になったとき、つまり人間が彼自身の主人になったとき、そこに訪れてくるのはどういう矛盾であろうか。支配・被支配の関係において、人が支配を完了したとき、彼がそこに見いだすのは、もはや何もすることがないという現実である。この世に王者ほど孤独なものがまたとあろうか。そしてもし彼が人間である続けようとするならば、彼は何ものかに隷属すること、いいかえれば何らかの奉仕の対象を見いだす以外に生きがいはない。
中略
 男女同権の思想も、社会の改革をめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になるということである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。