意外なところに意外な生い立ち
職業や憧れとも関係なく、意図せずパリに来てしまった人たちもいる。
そういう巡り合わせなのかもしれないが、日本にいたものがフランスに行くのだから、そこには相当のエネルギー、つまり、時間か財力がかけられている。
だから、普通の暮らしをしてるが、実は貴族名(名前の後にde+地名がつくやつね)を持っている人や、話を聞いていると親戚のシャトーがとかいうエピソードが飛び出す人とかが、ぽろっといたりする。
いやいや、いたとしても、出会う機会ないでしょと思うかもしれないけど、在仏日本人という枠にはめられてる身分としては、意外な縁があったりするのです。
問題は、袖触れ合うわけじゃなし、そんな縁がどうやってできるかということです。もちろんの個人主義の絶対的個の完全障壁がある国に曲がりなりにも住んでいる人たちですから、普通のことをしていたら、そんなものはできま せん。
答えは、困る、、、そう難題に直面することです。難題に直面し、困って、自分の状況を訴え、助けを求めると、どこからともなく助けてもらえる街なのです。こまったことに、本当に困らないといけないから、まずはなんでも飛び込んでみないとなにも始まらないんですけどね。自由なようでいて自由ではなく、担った責任の分だけ与えられる。本来の意味での自由があるところです。
パリで見かける凄いやつら
パリのお金がかからなくて、興味深いところをうろうろしていると出会う人は、日本ではまず出会わない職業の人たちとなる。 それは、音楽家、料理人、軍人である。
音楽家、これはイメージしやすいだろう。だいたい日本から演奏ファイル送って選考されきているので、誰かに師事しているか、学校に所属している。音楽家以外にも舞踏家とかもいたりする。芸術の都だけあって、普通の学生にも見えるが、やはりそれなりの世界観と技術を持っており、隔世の気配を漂わせている。
ただ、だいたい授業や課題で忙しくしてる。画家には残念ながら出会ったことがない。
料理人。超一流の料理人もたくさんいるのだろうが、そういう方々とは縁がないので、僕の知っているのは、ビザも持たずにきちゃったようなタフな方々である。こういう人は髪型も格好も大概奇抜なのだが、住んでるところもアフリカ人の多いベルビルとか奇抜なところである。
僕の知ってる尊敬すべき日系最強ゴリラは、彼はモヒカンなのである、こういうとこは家賃も安いし、市場も売れ残りのゴミとか まだ食べられるものも捨てていっちゃうし、それを拾えば食にも困らないし、週10ユーロぐらいで生活できるよとなかなか奥深いことを教えてくれた。ただ、深すぎてそこは闇かもしれませぬ。
軍人。外人部隊に入った日本人の方々です。まじで鍛えてます。根性が半端ないです。同胞意識も強いです(部隊の中のね)。映画に出てくるような人たち、まじで存在するにね。
憎いあんちくしょう、あいつのことです、、、
いや、あいつらのことです
苦々しくも、愛おしい
いや
苦々しくて、苦々しくて、苦々しくて、ちょっとだけ愛おしいあいつらのことです
あのパリジャン
気分屋で、屁理屈ばかりで、わがままなあいつら
そのくせ、自分に正直で、時にお人好しで、妙に人間くさいあいつら
もうあと3週間もすれば、また奴らと生活せねばなりませぬ
もう2度と一緒に暮らすこともないだろうと思っていたのにあいつらと、、、
そろそろ心の準備をするために、明日からあいつらについて少し語ってみたいと思う
X(エックス)
「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「大切な人を踏みにじられたら、どうすべきか?強姦とか殺人に対する復讐に意味はあるのか」というのは、昔たまに考えたことです。悲しいことにそういうことはありえるし、その時にどう捉えるのかということです。
それは大切なものを失った後にどうするのかということでもあるわけです。
その悲しみは、勿論すぐには癒えるはずもなく、向き合うのも、見るのも嫌なわけです。でも、結局、自分が悲しんでいることに気づき、悲しみを共有することにより、長い時間をかけて、癒えることもありえるというか、癒すことができるわけです。長い道のりではあるけれども。
つまり、隣に、その悲しみそのものに気づいたり、悲しんでいることに気づく人がいるのかという点が重要であり、それは、その時である必要はなく、時間を経てでもよく、なんなら、悲しみそのものを知らなくても、悲しんでいることに気づくだけでも意味があると思うのです。というのも、悲しみそのものは変えられないし、変わりえるのは悲しんでいる自分だけなのだから、むしろ悲しみそのものは深くは知らずにいた方がいいかもしれないのです。そして、隣にいるのは、一人である必要もなく、複数の人が別々に関与することもありえるわけです。たぶん、最初は一人で、それをより多くの人と共有していくことが一般的なのだろうけど、相手や時間は、別に限定されるわけではないと思うのです。
さて、そうすると、大切なものを失った後にどうするのかというと、どのぐらい悲しんでいるかなんて自分では知る由もないわけですから、それぐらい悲しいわけですから、それは、もう悲しみにというか感情に敏感な人に会える環境にいるほかないと思うのです。それは、事情を知るとか、慰めるとかではなく、悲しみを推しはかりということですね。推しはかり、触ってもいいか観察し、推しはかり、かるくふれ、推しはかり、ともにいるということの行ったり来たりのわけです。
大切なものがあったわけですから、きっと、そういう環境はよく見ればあるはずで、もしなくても、きっといずれ訪れると思います。大切なものがあったのだから、大切なものを持つことが一度はできたわけですから。
逆に考えると、そういう環境は、とても大切で大事だということで、大切にしないといけないということです。また、これは悲しみだけでなく、多くのことにいえるのだと思います。失敗や間違い、愚かさ、惨めさ、そもそも、人は間違いをおかし、その自分をも認めてほしいから、人を殺すのかもしれません。
悲しみだけじゃなく、間違いや愚かさ、惨めさをも共有するということは人にとって、とても大事なことなのだと思います。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲、いずれも人とは切り離すことができないのですから(と思います)、それらを拒絶することなく、かわいい傲慢や強欲、ひと時の憤怒・怠惰・嫉妬であるうちに、それらと友達になり、人と共有するのが理想なのでしょう。
え、そもそも、この文書なにかって? これは、感想文ですよ。「X」のCLAMPの。18巻まで読んだんですが、なんで途中で休載してるんですか、、、完結してると思ったから大人買いしたのに、、、ちゃんと終わらせてくれ~。
谷崎だから隷属文学であるわけで、猫を取り巻く隷属文学である。
猫の描写、いや、猫をかわいがる人間の描写の吸引力がダイソン級で、まさに猫が飼いたくなる作品である。
なんというか、このからめ手の心理描写、行動様式、徐々に引き込まれていき、離れられなくなる、まさに猫のような文体。
美しいというより、いやらしい?、肌がしっとり重なるような作品である。
終わりは、近年のプロットとエンディングがはっきりした作品とは異なり、余韻を残す古典的結末であり、これは近代人には賛否あるところだろうが、初子の描写も含め、きれいに終わっていると思う。
そして、新潮文庫、解説がよい。しっかりしている。
文芸評論家とある磯田さんの解説は、
略
人はしばしば人間性の解放について語りたがる。しかし人間が自由になったとき、つまり人間が彼自身の主人になったとき、そこに訪れてくるのはどういう矛盾であろうか。支配・被支配の関係において、人が支配を完了したとき、彼がそこに見いだすのは、もはや何もすることがないという現実である。この世に王者ほど孤独なものがまたとあろうか。そしてもし彼が人間である続けようとするならば、彼は何ものかに隷属すること、いいかえれば何らかの奉仕の対象を見いだす以外に生きがいはない。
中略
男女同権の思想も、社会の改革をめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になるということである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。