「武蔵野の森公園の歴史を訪ねる」講座

調布市の陸軍飛行場跡を再び訪問しました。

東京都公園協会の「緑と水の市民カレッジ」による武蔵野の森公園25周年記念講座「武蔵野の森公園の歴史を訪ねる」に参加してきたのです。
この講座がすごかった!参加料として1600円くらい払いますが、ぜんぜんおつりがくるような内容の濃さと、資料の豊富さ、特製タオルに、特製一筆箋、スポーツドリンクまで頂きまして、大満足と感動の講座でした。
前回調布飛行場を訪れた時に疑問だった点も解明され、掩体壕の中にも入ることができて、市民カレッジのクオリティの高さにびっくりしました・・・。

まずは武蔵野の森公園サービスセンターに集合。
私は今回は京王線の飛田給駅で降りて歩いていきました。

味の素スタジアムを右手に見ながら、緑陰の中を歩いていきますと、右手に広がる広大な敷地。ここは太平洋戦争中は利器軍調布飛行場があった場所であり、戦後はアメリカ軍が駐在した調布基地でもあります。現在は国の所有地になっていて、東京都に貸し出されているということです。「調布基地跡地」と、当時をしのばせる文字が・・・。



レアな一〇〇式輸送機のプロペラ
武蔵野の森公園サービスセンターに入ってすぐ目を奪われたのがプロペラです。

2009年三鷹市による下水道敷設工事を行っていた時に、日本軍軍用機のプロペラが3つ出土したそうです。ぼろぼろになっていて、この1つだけが復元保持可能だったということです。

初めは調布飛行場にいた第244戦隊が搭乗していた飛燕のプロペラだと思われていたのですが。その後の調査で2019年に陸軍の一〇〇式輸送機二型(キ57Ⅱ)のプロペラであることが判明しました。一〇〇式輸送機は陸軍が人を運ぶために使っていたのですが、当時の調布飛行場は陸軍による帝都防空基地となっていました。防衛総司令部飛行班が置かれていて、総司令官の東久邇宮専用の100式輸送機があったことが記録に残っています。

もしかして、東久邇宮が搭乗した輸送機のプロペラかもしれません。


このプロペラ、誰かによって土の中深くに埋められていました。終戦後、アメリカ軍の命令により軍の飛行機のプロペラはすべて取り外されて廃棄され、日本軍が空を飛ばないようにされましたが。誰かが、取り外したプロペラを土の中に埋めたのかもしれませんね、まるで墓碑のように。
一〇〇式輸送機は現存する機体がありませんので、プロペラだけでも貴重な発見です。


↑1945年、終戦直後の調布陸軍飛行場にあった一〇〇輸送機二型(キ57-II)。この機体のプロペラが出土したのかもしれません。(写真はWikiからお借りしました)

一〇〇式司偵の尾翼が発見される
「航空発祥の地 所沢 後編」で書いたビルマの通り魔こと、一〇〇式司令偵察機。

 

 

その尾翼が府中市の個人宅で発見され、調布飛行場にあった第一六独立飛行隊所属の一〇〇式偵の尾翼である可能性が極めて高いということでした。

なぜ、個人宅に尾翼が??と思うのだけど。そこらへんの顛末はわからず。尾翼は展示されていませんが、ぜひ、公開展示して頂きたいです。

調布飛行場にいた第一六独立飛行隊は一〇〇式司偵で、毎日のようにサイパンへ飛んでアメリカ軍の様子を偵察していたそうです。毎日って・・・すごいですね・・・。それだけ、日本軍はサイパンから空襲にくるアメリカ軍爆撃機を警戒していたということですよね。

プロペラ展示の横には、調布飛行場の歴史や、飛燕の戦いについての展示もあり、もうここだけでも涙目にありがたい展示(泣)。



B29を撃墜するために必死だった・・・

そして講師の方による、「武蔵野の森公園の歴史」についての講義があったのですが。私の興味はもちろん太平洋戦争中の調布飛行場とそこで戦っていた陸軍飛行第244戦隊の活躍です。他の出席者の方もほとんどは、戦争中の出来事に興味があったみたい。
いろいろ貴重なお話を聞くことができました。その中で、特に印象深かったお話といえば、一〇〇式輸送機のお話の他に・・・。

昭和19年(1944年)からサイパンからアメリカのB29などの爆撃機が日本本土に飛んできて空襲するようになるのですが、その最初の標的がこの武蔵野の一帯であったということです。武蔵野の地には中島飛行機の工場がありました。現在の三鷹から吉祥寺にまたがる地域に工場があり、中島飛行機は太平洋戦争中、軍用機や零戦のライセンス契約による量産も請け負っていて、アメリカ軍はまず中島飛行機を破壊すると決めていたそうです。中島飛行機については「あゝ中島飛行機」で書いておりますのでご参照下さい。

 

 

それと、B29が高度1万メートルで爆弾を投下すると、着地まで30~40秒かかり、B29が三鷹や小金井付近で爆弾を投下すると、冬の強い偏西風にふかれ、爆弾は東京の中心部でちょうど着弾するのだそうです。つまり、東京中心部を空襲されないようにするためには、武蔵野の空域で、B29を撃墜しなくてはならなかったのです。東京中心部の外周30キロ以遠で撃墜しなければならないとされていました。知らなかったなあ・・・。

このため、調布飛行場は首都防空の要の飛行場であったのです。でも、それゆえに、アメリカ軍の爆撃機に攻撃されたのでした。
 

アメリカ軍の爆撃により破壊されたのは中島飛行機や軍の飛行場ばかりではありません。犠牲になったのも軍人だけではありません。民家も学校も民間人も被害に遭っています。
 

日本軍はなんとかアメリカの爆撃を阻止しようと、必死に迎撃にあがりますが、高度1万メートルの上空を飛ぶB29になかなか太刀打ちできず、空対空特攻という作戦が生まれ、戦闘機でB29に体当たりして落とすという震天制空隊が生まれます。
震天制空隊については、「我がつばくろの守りあり B29撃墜王 小林照彦」で書いております。

 

 

震天制空隊は、調布飛行場の飛行第244戦隊だけでなく、印旛の飛行第23戦隊、成増の飛行第47戦隊、所沢の飛行第53戦隊、柏の飛行第70戦隊にも置かれました。それぞれの飛行戦隊の中に特攻隊員が任命されたのです。
 

飛行第53戦隊の特攻隊長青木哲郎少尉が、特攻隊員になってから待遇が大きく代わり、食事も豪華になったと日記に書いているそうです。青木少尉は日記に「人気があったのはチョコレートの中にウィスキーが入っているもの、ポケットに入れてゆき、飛行中にかじっていた」と書いています。

陸軍飛行戦隊の中に作られた特攻隊、震天制空隊は、体当たりして絶対死んでこいという作戦ではなくできれば体当たりした後パラシュート脱出して生還せよという作戦でしたが、高速で飛行機同士が撃墜して脱出なんてものすごい困難ですから、体当たりで散華してしまう搭乗員も出てきます。
あるいは、1~2回は体当たり後脱出に成功したとしても、そんな危険な攻撃を続けていれば、いずれ命を落としてしまう・・・ということもありました。


飛行第244戦隊の震天制空隊長であった高山正一少尉は、飛燕に乗って調布飛行場から上がり、B29を現在の国分寺市上空で体当たり攻撃して墜とし、その後パラシュートで脱出して生還しています。

その撃墜の様子は多くの人々が目撃し、報道され、絵にも描かれました。一方、B29の搭乗員11名は全員戦死、国分寺の地域にご遺体が落ちその後近くのお寺に埋葬されたそうです。(戦後、ご遺体はアメリカ軍によって収容されています)
しかし、勇名を謳われた高山少尉も1945年1月27日、飛燕でアメリカ爆撃機を墜としに向かった後、未帰還。千葉上空で戦死したとされています。

震天制空隊が宿舎としていた場所は現在武蔵野の森公園の緑の芝生になっております。

現在調布飛行場の司令塔がある場所が、太平洋戦争中、第244戦隊の戦闘指揮所があった所だそうです。

陸軍調布飛行場の滑走路の一部は、現在も調布飛行場で使われているそうです。
 

公園内に残る排水溝は、当時の陸軍調布飛行場の周辺に、滑走路に水が入らないよう作られたものです。

80年経っても、しっかり残っていますね。

 

 

終戦後、アメリカ軍は調布飛行場は飛行場として利用せず、横田や所沢を利用しました。調布飛行場跡地は、広大な平坦地でしたので、飛行場横の土地を水耕農園にしたそうです。
当時の日本の農業といえば、肥溜め(人間や家畜のうんちですね・・・)を肥料に使って野菜を育てていたのですが、これがアメリカ人にすれば大ショック!オーマイゴッド―!って感じだったらしいです。そんな野菜食べられません・・・ということで、広大な水耕農園を作り、化学肥料を使って野菜を育て、日本駐在のアメリカ軍人およびその家族に提供していたそうです。いやあ、カルチャーギャップですね・・・。

掩体壕たち
太平洋戦争中、調布飛行場の周辺には100もの掩体壕が作られたそうです。有蓋掩体壕は30個ちょっと作られたとのこと。現存しているのは4個。そのうち一般公開され見れるのは3個です。柏飛行場跡の無蓋掩体壕のように、天井がなく土盛りで囲ったような掩体壕も多く作られ、戦後は取り壊されています。


調布飛行場周辺の掩体壕の保存がしっかりされているのは「調布飛行場の掩体壕を保存する会」の活動のおかげで、とても熱心に活動されていて、教育・啓蒙活動にも努めておられ、頭が下がります。
 

今回掩体壕大沢2号の中に入ることができたのですが。
現在のビルのようなコンクリートでしっかり固めて作っている感じではないのですよねえ。

石や砂に新聞紙までまじったもので作られていて、だいぶ痛んでいるようでした。崩れている部分もあるし、この先、この掩体壕がいつまでこの姿をとどめていられるだろうか・・・とちょっと切なくなりました。
 

でも、コンクリートでバチバチに補強したら、当時の姿は消えてしまうし・・・。戦争遺跡の保存と継承て、終戦から80年経過して、ますます難しくなってきているなあと思いました。
 

大沢1号の掩体壕は中には入れてもらえませんでしたが。
今回も飛燕の勇姿を撮影。



ところで。

疑問に思っていた調布飛行場の門柱、「東東飛行場」の理由も教えて頂きました。昔「京」は「亰」という感じが使われていて、「東亰飛行場」と書かれていたのを戦後悪戯した人が線を書き加え「東東飛行場」になってしまったそうです。


豪華なお土産

講座のおみやげとして、モリモリに資料を頂き、感謝感激でした。


特に読みたいと思っていた非売本『つばさに託して』を頂けたのが大変ありがたく。本稿もこの冊子をたくさん参考にさせて頂きました。


調布飛行場の歴史と、そこで戦っていた陸軍飛行戦隊の人達のこともいろいろと書かれていて、すばらしい力作であります。

 

 

調布飛行場訪問第一弾はこちらです↓

 

 

 

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