武蔵野市はかって「戦場」だった
オシャレな町、吉祥寺から、緑豊かな三鷹にかけての武蔵野市には、かって中島飛行機製作所がありました。
陸軍戦闘機の傑作「隼」を作った飛行機メーカー。
戦争末期には国営化され、日本陸軍・海軍に軍用機を提供し続けた飛行機製作会社です。
この中島飛行機製作所を狙って、アメリカのB29が爆撃したので、中島飛行機に勤めていた人のみならず、周辺の多くの住民達が空襲の被害に遭っています。1944年(昭和19年)11月24日の初空襲から、合計9回の空襲に遭いました。
今は、中島飛行機の跡地は広大な緑の公園になっています。
そして、武蔵野市は、戦争の頃の記憶を忘れないようにということで、戦争遺跡の保存や教育活動に取り組んでいます。わりと、積極的に取り組んでいる自治体ではないだろうか。
武蔵野市の観光課では「武蔵野の戦争遺跡を訪ねる平和散策マップ」を作って案内していて、地元の歴史研究グループが丁寧な調査レポートをアップしてくれたりしています。成増飛行場の跡に比べると、武蔵野市の戦跡の扱いは、丁寧で、次世代に繋げていこうという気持ちがみえるようで、いい感じです。
武蔵野ふるさと歴史館では中島飛行機関連の資料を収集していて、定期的に企画展や講座も開催。戦跡を後世に伝えていくという意味でかなりハイクオリティの活動をしていらっしゃいます。
そんな武蔵野市を、5月の晴天の日(そして真夏日だった・・・)、中島飛行機の跡を訪ねて巡ってきました。
東洋最大の飛行機メーカー、中島飛行機
中島飛行機は、もと海軍機関大尉の中島知久平(ちくへい)さんが群馬で作った飛行機会社。
エンジンや機体を独自に開発して、設計から生産まで全部自社でできるという「技術の中島」といわれた飛行機メーカー。
かっては東洋最大の飛行機製作会社でした。
名機零戦を作った三菱重工と違うのは、財閥系じゃなくて本当に中島さんが裸一貫から作った個人会社(戦争末期では国営化されるけど)であるということと、軍用機だけ作っていたということ。この2つの点が、終戦後、中島知久平さんを戦犯にし、中島飛行機が崩壊する要因になるのですが。
中島飛行機には若く優秀な技術者が集められ、フレッシュなアイディアとエネルギーで、数々の傑作戦闘機を作っていきます。
中島飛行機は初めは陸軍向けに軍用機を作っていましたが(初めは陸軍からしか注文こなかったらしい)、そのうち海軍にも軍用機を作っています。
中島飛行機が作った傑作機といえば・・・。
一式戦闘機「隼」(はやぶさ)キ43(陸軍向け)
二式戦闘機「鐘馗」(しょうき)キ44(陸軍向け)
四式戦闘機「疾風」キ84(陸軍向け)
夜間戦闘機「月光」(海軍向け)
艦上攻撃機「天山」(海軍向け)
艦上偵察機「彩雲」(海軍向け)
太平洋戦争史を彩った数々の傑作飛行機を、中島飛行機が作っています。
ちなみに太平洋戦争後半では、三菱重工が作った零戦をライセンス契約で製作し、三菱よりも多くの零戦を作っています。
太平洋戦争時の他社の傑作飛行機といえば。
三菱重工:零式艦上戦闘機「零戦」(海軍向け)
三菱重工:局地戦闘機「雷電」(海軍向け)
三菱重工:一式陸上攻撃機。一般に一式陸攻。(海軍向け)
川崎航空機:三式戦闘機「飛燕」(ひえん)キ61(陸軍向け)
川崎航空機:五式戦闘機(愛称なし)キ100(陸軍向け)
川西航空機:紫電改(海軍向け)
が挙げられます。
こうしてみると、三菱重工や川崎航空機のような大手会社にまったく引けを取らずに、中島飛行機はかなり頑張って傑作機を創り出しているといえます。
好きだなあ、中島飛行機の飛行機。
零戦が最高であることは揺るがないのだけど、中島飛行機の飛行機って個性的で、スペックがとんがってて好きです。
そんな中島飛行機の製作工場があった武蔵野を巡ってみます。
延命寺
中島飛行機製作所の跡地は今武蔵野中央公園になっているのですが、公園に向かう前に延命寺を訪ねました。
JR三鷹駅北口から武蔵野中央公園に向かって歩いていき(北上)、五日市街道にぶつかったら左に折れてひたすら歩くと、どーんと大きなお寺があります。延命寺って看板出てますから、すぐわかると思います。三鷹駅から歩いて15分くらい。

この延命寺には、B29が空襲で墜とした250キロ爆弾の破片が展示されています。

すっごく大きいですね・・・。こんなのが空から降ってきたんかい・・・( ;∀;)
そしてかって武蔵野の地が中島飛行機製作所があった場所で、B29の空襲に襲われ、多くの被害が出たことが説明されています。
平和観音菩薩像と平和の鐘に手を合わせます。
グリーンパーク遊歩道
延命寺を出たら、そのまま五日市街道沿いに3分くらい歩くと、緑いっぱいの散歩道に突き当たります。この道がグリーンパーク遊歩道。
かって中島飛行機製作所への引き込み線があった所。丁寧な解説版が設置されています。
グリーンパーク遊歩道は緑いっぱいの素敵な散歩道です。シロツメクサの香りがいっぱいで「シロツメクサの花が咲いたら~」とラスカルの歌(←子供の頃「あらいぐまラスカル」を見て育った世代です・・・)を口ずさみながら、ルンルンと緑の中を歩きました。

両脇には古い石垣が草に埋もれているけれど。これは、戦争中の引き込み線があった頃のものかなあ?
武蔵野中央公園
広ーい!
そういえば、私は若かりし頃、武蔵野に住んでいて、この公園にも遊びに来た記憶があるぞ。その頃は、戦争遺跡に全く興味がなかったので、何の感慨もなかったのだけど。もったいなかったなあ。こんなに戦跡が豊富な場所の近くに住んでいたのに、興味ゼロでスルーしていたなんて。自分が住んでいる場所の歴史くらい調べたほうがいいなと思いました。
武蔵野中央公園の看板にも中島飛行機の説明がありました。
そして・・・。この後、陸上競技場や高射砲跡地や武蔵野アパートの敷地にある中島飛行機製作所の爆弾照準点を見にいく予定でした。
しかし。この頃から、私はあまりの暑さにフラフラになって、熱中症か!?と思う症状に襲われ・・・。(実は、三鷹周辺の戦跡を見る前に、吉祥寺周辺の戦跡を訪ねていて、既にかなり暑さにやられていた・・・)
この日は東京、気温30度の真夏日。グリーンパーク遊歩道で能天気にルンルンしていたが、あの時から既に脳が暑さにやられていたか!?・・・。なんだか、心臓がドキドキしてきた私は、しばらくベンチに座り休んでいましたが。いや、ベンチも暑い~💦
ということで、この日はこれにて戦跡訪問終了。今回見れなかった所は次回リベンジします。
いやはや、戦跡訪問もそろそろ不可能なほどの暑さになってきましたね・・・。
夏は屋外の戦跡訪問は難しいです・・・。
中島知久平が見た夢
中島知久平さんは戦争中、政治家になり、軍需大臣などを務め、戦後はA級戦犯に指名され、公職追放となります。でも、病気のため刑務所に入ることはなく、昭和24年に亡くなっています。
中島飛行機はGHQによって解体されました。でも、中島飛行機の人達とそのDNAはSUBARUの富士重工に受け継がれました。
太平洋戦争の後半、中島知久平さんは政治家になっていましたから、表向き中島飛行機製作所からは離れていましたが。飛行機製作への情熱はずっと持ち続けて、中島飛行機を支えました。
不利になっていく戦況を挽回するため、中島さんは次々と新しい飛行機を開発させていきます。
エンジン6発の超大型重爆撃機「富嶽」。
ジェット戦闘爆撃機「火龍」。
国産ジェット特攻機「橘花」。
次々と新しいアイディアと工夫で画期的な飛行機を製作しようと奮闘します。
でも、「富嶽」も「火龍」も「橘花」も試作段階にとどまり、実戦投入には至りませんでした。工場はアメリカ軍にばんばん爆撃されてしまうし、人材が軍に取られちゃうし、部品も燃料も不足するしで、戦争末期は飛行機開発も苦労の連続でした。
特攻機「橘花」は試作にとどまってよかったと思うけど。「富嶽」は実際に飛ぶ姿を見たかった気がしますねえ。アメリカ本土を爆撃しちゃまずいけど。
終戦後、GHQにより、日本の会社は飛行機作ったり、研究してはいけないってことになり。軍用機だけ作っていた中島飛行機は会社をたたまざるを得なかったのでした。
しかし。中島飛行機のDNAはスバルに受け継がれたわけです。
SUBARU執行役員・航空宇宙カンパニープレジデントの戸塚正一郎氏は「日本の工業技術には中島飛行機のDNAが大きな位置を占めていると思います」とインタビューを受けた際コメントしています。
中島飛行機について知るには
本ではなく、ポッドキャストをお勧めします。
長まろさんとおが太郎さんのポッドキャスト番組「大人の近代史」の「172回中島飛行機と終戦」
中島飛行機の歴史と、中島飛行機についてわかりやすく、面白く解説してくれています。
私、「大人の近代史」の大ファンでして、太平洋戦争関連の回は特に面白いです。
Youtubeでも配信されています。















