B29撃墜王
調布飛行場を拠点として、首都圏の空を防衛した陸軍飛行第244戦隊。
名古屋の空を守るために浜松に行ったり、特攻隊掩護のために知覧に行ったり、八日市に行ったり、また調布に戻ったりしていますが。244戦隊の主任務はとにかくB29撃墜。日本を空襲にやって来るB29をどうやって撃退するかにフォーカスです。
第244戦隊はB29撃墜数でいえば73機墜としており、他にもグラマンF6Fヘルキャットなどの戦闘機も30機近く墜としています。
使用機は飛燕、戦争末期には飛燕改良型ともいえる五式戦(キ100)を駆って、大型爆撃機を多数撃墜したり超優秀戦闘機ヘルキャットを墜としているわけですから、その勇猛果敢ぶりは明らかでしょう。
ただ、その勇猛果敢の中には、自分が乗った戦闘機ごとB29にぶつかる空対空特攻も含まれており、日本の空を守りながらも命を散らした搭乗員も多くいます。ただ、空対空特攻してもパラシュート脱出し生還したパイロットもかなりいることが救いです。
『日本陸軍戦闘機隊2 エース列伝』(秦郁彦/伊沢保穂 共著 大日本絵画)にB29撃墜数ランキングというものが載っていまして。
1.小林照彦少佐(航士53) 244戦隊 10機
2.伊藤藤太郎大尉(下士79) 5戦隊 9機
3.市川忠一大尉(少飛3) 244戦隊 9機
4.木村定光少尉(下士67) 4戦隊 8機(1945/7/10戦死)
5.樫出勇大尉(少飛1) 4戦隊 7機
(公認確実撃墜数のみ)
ということで、B29撃墜王トップ5に二人も第244戦隊から入っています。しかも、小林少佐と市川中尉共に複数回体当たりの空対空特攻していますが、パラシュート脱出して生還、戦争を生き抜いています。これは、海軍の対艦船特攻の100パーセント戦死が決まっているケースよりも救われるなあ・・・と思います。
陸軍の戦闘機パイロットの養成プロセス
ところで。
陸軍のパイロットの、航士、少飛とか、いろいろタイトルがわからない・・・と思って調べてみました。海軍のパイロットとは階級の名称が違いますしねえ・・・。
海軍の「飛行学生」に相当するのが、陸軍では「操縦学生」。
1.士官の場合
陸軍士官学校卒業者(陸士)から希望者を航空に転科。所沢陸軍飛行学校で「操縦学生」、明野陸軍飛行学校で戦技教育、で飛行戦隊に配属。
後に、陸士卒業してから飛行学校では歳とりすぎるということで、陸軍航空士官学校ができて、卒業すると「乙種学生」として、明野陸軍飛行学校で戦闘機訓練。陸軍航空士官学校出は「航士」となる。
一方、海軍の「飛行予備学生」(大学や専門学校出て海軍に入る)にあたるのが、陸軍では「甲種幹部候補生」あるいは「特別操縦見習士官」。
2.下士官の場合
陸軍に在籍している者の中から選抜、「操縦学生」になる。この場合「下士」。
その後、海軍の予科練に相当する制度が出来て、一般から登用したのが「陸軍少年飛行兵」。ここを出ると「少飛」。
また、民間飛行学校の操縦者を「予備下士官」として採用もした。
3.少尉候補生
これが海軍にはない制度なのだけど、見込みのある准士官や下士官を登用して陸軍士官学校に入校させ士官に育てる制度。航空士官学校ができるとそちらへも下士官から送り込んだ。
海軍の特務士官と異なり、陸軍士官学校を卒業した少尉候補生は将校と同等に扱われて、昇進、待遇に差別なし。中隊長や戦隊長を務める人も出ました。陸軍少年飛行兵卒、少尉候補生になり、大尉にまでなった人もいます。
4.甲種学生
明野陸軍飛行学校甲種学生。士官のうち、中隊長あるいは教官になる人向け教育課程。戦隊長はだいたいこれ出身。
なお、陸軍の飛行隊では、昭和17年11月1日から、階級に「特務〇〇」とか「予備〇〇」とつけていたのを廃止。特務少尉も予備少尉もみんな「少尉」になりました。
こうしてみると、海軍よりも、陸軍の方が、下士官にオープンという気がします。これはパイロットに限った話かもしれませんが、実力ある優秀な者ならばどんどん登用し、下士官→士官の道も開けていた。
海軍の場合、下士官→士官の道としては、特務士官で、たいてい少尉どまりでしたから。それに、海軍では、最後まで「予備〇〇」「特務〇〇」と階級名が海軍兵学校卒の士官とは区別されていました。
第244戦隊の小林少佐は「航士」なので、陸軍航空士官学校卒。
市川中尉は「少飛」なので、陸軍少年飛行兵卒、ですね。
高度一萬、厳として、我がつばくろの守りあり
昭和19年(1944年)11月に第224戦隊に新しい戦隊長、小林照彦大尉が着任します。当時24歳。若い。実際陸軍の戦闘機隊では最年少の隊長でした。しかし、この小林大尉、ファイティングスピリットのカタマリのような人でした。
常に先頭で戦闘。隊長自らがB29撃墜ランキング1位ってことからして、その先頭指揮ぶりがわかります。
(↑写真はWikiからお借りしました)
そして、小林大尉のもと、そよかぜ隊(第1飛行隊)、とっぷう隊(第2飛行隊)、みかづき隊(第3飛行隊)の3隊が編成され、多くのエースが誕生していきます。小林大尉自身、B29 撃墜王なのですけど、白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、生野文介大尉、佐藤権之進准尉、竹田五郎大尉などがB29撃墜に活躍します。
第244戦隊の活躍はメディアでも大きく取り上げられ、B29から日本を守ってくれるとして日本国民は熱烈支持、小林防空戦隊、「つばくろ」部隊としてその勇名を謳われます。いえ、実際、「つばくろ」として歌われました。
昭和20年2月10日、勇名な作曲家の古関裕而氏(「栄光は君に輝く」「六甲おろし」など有名曲をたくさん作曲した方)が第244戦隊を慰問した折に作曲し贈られたもので、隊員の間で広く親しまれたそうです。作詞は川崎航空機社員だった南郷茂宏氏です。
高度一萬、厳として、我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓 あゝそは飛燕戦闘隊
こちらのYoutubeで聞けます↓
やっぱり、第244戦隊=飛燕、なのだなあ・・・。
第244戦隊の奮闘
しかし、B29 は高度1万メートル以上を悠々と飛んで日本に空襲に来ますから、やっとなんとか1万メートルまで上昇できる飛燕では、第244戦隊のエース達も苦戦します。
小林隊長は、自分の飛燕から防御設備とかもう外せるものは全部外して機体を軽くして、1万メートルまで飛んで空戦できるように工夫していました。
しかし、軽くした飛燕でも、1万メートル上がったところでの空戦はかなり苦戦したようです。飛燕は、当時の日本の戦闘機では1万メートルまで上昇できるレアな機体ではありましたが。B29は防御にすぐれ、頑丈な機体でしたからねえ。
それで、体当たり攻撃でB29を墜とす作戦が取られ、この空対空特攻は、日本防空の陸軍戦闘隊で採用され、「震天制空隊」の名称がつきます。「震天制空隊」は、各戦隊に内包される形で、各地の戦隊に存在していたわけですね。
ただ、前回の「調布飛行場」でも書いた通り、100パーセント死にますという特攻ではなく、体当たり後パラシュートで脱出してなるべく生還せよ、という攻撃ではありました。
小林大尉も数回B29に体当たり攻撃して、パラシュート脱出して生還しています。ただし、たびたび負傷していますが。
しかし、中には脱出できないパイロットもおり、空対空特攻で戦死、というケースも複数出てきます。
そして、硫黄島が陥落し、B29にP51マスタングという最新戦闘機が掩護でついてくるようになると、第244戦隊もなかなかB29を墜とせなくなり、戦死者が増えていきます。
そんな中、昭和20年4月、沖縄への特攻作戦が海軍・陸軍ともに始まり、第244戦隊も知覧へ移動し、特攻隊の掩護に当たりました。しかし、敵戦闘機に襲われ、なかなか苦戦したようです・・・。まあ、それは、第244戦隊だけの苦境ではなかったのですが・・・。多くの特攻作戦自体に無理がありましたから・・・。
昭和20年4月下旬には、使用機を飛燕から5式戦に変更。5式戦はキ100ともいわれ、飛燕のエンジンを百式司偵のエンジンにしたら操縦性が抜群によくなり、高高度での戦闘性能もグッド、しかも故障が少ないということで、これはいいぞ!となりました。
けれども、知覧から滋賀県の八日市に移動した後、P51マスタングの大編隊と戦闘して苦戦、戦死者も出たということで、第244戦隊には出動禁止命令が出ます。本土決戦のために戦闘機隊を温存しておきたいという大本営の意向もありました。
毎日日本上空に飛んで日本を爆撃するB29やアメリカの戦闘機をただ見ているしかできないなんて・・・と、小林大尉達は悔しさに唇を噛みます。
命令違反承知で出撃!
そして、ついに、我慢ならなくなった小林大尉は、昭和20年7月25日、「訓練です~」と言って八日市の空に上がり、やってきたP51マスタングの編隊をめちゃくちゃ攻撃します。この時P51を12機も墜としたそうです。第244戦隊側は1機未帰還。
でもこれは、命令違反。小林大尉は罰せられることになります。小林大尉もそれは覚悟していたでしょうが。
ところが。久しぶりの大戦果に昭和天皇からお褒めの言葉があり、天皇に褒められた小林大尉を罰するわけにもいかんということで不問に処されました。
第244戦隊は、8月14日まで、日本本土防衛のために空戦を続けましたが、8月15日終戦となります。
それぞれの戦後
体当たり攻撃を含め、激しい空戦を戦った第244戦隊。
小林大尉は戦争を生き抜きました。しかし・・・昭和32年6月、航空自衛隊浜松基地で航空事故で殉職。
もう一人のB29撃墜王、市川忠一中尉も戦争を生き抜きました。しかし・・・昭和29年9月航空事故で殉職。
第244戦隊を代表するエース二人が、せっかく戦争を生き抜いたのに、戦後に航空機の事故で亡くなってしまうとは・・・。
残念です。合掌。
小林大尉(最終階級は少佐)のお墓は多磨霊園にあり、笹井醇一中尉のお墓参りをした時に、お参りしてきました。
奥まった所にあったものですから、探し出すのに苦労したのですけど・・・。B29撃墜の戦績を記した碑が建てられていました。日本酒をお供えして、手を合わせてきました。
お墓の場所は、25-1-32です。


とっぷう隊長であった竹田五郎大尉は、戦後、航空自衛隊に入り、自衛隊制服組のトップである第12代統合幕僚会議議長になりました。
みかづき隊長であった白井長雄大尉は、戦後沈黙を守りました。一切表に出てくることがありません。
それぞれの戦後。
それぞれの想い・・・。
今はただ、B29から日本を守ってくれてありがとうと伝えたいです。
第244戦隊の活躍を知るためにお勧めの本
『日本陸軍戦闘機隊 戦歴と飛行戦隊史話』(秦郁彦/伊沢保穂 共著 大日本絵画)

『日本陸軍戦闘機隊2 エース列伝』(秦郁彦/伊沢保穂 共著 大日本絵画)

どちらも力作です・・・。写真もいっぱい。
この2冊で、陸軍の戦闘機隊のことはほぼわかります。
特に『エース列伝』の方は、2024年8月15日発行ということで、比較的新しいです。
そして、共著の伊沢保穂氏は、この本の出版を待たず、2024年5月13日、一年前の今日、亡くなられています。
伊沢氏は三鷹で眼科医をしながら、航空隊の研究・執筆をなさった方で、特に陸軍戦闘機隊について多くの著作を書かれています。伊沢氏のご冥福をお祈り致します。


