刑罰が柔和なものになればなるほど、それだけ温情と赦免の必要性は少なくなる。温情と赦免が、むしろ禍いですらあるような国は幸いなるかな!すなわち、王座を占める主権者によって履行されるべきすべての義務に関して、しばしば補完的機能を果たしてきた温情という美徳は、立法が完璧ならば排斥されなければならないはずのものなのだ。
立法が完璧ならば、刑罰は柔和であり、裁判手続も規則正しく敏速に進められているはずだからである。馬鹿げた法律に縛られ、刑罰も苛酷に傾く刑事裁判システムにおいては、それだけ赦免や恩赦が必要になってきて、秩序がねじ曲げられているから、右記の真理は厳しく感じられるであろう。確かに、恩赦は、王位が有する最もうるわしい特権であり、最も好ましい主権の属性である。そして、恩赦を施すことは、公共の幸福を司る慈しみ深き者が、ある法典を暗黙のうちに否定することを意味する。
チェーザレ・ベッカリーア「犯罪と刑罰」
大災害で熱に浮かれているかのように狂奔するのも、全く異なることを書き留める気にもなれず、一定期間沈黙を課してみましたがそろそろ解禁させてもらいます。本当ならば、2週間前に紹介したかった書籍の紹介となります。既にfinalvent氏により「青年の彷徨と蹉跌の物語」 という「物語」に焦点を当てた紹介がなされていることもあるので、この本が突きつけている司法制度の問題という観点から考えたことをつらつらと記します。
書籍の表紙にテーミスが掲げられているように、法の女神は予断を排するために目隠しをして、片手に剣と片手に天秤を持ち、罪を純粋に計り、罰を課すとなっています。著者が疑義を突きつけているのは、天秤で罪と罰を計るに、
①賠償という眼に見える「金」を天秤に載せられない加害者の「反省」「悔恨」といった「心」が秤に載せられない現状
②三審制度といいながらも、実質天秤を計るのは1度に過ぎないのではないのかという運用上の問題
③厳罰化という潮流により天秤の支点が揺れ動くのは「正義」と言いうるのか
などの諸点です。それがどれだけ説得力ある指摘となっているのかは、どうぞ具体例の数々が指摘されている当著を手にとってくださいとしかいいようがありません。
強調したいのは、決して著者が「死刑反対」を掲げているわけではないということです。むしろ死刑制度の是非という問題に対して、現在ある司法制度を活用し、運用を変えるだけで死刑賛成派も反対派も合意できる現実的な解決策を結果的に(小林死刑囚を救いたいという一点から)提案するに至っているといっても過言ではないでしょう。中には死刑せざるを得ない犯罪者もいるでしょうし、死刑という判決が下って初めて反省できたという犯罪者もおり、そして更生し生きて行くことを選択させるべき犯罪者もまた出てくる中でどちらかの極だけを見て死刑制度全体を二分論で語るのは無理です。
また、おそらく「恩赦」という制度についてこれほどきちんとまとまったものとして書かれたものはなかったのではないでしょうか?最近の流行りの言葉で言うならば、グローバルスタンダードに従えば「恩赦」が制度として実施されることはアタリマエのことなのに、日本はここでも背を向けているに過ぎないということ、そして日本でも「恩赦」について政治家として、法相が死刑の署名の瞬間以外にも関与できるということを初めて知りました。その他にも司法制度にそれなりの関心がある方ならば色々と拓かれることとなるでしょう。
しかし、本当に皮肉なのは、裁判の審理手続きでは十分になされたとは到底にいえない小林死刑囚の弁護をなしえたのが、落第すれすれの法科大学院生という現実です。これもまた書籍内でも語られていることではありますが、多様な人材を輩出するためという理念を掲げたはずの司法試験制度改革直下において、著者のような人材が落ち零れてしまうということが残念でなりません。
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