ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じる、世界は我に従え! | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

>『謎解きが課題を解くことだとすれば、思い通りの人間になれないのは、課題を解けなかったことにあたる。それを通じてのみ人は大人になれるのだとすれば、課題を解けないことで、はじめて本来の課題が解ける。謎は解けないことで解ける。(中略)むしろ解けないことを受け入れることで解けていることになる。世界の謎解きはそんな二重底になっていて、そこで大人になることと裏表になる。

                                           佐藤俊樹


オーストリア下院選で二大政党後退、極右政党が政権入りも
>28日投票が行われたオーストリア国民議会(下院、183議席)選挙は、大連立を組んできた二大政党の社会民主党と国民党が1、2位を維持したものの、ともに大きく後退、極右勢力の躍進を許す結果となった。
両党が再度の大連立で合意できなければ、極右政党が政権入りする可能性もある。


日本に置き換えると自民党と民主党が大連立して共産党が躍進みたいな感じでしょうか?しかし、国民党からすればこの極右政党の躍進は痛いでしょうね。本来は彼らの支持層だったはずなのだから。


>内務省が同日発表した暫定集計結果によると、得票率は社民党29・7%(58議席)、国民党25・6%(50議席)。これに、極右政党の自由党18・0%(35議席)、未来同盟11・0%(21議席)が続いた。緑の党は9・8%(19議席)だった。(2008年9月29日 読売新聞)


一番わかりやすい連立方程式は国民党+極右勢力ということになるのではないかと。この期に及んで社会民主党との連立にメリットはない気がします。とりあえずこういうのが「ナショナリズム」という実例でしょうね。


自動起爆装置付きクラスター爆弾を配備=イスラエル軍
イスラエル軍放送は30日、同国軍が自動起爆装置の組み込まれたクラスター(収束)爆弾を購入し始めたと報じた。イスラエル軍は、2006年夏のレバノン紛争でクラスター爆弾を大量使用、市民に多くの犠牲が出たことで批判を受けた経緯がある。


そりゃあ、以前自動起爆装置入れればいいじゃんと書いた覚えもあるけれど、イスラエルは真正面から突破しますね(呆気)上手く言えないけれど、圧倒的な軍事力による恐怖の支配だけでは線は支配できても点は支配できないのにね。それがイスラエルのヒズボラに対する敗北で明らかになったことだと思うのだけれど。


>軍放送によると、イスラエル軍は米国製クラスター爆弾の購入を減らし、自動起爆装置を搭載したイスラエル製のM85クラスター爆弾の購入を始めたという。レバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラとの約1カ月間に及んだレバノン紛争でイスラエル軍は、約100万発のクラスター爆弾を投下したとされ、かなりの子爆弾が不発弾として残存。市民に多くの犠牲をもたらしたほか、紛争後の市民生活にも悪影響を及ぼした。地上に落下した際に子爆弾の約40%が爆発しなかったと推計もある。(時事通信 10.1)


しかも、自家生産できるようになったとは。次は自動起爆装置の改良で時限爆弾代わりに使うのですね、わかります。


フィンランド 銃規制求める声
>北欧のフィンランドでは、相次ぐ学校での銃撃事件で多数の犠牲者が出たのを受けて、これまで緩やかだった銃規制の強化を求める声が高まっています。
フィンランドでは、去年11月に南部の高校で男子生徒が8人を射殺した事件に続き、今月23日、西部の職業訓練学校でこの学校に通う22歳の男が構内で拳銃を乱射し、学生と教師あわせて10人を殺害する事件が起きました。いずれの事件でも、犯行に使われた銃は合法的に取得されたものだったことが明らかになっています


どれだけ理想的と思われている社会でも完全なる清浄はありえない。


>一方で、豊かな自然に恵まれたフィンランドでは、伝統的に狩猟が盛んで、スポーツ射撃もオリンピックで選手が活躍するなど人気の競技として定着しているだけに、愛好家はすべての銃の所持が否定的に見なされて一律に規制が強化されることに懸念も表明しています。(NHKニュース 9月28日 6時9分)


あとは隣のヒグマへの恐怖から国民総武装の必要があったとか。


仏刑務所に狙撃、丘の上から受刑者1人を殺害
>フランス南東部バルス・グルノーブルの刑務所で28日、受刑者が刑務所を見下ろす丘の上から狙撃され、殺害される事件が発生した。殺害された受刑者は犯罪組織に関与しており、殺人事件で取調べを受ける直前だった。


ゴルゴじゃ、ゴルゴの仕業じゃ!


>狙撃犯は、刑務所内の運動場に向けて銃弾5発を撃ち込んだ。殺害されたのは、ドーフィネ・リベレ紙によるとSghair Lamiri受刑者で、2001年と02年に犯した強盗で有罪となり、懲役8年を受けていた。事件発生時にLamiri受刑者を助けようとした別の受刑者も、手を負傷した。法相によると、フランス国内で刑務所内の人間が外部から殺害されたのは初めてだという。【9月29日 AFP】


刑務所内の人間が内部で殺されるならいざしらず、本当にこんなこともあるのですね。周囲を壁で囲って監視が常態化している中でも完全なる安全というのはかくも確保するのが難しいと。

2007-10-01 は私の大好きな「社会学者」であられる佐藤俊樹氏の時評をメモしていますが、ちょうどこれはというものを発見したので抜粋メモしておきます。愉しみ方としては佐藤氏自身の濃ゆいオタ遍歴話にあわせて、具体的な個人名こそあがっていないもののそこまで言うかというほどのアニメにかこつけて何かを現代思想などを語ってしまっている人間への嫌味・皮肉のオンパレードな部分かと。

大航海10月別冊 特集1980年代 佐藤俊樹「アニメの八〇年代/〇〇年代 戦場の少年少女は大人になったのか?」


>当時も今も、社会学の本を読むよりマンガやアニメに接している時間の方が長い人間だが、メジャー誌を毎週全て読破したり、TVのアニメ番組を全て視ていたわけではない。だから作品リストを手に入れて無作為抽出でもしないかぎり、「八〇年代のマンガやアニメ」なんて語れない。そのくらいの分厚さをマンガやアニメは十分もっている。


果たして無作為抽出(まあ、視聴率や売り上げで重み付けするのは良いと思いますが)をして語っている人間がどれほどいるのやら、それができなければ全メジャー誌読んでアニメ全部見てから語れっていきなり凄いハードルキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!


>好きな作品だけで論じるのが悪いわけではない。エンターテインメントには好きか嫌いか、楽しいか楽しくないかしかない。それで全くかまわないと思っているが、だからこそ「好き嫌いで語っています」と断るのが、読者への、そして作品の創り手への礼儀だと私は思う。××思想だの△△理論だのを読み込む評論なんて、くだらない。思想や理論を本当に論じたかったら本来の戦場である生活や社会でやればよい


まるで誰かさんが礼儀知らずみたいだ。というかこれ書いているのは私じゃないですからね!


>というわけで、以下、私の全く個人的な好みにそって、いくつかのアニメ作品を題材に、八〇年代から〇〇年代への転換について考えてみよう。私が同時代の平均的なアニメ好きなら、それを通じて各年代のアニメについて何かを語れているだろうが、そうである保証はどこにもない。その点も最初に断っておく


とりあえず「平均」的という言葉は「間違っているぞ!」(ギアス風に)佐藤さんは平均的なアニメ好きではないでしょ。一過性ならともかく、20年選手のアニメ視聴者ってそんなにいないよ(苦笑)


私の人生における痛恨事の一つも、『ガンダム』を生放送で視なかったことである。『エヴァ』だって『ヤマト』だって『キューティーハニー』だって『ルパン3世』第一シリーズだって生で視たのに!!


>『伝説巨神イデオン』は第一話から正坐して視た。これはマンガ的な表現ではない。六畳の和室にあったTVの前で、本当に正坐して視ていたのだ。


しかし、このような内容がよくもこんなお堅い雑誌に載せられましたね。ちなみに顔文字まで一箇所だけとはいえ使っています。ほかの論考との差異が激しすぎます(ちなみに大澤真幸の対談も同時掲載されていたりw)

>『コードギアス』がどんな結末を用意しているかは、私には知りようがないし、予測するつもりもない。享受する側の快楽は裏切られることにこそある。だから、あえて現在(08年7月末)までの話で語ろう。


大澤に対する批判と違って、佐藤先生は間違いなく現在進行形で視聴されています、そこは疑う余地「ゼロ」であります。


>「帝国」や「植民地」がらみの設定が各所にあって、ナショナリズムやグローバリズムを論じる材料につい使いたくなるくらいだ。もちろん、そんな評論は的外れである。現在のアニメは思想ネタや社会科学ネタを適当に小道具に使うくらい「進化」している。『コードギアス』の神聖ブリタニア帝国にしても、アメリカ合衆国以外からみればたしかに隠喩だが、アメリカからみれば独立戦争の敵、大英帝国のアニメ版である。文字通りグローバルに、それこそアメリカのアニメ好きにも楽しめるようにつくってあるわけで、あえてグローバリズムと絡めて論じたければ、その二枚腰、三枚腰の貪欲な商業戦略にこそ注目するべきだろう。


ギアスでナショナリズムを語った大澤真幸 揶揄にしか読めない私がおかしいのか!?


だから、八〇年代の現代思想や九〇年代の文化研究よろしく、「○○の思想と『コードギアス』が共鳴している!」なんて書くと赤っ恥をかくが、それだけに、このルルーシュの学園出戻りは面白い。子どもが大人になる過程でもない。子どもであることに内閉するのでもない。希代の戦略家であり、武力抵抗組織「黒の騎士団」の総帥ゼロでもあるルルーシュは、一仕事おえると澄ました顔で、どもどこかうきうきと、最新鋭ロボット兵器を自転車代わりに使って、アッシュフォード学園に戻ってくる。


赤っ恥をかいているらしいwwwそんな皮肉はさておき、ここからの佐藤先生の愉しいギアス解読はふむふむと読ませられます。


>学園という境界線の外に出れば大人、内に入れば子ども。その子ども/大人の境界線をルルーシュは双方向に何度も横断するのだ。


>ルルーシュはその境界線を簡単に逆方向に横断する。物理的に学園に戻る必要すらない。携帯電話一本で戻ってしまう。たまたま電話してきた恋人未満の女友達に、中華連邦の幼い女皇のお相手選びを相談して、その意見通りに色恋沙汰でまとめてしまう。その横断がやがて彼女の生命を奪うことになっても


まあ、この辺りからも佐藤先生のギアス視聴を疑うことはもはや許されません。


>このあほらしい図々しいくらいの横断に平然とつきあえる自分に気づいた時、私は八〇年代から遠く離れたことを思い知らされた。


ここからは非常に面白い「アニメ」時評が展開されます。


>八〇年代のアニメやマンガでの最高のほめ言葉は、「大人の鑑賞に耐えうる」だった。文学性や思想性を見出すことがアニメやマンガを擁護することであり、正当に扱うことであった。そこでは大人であること、大人になることが絶対的な価値観をもっていた。成長物語を描く作品が成長物語の中で評価されていたわけだ。


>その子ども/大人の境界線が、〇〇年代のアニメでは変容しつつある。境界線が双方向で横断される。だからこそ、ルルーシュは繰り返しアッシュフォード学園に出戻り、だからこそ、○○年代アニメは思想や理論を平気で小道具や大道具にとりこめる。だからこそ、「○○思想」や「××論」をアニメに見出す評論はつまらない


アニメを現在に還元することなく、ただアニメの中での表現の行方を考察されています。あくまで仮説と留保をつけていますが。ただ、その場合昔の魔法少女もの(マミのように大人に変身する)場合はどう考えればいいのだろうか?あの場合は、大人になるといってもあくまでも身体的な問題であって精神はむしろ子供のままだったかなぁ?


>小道具に使われていると気づけないからだけではない。そういう見出し方自体が子ども/大人、低級/高級という二分コードの言い換えであり、現在のアニメのリアリティをとらえそこなう。もちろん「現在の」といっても、私が好きな『コードギアス』や『銀魂』や『ソウルイーター』の、という限定つきだが、『ソウルイーター』などは放送枠まで子ども/大人の境界を横断している。


銀魂とソウルイーターは見ていないからわかりません><


>それが何を意味するのか、そのとき境界線はどんなものになるのか、明確な見通しはまだもてないが、ジャンルによってその表れ方はかなりちがうようだ。例えば、八〇年代の現代思想と比べると、現在の思想や評論はどこか大人子どもしていて、貧乏くさい。しょせん高等遊民のお遊びなのか、それとも八〇年代の呪縛がいまだに強いのかは見極めづらいが、ジャンル自体が低級/高級コードに大きく依存しているのだろう。だから、子ども/大人の境界線を逆に横断してしまうと、貧乏くさくなるし、本物の大人子どもになってしまう。それに対して、アニメは商品価値を高級さに頼れなかった分、自由に動ける


他にも当該論文は面白い箇所が多数あるのでもし興味をもたれた方はこの論考だけ(P106~)でも立ち読みをお勧めします。アニメ>>>>>現代思想だとか、貧乏くさいだとか実は仲正教授を遥かに上回る口の悪さじゃないのかい?


以下 アニメ感想
「薬師寺涼子の怪奇事件簿」最終話

田中芳樹作品とか、CLAMP作品ってその私ぐらいの年代のオタだと誰もが通った道でかつ、現在の評価はどうかというところは結構酸っぱいものが混じったりするんじゃないのかなぁ?とかもう内容なんか素通りでぼーっと考えてしまったよ!


「隠の王」最終話

万能の力を否定して、ただ二人で静かに死を迎える。病魔の進行がまるで老いの進行のようでどれだけ老夫婦の余生なんだよとかちょっと笑ってしまった。


「コードギアスR2」最終話

あまりにも綺麗に纏められてしまって感想が逆にわかなくて困る。途中途中で水着や下アングルやパンチラなど色々と視聴者の欲望に応えつつも、最後の最後ではルルーシュを幸せにしてという視聴者の欲望は裏切りきちんと作品を守ったという感じかなぁ。もちろん、満足して死んでいった以上、あれがルルーシュの幸せでむしろそれだけのものを背負わされ残されたスザクのこれからは茨の道なのだろう。


少しだけ未来に向けて妄想を膨らますと、一点に憎しみを集める道はそのときは綺麗に清算できたとしてもいずれまた歪がたまり、ゼロが必要とされることになるだろう。ゼロが最後まで仮面を守り通したことで、またそのときには誰かがゼロの仮面を被ることで英雄となるのか。少なくとも「公」の心など微塵ももちあわせておらず、最後は単なる色ボケぶりをさらしていた黒の騎士団とりわけ扇首相とかが主要プレーヤーを務める限り、案外破局は早いのではないか?


少なくともルルーシュは憎しみを集めるにはわずか2ヶ月しか統治しなかったというのは中途半端と言わざるをえない。少なくとも最後処刑しようとしていた面々は総て処刑すべきであったし、もっと忘れ去られないだけの憎しみが必要だったろう(フレイアを当初のシュナイゼルの目論見のように主要都市にばら撒くとか)とかね。


…しかし、とりあえず最後のルルーシュの安らかな死に顔を見ていたらもう何も言う言葉はないわ。本当に面白かったし、間違いなく今後のアニメヒーロー史に1ページを刻んだことでしょう。


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