小飼 弾の批評精神~裸の王様~ | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。
彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。
王様は大喜びで注文する。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。
王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。
家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。
見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、こう叫ぶ。
「王様は裸だよ!」


以上、有名なウィキペディアより「裸の王様」の寓話 を転載させていただいたが現代においてはこの続きができたらしい。


「王様は裸だよ!」と叫んだ子供に対して、
馬鹿と思われたくないばかりに誉めそやしていたはずの家来や見物人は批判する。
「見えないという批判はつまらない!」
「見えないというなら代わりの服を持って来い!」
「見えると皆が褒めそやかした背景を分析せよ!」

子供が叫ぶまで、裸だと言い出せなかった家来や見物人の言い分は素敵ですね。めでたくない、めでたくない。(了)


Liber Studiorumさま「オマエは語るな!」 に先に言いたいことは言われ尽くされてしまったのですが、


404 Blog Not Found「じゃあオレが語るか - 書評 - おまえが若者を語るな!」
>確かに、著者による各者の各論に対する批判は間違っちゃいない。ジジババどもの若者論ときたら虚言・妄言だらけだ。それらに「間違っている」と言い返すのも、また間違っちゃいない。

>しかし、読者が金を払ってまで読みたいのは、そんなことじゃない。著者の、論なんだよ。本書には、それがない。あったのかも知れないが、本書からは読み取れない。


で書かれていることはまさに上の「続・裸の王様」の逸話の通り。そんな虚言・妄言だらけの若者論について一応書評とやらで名を馳せているらしい小飼 弾とやらは満足な批判批評とやらをひとつでもものしたことはあるの?ということに尽きます。ちなみに小飼 弾とやらの「裸の王様」分析についてもメモしておくと


>世代論に関して、私が重要だと考えている点は、次の二点しかない。
1.世代論が、かつてないほど成立しやすくなっていること
2.若者の数が、年寄りの数よりも少ないこと


1.についてはごめん、世代論は今も昔もありました。同様の分析が見たければバブル全盛期のマーケティング言説でも眺めて見たら?当時の本は献本されていないから知らないというなら、広告批評のバックナンバー取り寄せて読めばいいと思うよ。新しいメディアなどいつの時代も登場しているでしょうに、今現在を特別視したがるのはそれこそウェブ2.0コンプレックスじゃないの?


2.についてはまったく意味がわからない。後藤さんが俎上にのせている論者は大半が一応まだ若手・中年に属するんですが…。


な~んて上から目線垂れていますが、ずらずらと各章とサブタイだけコピペして碌すっぽ中身を読んでいない「通勤特快高尾行き的な書評」 (finalvent様命名拝借) なら仕方ないんでしょうね。


要は批判だけで後藤さんの意見がないというだけの批評ですが、ただただひたすらゴミが積まれていく中でまずそのゴミを一掃するという仕事の希少性が分からないのでしょうか?「裸だよ!」と指摘する人間が今までどこにいたのということです。ゴミを掃除しないといくら重要な見解を出してもゴミの山に埋もれるだけですし、そのゴミの山が伝染病の元凶となっているならその掃除という仕事は新たな見解を出すのと同様に、いや緊喫の課題として重要性は高いと思うのですが。小飼自身の御託と並べて見れば一目瞭然にもほどがあるでしょ。


翻って参考となる書評(*゚∀゚)っ「著者24歳、渾身の一冊~『おまえが若者を語るな!』後藤和智著(評:栗原裕一郎)」 (日経BP 9.30)


第三の審級の一つ覚えの大澤真幸も指摘どおり当然に後藤さんの「俗流若者論」の範囲に収まると思うし、藤原(前)校長に関しては一筋縄で他の人間と並べて斬ることはできないというのも同感です(斎藤貴男氏や川端裕人氏との対談本が参考になります)。あとついでにま~だ性懲りもなくアキバ事件で語る東くん言説を抜粋メモしておこっと。


講談社 現代新書カフェ~031~2008年9月8日『オタク/ヤンキーのゆくえ』第1回(全3回)東 浩紀 × 速水健朗


秋葉原通り魔事件を語ること


 

 じつは僕の発言はだんだんとメタ化しているんです。最初に朝日新聞に原稿を寄せたときは「これはテロだ」ということで、次に産経新聞に寄稿したときには「テロに共感している奴らこそ問題だ」と言って、最後に北海道新聞では「テロに共感している奴らの問題を考えていくと、それは派遣問題より幅広い共感を集めているので、労働問題だけではなくもっと抽象的なことに焦点を当てる必要がある」と書いています。


ヾ(゚∀゚)ノ ハイハイ!メタ化しているという自覚があるなら、どうして加藤という個人の「実存」という一番根っこの部分を語り続ける、語りえるのでしょうね。素朴な疑問です。


「新人類世代がなかなか自分たちの利権を手放さない問題」


 

 じつは、先日初めて上野千鶴子さん(1948~)にお会いする機会がありました。そこでちょっとお話をして、愕然としたことがあったんです。というのは、ご存知のとおり彼女の基本的な哲学というのは、家族でも共同体でも対等で自由な個人が合わさって作るのが理想ということで、それはそれでいいんですが、その文脈で僕がちらりと「最近では若い世代が自由の大きさに耐えかねている、という議論もありますが」と話を振ったんですね。そうしたら、「どこで?」と言うので秋葉原事件への反応などを例に出したら、「そんなのはあなたの印象論でしょ。エビデンスないでしょ」と一蹴されて終わってしまった(笑)


さすがは上野教授!そしてそれを(笑)とか記して流してしまう東くん(笑)大塚さんとの対談本でも同じですが、彼は半径3m界隈のお仲間内の戯れはともかく真面目な議論ってできるの?


 僕はそこに、すごく大きなコミュニケーション・ギャップを感じました。「自由の大きさに耐えかねて変な問題が起こる」という言説は、確かに印象論です。しかし、ブログなどを見ていると、あるいは最近の若手論壇人の関心を追っていると、そんな印象論がある程度大きな共感を呼んでいることも確かです。そして、秋葉原事件の問題も明らかにそのような空気と連続した場所で関心を呼んでいる。


根拠は半径3m界隈 に総てある!印象論しかも、印象の根拠は半径3m界隈の癖にそれも説明することなく、コミュニケーションギャップがあるって感じてしまうってそんな東くん自身の実存問題こそメタ的にみてとれてしまうのですが。


 しかし、上野さんはその感覚を共有していない。だから秋葉原事件について話をしても、最初からボタンが掛け違う。たとえば彼女は、加藤智大を永山則夫(1949~97、連続射殺事件を起こしたのは1968年)に較べていたけれど、僕にはそれは違和感が残る。そして、その違いについて、彼女にそれを理解させるのは無理ではないかもしれないけれども、それはもう僕の仕事ではないなあ、と思いました。


同じような経済的環境に問題がある人間の無差別殺人事件として、まあそんなこともあるよねと理解するほうが私には遥かに理解できますね。体感治安で外国人犯罪とか語ってしまう東くんですから犯罪史に疎くてそういう発想がわかないだけかもしれません、そして東くんの無知ぶりについて補うのは私の仕事でもないですがメモします。


 秋葉原事件についての話しづらさは、そこらへんに原因があるような気がします。加藤智大が単純に派遣労働の犠牲者だったならば、むしろ問題はわかりやすい。でも実際には違うのです。おそらく彼は、彼の具体的な人生や状況で現れた「現実的な苦しみ」というより、「いろいろな可能性がつぶされてしまった苦しみ」のほうに敏感に反応している。そしてそういう抽象的な苦しみに、また多くのひとが共感している。そうした感覚はほんとうは普遍的なものなはずですが、実際にはある世代にはすっと通じ、別の世代にはまったく通じないというギャップがある。


普遍的なのか世代的な問題なのかはっきりしてくれよwwwとりあえず、普遍的な問題だとすれば、なんでもっとこの手の犯罪が多発しないの?そう考えると不安の原因を考えるより安全の原因を考えることに繋がると思うのだけれどね。


 

 そのとおりですね。最近のオタクは、以前と異なり、コミュニケーション志向型に変わってきている。その観点からすれば、加藤はコミュニケーション志向のオタクの輪に入れず孤立化したからこそああした犯罪を犯したのであって、だからオタクじゃないということになる。他方で、もっと古いオタクの定義を用いても、現実なんか無視して二次元の世界で閉じこもれればああした犯罪は犯さなかったのだという意見があって、そちらでも加藤はオタクじゃなかったということになっている。まあいずれにせよ、加藤はオタクの典型的なイメージからはずれるでしょう。


コミュニーケーション志向型とか語るくせに、自身はコミュニケーション能力低いですね。いや、最初から諦念があり、意欲が乏しいだけだと言うのかもしれませんが(「リアルのゆくえ」のように)。

 僕自身はむしろ、この事件に関しては、速水さんが『ケータイ小説的。』でも取り上げた「ファスト風土」や「郊外」の観点から考えた方が、有意義なんじゃないかと感じているんです。たとえば加藤容疑者が都心に住み、ネットカフェとかで憂さを晴らしていたら同じような事件を起こしたのか


つまり、犯罪を起こそうという気力もなくなるほどに徹底的に消耗させればいいということですね、、、ってそんなわけあるかよ!東くんって自分の言っていること「メタ」に評価できているの?経済的問題なの?心の問題なのどちらなの?経済的問題→心の問題というのが少なくとも三浦展の議論の組み立て(これも理解したくないけれど)なんですが。


【おまけ】

『オタク/ヤンキーのゆくえ』第2回(全3回)東 浩紀 × 速水健朗

 最近現れてきた新世代の論客、それは鈴木謙介さん(1976?)でも宇野常寛さん(1978?)でもいいし、またそのまわりのブロガーたちでもいいけれども、彼らは一般に、論壇での自分の立ち位置を考えるあまり、大衆的な現象に対峙してそのまま言葉を発するというより、それがどう語られているかについての分析、つまり一種のメタ批評に近づいていく傾向があると思うんです。


第一回のやりとりをみれば全部お前が言うなという内容となっています。


 ヤンキー的感性とオタク的感性は、いまでこそ対極なように語られていますが、そんな簡単なものでもないですよね。僕の高校時代、おニャン子クラブの私設ファンクラブに入っている友人がいましたが、思い起こすに彼などはむしろヤンキー的だった。1995年以降、オタクの共同体がどんどんネットを舞台に純化していくなかで、ヤンキー的な感性が忘れ去られていったということのような気もします。


 

 僕は『ケータイ小説的。』はいろいろな読み方ができる本だと思います。たとえばそのひとつが、宮台真司(1959~)、大塚英志(1958?)的な少女論のアップデート版という読み方です。そもそも、日本でなぜサブカルチャーのトライブ(部族)に関する議論が盛んかというと、それがライフスタイルと関係していて、そしてライフスタイルというのは最終的に政治的な立場と関係しているからだと思うんです。たとえば、『ケータイ小説的。』ではヤンキーは基本的に保守的だという議論がある。それに対して、宮台さんや大塚さんが見出した都会的なあるいは岡崎京子的な援交少女は、守旧的な家族観や結婚観から逸脱していたという意味で、どちらかといえばリベラルな存在だったんですね。だからこそ彼らは少女たちを応援した。


 だとすれば、それがいま「再ヤンキー化」しているというのは、とてもおもしろい現象ではないか。地方の保守的なヤンキーが都市のリベラルなコギャルになり、それがまたふたたび地方化しヤンキー化している。これは、90年代からゼロ年代にいたる日本社会の変化の一側面を、正確に切り取っていると思います。


この辺り、私は別段「ヤンキー文化」については詳しくないので解説お願いします(笑)


恒例の1年前日記を最後に忘れていたので付け加えておくと、2007-09-30 は好景気なのに一人頭の所得が減っているという不思議な話(先日今年ようやく増えたとメモしました)あとは東芝の残酷物語(これから不景気でリストラが再開されればより悲惨な後日談がつくのでしょうね)。