人はすべからく不自由なものだ、例え自由意志に基づく行動と自分では認識したとしてもそれは別の見方からすれば錯覚に過ぎない。
例えば、人は生まれることを選択できないし、そして必ず死ぬものだ。始まりと終わりにおいて、一方は純粋に他者の意思によるもので、自身の意思を介在させる余地は微塵もないし、他方は如何に避けようと足掻いたとしても必ず訪れるものだ。
また最近の進化生物学・行動遺伝学等の一連の研究から明らかになりつつあることは、容姿のみならず性格・趣味に至るまで遺伝子の及ぼす影響は無視できないということ(正確には分散の半分程度を説明するということで、遺伝子決定論とは違う。遺伝子によって人の本性がどのように発現するかという点でその程度・幅を制限するということ→ざっくりいうと、人の可能性は無限大ではなく、ある程度初めからその可能性は定められており、その可能性の中で生きるという遺伝子確率論ともいうべき)。能力が生得的なものだとすると、「努力すれば報われる」というような言葉も空しい、そもそも努力する能力だってある程度生得的なものだから。
しかし、この空しさというものはそのまま無意味を意味するものではない。有意味性というものは純粋に個人の価値観によるもので他者が介在するものではないから(他者の定める価値というものは究極的には人類も地球も総てが無に帰するという事実の前に無意味に還元可能)、人は己の快楽を最大限に享受すべく、試行錯誤、模索しながら生きていく。
(メモ)現在の私の場合は総てが中途半端だ、おそらく客観的に評価すれば単なるあたら可能性を無駄にしている。その根本原因は展望が利きすぎること、努力ができないことかな?未来に対する展望と自分の能力を天秤にかけ努力せずとも可能な範囲で最良と思われる選択を繰り返しているうちに…ね、得意技が心理学用語で言うところのセルフハンディキャッピングである私には環境設定として努力せざるを得ないように追い込むことが肝要。