アウフヘーヴェン | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

「個人的態度としての合理性は、信念を訂正する準備ができている態度のことです。これが知的に最高度に発達したかたちでは合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていることです。」
              カール・R・ポパー「モデル・道具・真理」

まずは、議論の場が設定できるか、否か。次に成立したとして、わざと議論を混ぜ返したり、開き直ったり、何を聞かれても同じ言葉を繰返したり…することなく、議論の成果があげられのか、否かまさにアウフヘーヴェンが机上の空論ではなくて起こりうる必要条件というものを考える(十分条件ではない)。


まずはNHKに言いたい を鑑賞しながらつらつら考えたこと。

>NHKは、一連の不祥事について、視聴者・国民の皆さまから「説明責任を果たしていない」という厳しいご意見をいただいています。こうした声にお答えすると共に、公共放送NHKのあるべき姿を議論していただき、信頼回復へ向けた一歩としていく特集番組を以下のとおり放送いたします。
放送:今夜9時00分~ 総合テレビ
 この番組では、視聴者の皆さまのNHKに対する様々なご意見を紹介し、それに会長の海老沢勝二がお答えすると共に、有識者の方々による討論会を行います。信頼回復に向けてNHKにいま求められていることや、公共放送に問われているもの、また受信料制度などについて、生放送の中で視聴者の皆さまからお受けした声をふまえて活発な議論を交わしていただきます。


…だそうですが実態は、皆様もご覧の通りでーす。この事例の場合、既に問題は会長が辞任するか否かに問題が集約されている。再発防止手段とか、謝罪の言葉をいくら連ねても信頼回復には決してつながりません。むしろこのような議論の場を設けたこと自体がこれで禊ぎ、幕引きのためのアリバイ作りとしか受け取れません。つまり再発防止手段という議論を成立させるためには、大前提として会長辞任を冒頭で発表し、その上でではどうするかというようにしなくては総ての問題が会長が辞任するか、否かに戻ってしまうので無意味です。これはそもそも議論が成立しない典型例といえます。
この上は今年の紅白歌合戦の目玉企画として、会長辞任発表(剃髪できないし土下座でもしておきますか)をと願っています。


次に現在話題沸騰中の切込隊長-木村剛のブログバトル (時系列データとしてこちらのまにあな日記さまサイト参考)を考えてみるとこれは非常に興味深い。
まずなぜ有意義な議論が成立しないのかを考えてみる。それは議論である以上、一人では出来ないので、

①議論参加者の知的能力(お互いのヒアリング能力、理解能力)に難がある場合;この場合、ダニとノミの間に議論の成立させる手段がない以上どうしようもありません。議論を諦めてサイコロでも振りましょう。

②議論参加者の性格に難がある場合(つまりお互いに相手の意見を理解したうえで議論をわざと噛み合わせない故意犯);この場合が冒頭であげたポパーのいう合理性を欠く場合です。どうしてこのようなことになってしまうのか、それは流行しているディベートを考えると分かりやすいと思う。つまり議論の成果をあげるということが、お互いの知を高めるということよりも、相手に勝つ負けるということにつながっている。もちろんそれはディベートの技術(ソフィストですね)を持つ人を、自身の過ちを素直に認める愛知な人よりも知的に優れているかのごとく持て囃すマスコミにも問題がある(上祐-(超えられない壁)-上野千鶴子、宮台真司…←この方々ももちろん立派な方々ですよ)。

「我々の喧嘩は始めは理由が相手であるがやがては人が相手である、我々が論争を学ぶのはただ反対したいためである。そして各々が反対したり反対されたりしているから、結局論争の結果は真理を失い滅すことになってしまう。」
                       モンテーニュ「エセー」

では、どうすれば有意義な議論を成り立たせられるかということになる。
「議論について議論してみる?」(世界開放系さま) でまとめている技術論を参考にすると分かりやすいが、大きく分けると2つである。
①議論参加者が「みんな」愛知(=哲学者の本義ですね)であること。
②議論を有意義なものに導くことが「できる」第三者(特に司会者)がいること。

特に②の第三者の存在は有効だ。上述の切込隊長はまさにこのことを強く意識しておられる。つまり木村剛氏を直接にターゲットとするというよりは、彼が既存マスコミに対抗するものとして持ち上げようとしていたブログを運用する人々に直接訴えかけている。それも神学論に堕しないように高度のエンターテインメントとして、また風化しないように小出しにうまく場を設定している。現時点でその議論内容(具体性、説得力)も含めどちらに利があるかは一目瞭然だ。

そもそも純粋に当事者の議論だけで問題を解決しようという方が夢想に過ぎないのかもしれない。平等な横のみの人間関係として議論を想定しがちかもしれないが、むしろ縦の関係や脇の関係性をシステム的にどのように繰み込むかという、「議論についての議論を議論の前にメンバーで共有できるか否かが議論の成否を分けるという話ですね(論理パズルみたいな悪文ですね)。」←コメントの再利用