「誰も幻想の外に立つことはできない。物語批判は物語の否定ではない。人間は物語の外部に立つことはないからである。どのような物語を生きるかということだけを私たちは選ぶ。(中略)世界がメルヘン的なのだ。」
見田宗介「白いお城と花咲く野原」
切込隊長がニートに関して興味深いやりとりを始められた(ニートに関する考察メモ
、ニートに関して
)のでそれに併せて、ちょっと違う視点から試考。
>結論を言えば、無業者は下手をすると40代就業男性の娯楽に対する支出平均の140%ぐらいのお金をどうでもいいことに使っている。しかも、ここ三年ぐらいで徐々に下がっている。秋葉原やコミケの総売上が伸び悩み始めた時期とほぼ同じなのかも知れん。カラオケやボウリングなど複合娯楽施設の売上も下がっていることも考えると、娯楽における多人数性要求が減少したのかなとも思う。このあたりはよく分からん。
>「生きる気力が乏しい」とか「人生に希望を失い」とか「自分はとても価値の低い人間なので」とか。よく、就職相談とかで「自分がやりたいことが見つかりません」という話をされるのと何となくダブる。個人的には、希望格差という、ある種の「したいこと」と「できること」の落差、つまり「したいこと」は明確にイメージできるが「できること」のレベルはいきなり上がらない、だから仕事をしながらその成長の経過のなかで喜びを感じ自分の成功体験という形で社会化していくというプロセスを踏むのが通常で、しかし「できること」の成長の経緯までに「選ばれない」「認めてもらえない」というハードルを超えられない大多数の人の何割かが引きこもるのだと思っていた。
が、どうも一連のTBや貰う相談メールではたいてい「したいこと」が明確でない、さらに「できない自分」が曖昧な目標に向かって歩き出すことも放棄しているという現象にぶち当たる。どうなのだろう。何が問題になっているのかさえ分からない。希望格差というよりは、機会格差というほうが正しいのだろうか?
以前のこの記事
で少し触れかけたが、基本的には刹那的、享楽的態度であるとされている「若者」が一体どこから来るのかということだ。
「原因ばかりが追及され、告白ばかりが繰り返される。ある意味、彼女たちの両親との会話にも似ている。責任の追及ばかりが行われ、関心は未来へと向かわず過ぎ去った過去へと向いている。未来への関心とはすなわち情報を獲得すること
(中略)
抱えている苦しさを語り合うことで悩みを解決しようとする。しかし、他人のアドバイスに耳を貸してはいない。会話はいつも表面的である、結論として出てくるのは、いつだって「がんばろうね」という意味なき科白なのだ。(中略)
話を聞いてくれる相手だけを求め、痛みを共有することを愛情と誤解し、人生にとってどうでもいいことに夢中になっていく。互いに語り合うだけの一日が暮れていき、彼女たちは毎日を無駄に過ごすようになり気付いたときには貴重な若さをすっかり失くしてしまう。要求水準ばかりが異常に高くなり、満たしてくれない相手を口を極めてなじるようになる
(中略)
自分たちが救われないとき、相手は夢を叶える一種の義務付けがなされている。彼女たちの理想の相手はつまりは現代の「王子様」なのだ。
金原克範「子のつく名前の女の子は頭がいい」
で、引用させていただいた部分をこの場合、彼女たち=ニート、王子様=隊長と置き換えればすっきりする。ただ、それで?といわれてしまえば話はそれまでなのでもう少し話を広げる。
ギリシア市民やローマ市民の例を引いても分かるように哲学とか芸術とか演舞のような直接の生死に無関係の余剰なことを考えたり、遊べたりするのは、生産性の高い社会を築き餓死の恐れがなくなるほどに豊かになったからだ(遺伝的に芸術というものも人間の本能の一部であることは認めるが)。
だからニートもそれを許してくれる両親という基盤がなくなれば絶滅することは必至の一過的な徒花に過ぎないことは確かだ(ニートはニートを再生産する財政的生活基盤を有していない)。また日本自体が貧しくなれば、働かざるもの食えずという状況になれば、小難しいことをぐちぐちすることなく条件反射として働こうとし始めるだろう(その時になって働き口があるかどうかは別問題だけど)。
ただそのような社会経済的な問題を別とすれば、刹那的・享楽的というキリギリスの生き方にも、現代社会においてリストラに代表されるようにアリが馬鹿を見る可能性がそこそこ高いということをふまえれば一部合理的(人生とは幸福を最大限追求することとすれば)な面もある。楽しめる間に楽しまなければ、いつ楽しめるかなどという保障は得られない。非常にさもしい選択だけれどね(より悲惨なヨリは許容できる悲惨程度)。
そしておそらく、最も重要な問題は未来を信じられないこと(今日より明日は世界はもっと素晴らしい世界になっている)が、個人の時間の射程(過去-現在-未来)を短くしていることにあると考えている。過度の未来「信仰」と同様に過度の現在重視の信条もあんまり幸福をもたらさない。