スマトラ地震
プーケット、スリランカ、モルディブ、ペナンとこれで東南アジアの著名なリゾート地は尽く壊滅しました(バリはテロ起きているし)。わざわざ生命の危険を冒してまでリゾートでバカンスしようなんて思いません。文字通りの「命の洗濯」になってしまいますからね。この後、災害からの復興及びイメージ回復はきついでしょう(特にスリランカは元々軽い内乱状態続いていますしね)。
このような自然災害を見聞きするたびに、死者に対する哀悼は無論のこととして思い浮かべることがあります。それは「自然に従って生きたい」「自然体でいたい」などのお約束のコメントの無効…
「君たちは自然に従って生きようと欲するのか?それにしても何という言葉の嘆きであることか!自然といわれるものの何たるかを考えてみるが良い。それはきりもなく浪費するもの、甚だもって無頓着なもの、意図もなければ顧慮もないもの、慈悲もなければ正義もないもの、豊饒かつまた荒涼として、しかも同時に不定のものである。その無関心そのものが権力であることを考えてみるがいい-君たちはこうした無関心に従って生きることなぞどうしてできようぞ?」
ニーチェ「善悪の彼岸」
今年の一文字が「災」であったように、天災はいつ自身に降りかかるか分からないという点で他人事では済まない身近なものとして想像力が及びます(東海大地震、富士山の噴火もろもろ)。ただだからといって日々脅えて生活し続けることは出来ません。1999年に世界が滅ぶといわれた「ノストラダムスの大予言」を真に受けた人々の滑稽さは今や完全にギャグとなっています。「天災は忘れたころにやってくる」のは、天災への恐怖は、多忙な日常生活の中で徐々に忘却されていくからです。
天災というのは人間にとって不条理極まりない存在です。それは個人の善悪は一切顧慮せず、それまでの全生涯をかけて築き上げてきたものを一瞬にして瓦解させます。ただそれは一方で桃鉄でいうところの「タイラノマサカード」としての力も有します。
「大災害は既存の秩序を一瞬で崩壊させ、社会を白紙の状態へいったん還元する。物持ちの資産は失われ、高い地位はサバイバルの緊迫性のまえで無効となり、階級差は均等化される。生き残り、救出し合い、再建へ向けて協働する必要から社会的対立や抗争は緩和消滅し、寛容と非日常的友愛が生まれる。」
浅羽通明「アナーキズム」
災害に対する日々の備えはもちろん大切でしょう。そのための災害に対する不安・恐怖を一定サイクルで思い起こすことも必要でしょう。そして災害はは恐怖をもたらすばかりではないかもしれません。この物余り・飽食…という過剰都市に住まう者にとって本当に大切なものとは何かということを内省させる機会をも与えてくれるかもしれません。