批評の射程について | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

内田教授【「原因」という物語】 が一事件から始まり、やがて「他罰的な語法で語られる原因究明の言説批評」という哲学の領域にまで拡張していくその射程の長さに敬服(下線部は特に私の引き出しに入れたいと思った部分ですがぜひとも全文をお読みください)。

>批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。こんなことを何度も繰り返し書かなければならないのは「面倒くさい」を通り越して、もはや「恥ずかしい」に近いのだが、このことが「世間の常識」に登録されるまで、私は執拗に同じことを言い続けるつもりである。

>もう一度繰り返す。
批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。

報道・情報番組におけるキャスターや知識人と称されるこめんてーたー達が垂れ流す言説は決して批評ではない。それは誰の心の襞にも引っかかることなく(もちろん口に出している当人も)その場その場で雲散霧消していく類のノイズに過ぎない。個別事件に対する個別の言説に見えて決してそうではない。訃報、殺人事件、事故などカテゴリーごとに使いまわされる汎用的な毒にも薬にもならない死んだ言葉であったり、一時的感情の吐露に過ぎないことが大半です(一時的な感情などその事件だけでなく当人が日ごろ抱えている鬱屈の延長線にあることが多い)。

>『マスメディアの「整理」の容量がこれだけ無尽蔵なのはその足し算的「スタイル」のおかげである。思想的検討ゼロの地帯に陣取るから何でも言います、お見せします、それも何もかもひっくるめてご覧に入れます。持ち合わせる唯一の知の要素が「と」。この「と」のおかげで文字通り一切合財が善隣のよしみを結ぶ。』

>『一切を包み込む代わりに何も把握しない、何かにつけて云々しながら何一つ語らない。メディアの厨房は来る日も来る日も無数に多くの味付けで現実のごった煮を食卓に供するがなぜか毎日同じ味なのだ。』

                             ムージル

しかし、メディアにとっては報道を担うという第四の権力である使命と同時に、広告収入をあげるための視聴率獲得という現実、資本の論理がある。そして視聴率を獲得するには批評などという小難しいことをやるよりもその感情の吹き上がりをしたほうが反応がいい、つまり国民の需要に応えているに過ぎないという意見もある(報道規制に絡む討論で必ず持ち出される言説です)。もちろん両者のバランスをとっているという奇麗ごともあるけれど、現状の報道、情報番組のどの辺りがその使命を担っているのだろう?事実報道という点では確かに担っているかもしれないけれど、「報道の自由」とともに保障されている「編集の自由」とは単に事実報道ではなくて、より高度の何かに昇華させてもって国民に資することだと思うんですけれどね。

>『世論などと呼ばれているものはほとんどが大衆の感傷である。』

                            ディズレイリ

>『大衆は火酒を好み、インテリはワインを好む。大衆は強くて酔わせてくれるもの一辺倒だ。だから単純明快なスローガンを与えればいいのだ。』

                        ヨーゼフ・ゲッベルス

ただ、このような言説は大衆蔑視まで紙一重といえる。今日の情勢に至ったのは真面目な報道、情報番組が端的に国民に受け入れられなかったからにすぎない。そしてこのようなことは日本特有のことではない、大衆社会(情報が知識層の独占から通信手段の発達に伴い大衆化)の宿命ともいえる。結局のところいまさら啓蒙を気取るのもおこがましい単なる愚痴にすぎないのかも…。

>『原因を知ることは物事を動かす立場にある人にだけ属するもので、物事を受け取るしかない我々に属するものではない。我々はそれでいて物事の起源、本質にまで立ち入らなくても自分達の本性に従って十分完全にそれを使いこなしているのだ。酒もその根本の効能を知っている人に一層よく感じられたりはしない。』

                       モンテーニュ「エセー」

ただそれでも社会の木鐸たるべくだれかが警鐘を鳴らし続けることは決して無駄ではないと信じています。たとえ少数であっても響けばその人もまた確固たる自己をもって木鐸を鳴らす日が訪れるかもしれない。そしてその無数の反響の中でやがてその響きたるや轟々たるものにならないとも限らないと希望をもつことは美しくないとはいえないと思っているから…。