風の辿りつく場所 | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

R30さま「過去のことは忘れなければならない、あるいはknowledgeの生まれる場所」 に触発されて

>『先にあったことはまた後にもある。先になされたことはまた後にもなされる。日の下に新しいものはない。』

                        旧約聖書「伝道の書」

【オタクの歴史認識】ということに関連してこのエセー を書いたけれど、R30氏の独り言も恐らく杞憂に終わるかなと思う。

例えば2chを見ればよく分かるけれど「過去スレ見れ」とか「1の注意嫁」とかそれこそ腐るほど見受けられる(つまり読まない人が多い)。そして同じ議論が何度も何度も飽きることなく繰り返されている…。しかし膨大に蓄積されるその圧倒的な量の前にはあまり意味がない。また話は違うけれど他にもインターネット普及に伴い本が読まれなくなるという懸念もあったけれど、結果はネットで検索できるからなどの理由とは関係なく単に読まれなくなっただけということもある。

ただ、この記事の本質はそんな浅薄なところは問題としていない。それは知識の生まれるところではなくて、知恵が生まれるところとしていることに現れている。単純に知の蓄積が新たな知を生むというような知の発展を否定するものではないし、私が何度か引用した浅田氏の言説でもある知のストックがなければ新たな知のフローを築くことはできないということも既に包摂している。

いろいろな投げかけが交錯しているので整理すると、思考の手間を省くことを可能とする(思わせる)現在のネット上の蓄積はそのアクセスにかかるコストの低さが禍根となりかねないということと、多様な情報をきちんと科学的、論理的に査定するシステムの構築と、組織の分化、統合論。

2番目の提起はおそらく市場ブログの論理が淘汰してくれるような気がする。どれだけの量に押し流されようとも、質の高い議論は届くべきところには届くと。「悪貨が良貨を駆逐する」としても既に書籍という前例があるのでね。

3番目の提起はそれは経営学の問題でそれこそ「失敗の本質」 でも読んどけば~と思う。

ただ、知恵を育む機会をどのように防ぐかは難しい。なまじ知恵があればネットの利便性を使わない手はないし、知恵なかりせばそもそも思索しようとは思わない…。でも知識を得たいということとは別に議論をしたいという欲望もまたあると思う。議論のための議論はおそらくなくならないのではないかな?

おそらくいくらぐぐったとしても時が経てばたつほどその膨大な蓄積量(それも明らかに質の伴わないもの)の前に人はただ呆然と佇むことしかできないのでは?おそらく最初のひとつ、ふたつ見て諦めてお茶でもすするんじゃない?

…それもまた検索エンジンの進歩の前の幻想で。アマゾンみたいにその人の嗜好にあわせて検索してくれる時代は間近ということもね。

>『学問の場合、自分の仕事がやがて時代遅れになるということは誰もが知っている。』

                   ヴェーバー「職業としての学問」

「風の辿り着く場所」 を聴きながらー。