大衆社会という奔流について | あざみの効用

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内田教授の「階層化=大衆社会の到来」 をまずはお読みください。

このブログでもたびたび照覧させて頂いている刈谷教授の「インセンティブディバイド」に関する分析が出てきた水脈は、もともと社会学での日本が階層化社会なのか、否かという議論の中でした。やがて今の日本が二極化に向かっているか否かという問題について、もともと日本は階級社会(分かりやすく言うと世代交代による階層間の移動が少ない)であり、総中流社会であるという意識を広く共有していたことに意義があったという見解に至る。

そして親の子どもに対する影響とは経済事情のみならず、そもそもの動機付けにも影響を及ぼしているというのが苅谷教授の分析です。ちなみに本来の調査目的は教育改革にともなう影響がどのような影響を及ぼしているかということです。ゆとり教育の結果として余った時間を子どもたちはどのように過ごしているか、その時間は単にテレビ視聴などに使われ勉強には使われない。それどころか自宅での勉強時間は恐ろしい勢いで減少しているのですが、子どもによってその勉強時間の減少に著しい差が生じており、その背景を辿ると親の教育水準(家庭の経済水準)に行き着いたということです。その詳細については直接階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ にあたってください。

しかし、内田教授の視点はさらにその先へと進んでいます。つまり経済のみならず学力までもが二分化、固定化した社会というのはどうなるかということです。今、普通に使われる勝ち組、負け組とは本来企業のことであり、その実態は極少数の勝ち組と圧倒的多数の負け組を生みます。同じことを学力でもいうならば極少数のエリートと圧倒的多数のその(上手い適当な言葉が思いつきません)から成り立つ社会がオルテガの言う最低の「大衆社会」を招くという危惧です。

でも一体どのような対策を講じればいいの?いい学校を出ればいい会社に入れて一生の生活を保証できるという幻想も崩れているのに、昔のように学校に縛り付けられる?山田昌弘教授の解決策は言うに及ばず限りなく期待薄です。はっきりいってこの流れをとどめることは無理でしょう(それは誰も自分を負け組であると認めたがらないこともある)。私は貨幣≒時間という見解を掲げていますので、アダム・スミス「国富論」を一つ弄ってみます。

>『個人が時間をどのように使用すべきかを指導しようとする政治家は単に最も不必要な世話の重荷を自ら負うばかりではなく、一つの権力を前提としているのであり、このような権力はどのような評議員会や議会にも安んじて委ねられるものではなく、またかかることの実行に最適任と自負するような愚劣にして傲慢な人にそれが与えられるほど危険ことはおよそないのである。』

それにね、オルテガが到来を予想し憂いた大衆社会は既に到来していて充分に定着しているよ。ポリビオスの循環史観(政体が君主政⇒暴君政⇒貴族政⇒寡頭政⇒民主政⇒衆愚政⇒君主政と循環するというもの)は不成立です。きっといつの時代も来るべき社会を適当に憂う人はあれど、ハルマゲドン(笑)でも起きない限り、今の政体はだらだらと続いていくというのが関の山だと思う。ほらアメリカ合衆国みたいなその経済・教育格差の激しい社会でも民主主義を曲がりなりにも維持しているじゃない。


また違う視点からの過去の記事
http://newmoon1.bblog.jp/entry/117367/
http://newmoon1.bblog.jp/entry/106657/