「あえて」中庸のすすめ | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

私は集団が盲目的に行動している姿というのが生理的に嫌いです。それは端的に言えば集団に一体化することで思考停止し、更には数の論理でもって集団の非理性的な論理を個人に押し付けてくるということが往々にしてあるから。活字うろうろさま『中国抗議デモをめぐるあれこれ』 を読んでいて最近漫然と思っていたことを。

>『何よりも大切なことは羊の群れのように先を行く群れの後に付いて行く様な真似はしないことである。そんなことでは進むべき道を進んで行くことにはならず、単に誰もが進んで行く道を歩むに過ぎない。』

                    セネカ「人生の短さについて」

うろうろさまの誤解を招くことの無いように張り巡らされた冒頭の防衛線を越えた先に見えてくるものは自省なき集団活動に対する警句です(そしてその言説の届く範囲の限界をも自覚している辺りその絶望は深い)。

>ノンポリの一利用者としては、勝手に主体を拡大化しないでくれよと強く思う。しかしながら、ここで「2ちゃんねるが」または「2ちゃんねらーが」を主語に据える観念は興味深い。

>匿名性の陰に隠れた意図的な扇動者の存在よりも、その無邪気なシンパシーの方が自分にはこわい。

中国の愛国を錦の御旗とした実質反政府暴動や、韓国の政権支持浮揚のために野党の粗探しに端を発した仮想敵国のぶち上げまで幼稚だとある意味分かりやすい。そしてそのカッコ悪さから成熟国家たる日本にまで波及することはないだろうと思う(信じたい)。たとえば2chでも一定の板を除けば、嫌韓・嫌中感情は通奏低音としてはあったとしても表立ってそのことを書き込むのは嫌われる。あえて堅くいうならば憲法第14条にいうところの法の下の平等という建前を守ることが近代人としての矜持だからだ。ただその愛国を前面に押し出すことをカッコ悪いとする空気が拉致被害者問題が一つの契機となって変ってしまった。

それこそ宗教における原理主義と同じで、聖典=無謬でそれに従うことが善(それに反すること悪)という単純な構図と同じで、その振る舞いが国益を損なうこともあるという可能性に思い至るよりも、愛国心の表出=善が全面的に肯定されてしまう構図です。

>『頑固さとは理性の欠如のことではない。それは己よりも優れた見解に対してそれを受け容れようとしない態度のことである。
(中略)
けだしこの我慾は自分の精神の活動でもって自己を制し、他人を統御せんことに無上の喜びを覚えるものだからである。』

                     クラウゼヴィッツ「戦争論」

今となっては見る影もありませんが1980年半ばからバブル全盛に至る一時、ポストモダンなる思想が流行した時代がありました(当時私は小学生です)。広告代理店主導の下、単に過剰消費を後押しする一過的な思考遊戯として終息してしまいましたが、教養を蓄積した上で総てを相対化すること(その行き過ぎが遊戯としてなんら生産的なものを産み出せず首を締めることともなったのですが)をクールと評価し、現実と戯れながら理知的にやりすごす勧めは今だからこそ再度評価する必要があるのではないかと思う。

結果的に知的振る舞い全体が失効してしまった後に残るものについての考察は↓です。
bewaadさま『反知性主義についてのいい加減な考察』

考えることは確かにしんどいと思う人は多いかもしれない。考えるためには材料としての知識が必須だし、考えることを考えるというメタ的視点も必要となってくる。ただその結果得られる喜びは得難いものがある…と持ち上げても空しいだけか_| ̄|○ それこそ自分自身理想と現実の落差を踏まえる必要があると再三書いているしね。大衆、民衆の知的レベルについて啓蒙的活動に過剰に期待するのも、愚民として突き放す見方もともに極端で、空気の支配下にないかぎり妥当なところに落ち着いているんです。

>『自由主義とはこのうえない寛容さなのである。それは多数者が少数者与える権利であり、したがってかつて地球上できかれた最も気高い叫びである。自由主義は敵と共存する決意を、しかも弱い敵とさえ共存する決意を表明しているのだ。人類がかくも美しくかくも逆説的であり、かくも優雅で(中略)かくも自然に反することに到達したのは信じ難いことである。』

                       オルテガ「大衆の反逆」