>『輝くもの、過去の時間に対する追体験願望でもそれを否定したいのではない(すべてを否定するにはあの光さす庭は美しすぎる)でもただ飾りたいのもでもない(感傷に支配されているだけではその美しさを感じる心すら維持できない)。』
榎戸洋司
美しい思い出もまた記憶である以上、それは編集、改変は免れ得ないどころか該当するような事実が真実あったかどうかさえ疑わしいという認知科学の知見を避けることはできない。
そんなことは重々承知していたつもりだったけれども、それでも自分の大切な思い出は光さす庭となっていた。光さす庭が荒れ果てたあばら家に過ぎなかったことが明らかになったとき、それを一体どう受け止めたらいいのだろう?
光さす庭から腐った一部を切り離して全体を守り通すことは出来ない。影がたとえ一部でもあったことを認めればそれは光さす庭ではなくて、ただの平凡な庭に堕してしまう。もはやどこにもありえない美のイデアを分割することなど誰にできようか?
現在進行形で光さす庭が犯されているということを知ったとき、10年以上も光さす庭の真の姿を見せまいと自分たちから必死に覆い隠そうしていたということを知ったとき、突然降ってきた隕石をどのようにして受け止めたらいいのだろう?
独りで戦い続けてきたけれど、結局どうにもならなくなって不安・絶望に胸が締め付けられ…救急車で運ばれて…ことここに至っても初めは隣の立替工事がストレスになったなんて作り話で誤魔化そうとして…愚かといえば確かに愚かとしか言いようがない。でもそれでも…今までの遣り取りを一つ一つ思い返したとき湧き上がる感情はただただ悲しいだけ。
守りたかったものが個人的な矜持であったかどうかは大した問題ではない。私にとって光さす庭が光さす庭として在り続けた裏で払われていた対価に思いを致すとき、そうまでして維持し続けるだけの価値があったのかという根本的な疑問と、守ることを選択した決意・守り続けた過程こそが輝きの正体ではなかったかという疑問がとめどなく交錯する。
光さす庭の真の価値はそれを喪失しないと人は知ることができない。それは健康の有り難味は失ってはじめてその価値を知ることができるのと同じ。一度失ってしまったものは完全に取り戻すことは二度とできない。そのことすら分からず(否、認めようとしないだけか)、更には取り戻した上で永遠のものせんことを求める。不可能の上に不可能を重ねて願う想いって一体どこに行き着くの?
光さす庭が美しければ美しすぎるほど、現在の身上が悲惨に思えることもあるかもしれないし、その美しさを糧に生きていくこともできるかもしれない。今ではリアルワールドの上に光さす庭を構築することは諦念している(つもりだったのに構築していたのだけれど)。ただラピュタの『土に根をおろし、風と共に生きよう 種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう』如く一切地に根ざさない空中庭園(帝国)の脆弱さは覚悟を固めておく必要があります。
いずれにせよ、長生きはリスクという保険の標語のような文句が空々しく響き続けている(夢の中でもうなされ続けるほどに)。
>『どんなつまらない雑草でも花でも懐かしい日記の一片となり得るのである。それは幸福な瞬間の思い出を呼び返すものは一つとして無意義ではあり得ないからである。』
ゲーテ「詩と真実」