>『異常犯罪は時代を映す鏡だと論評するのはかまわないが、実証的な因果関係を読み解くことができなければただ不安を煽るだけだ。突然変異のような事例から社会が無理やり何かを学び取って何らかの対策に普遍化しようとしてもコストに見合う効果は得られそうにない。心のありよう、健全な精神の育み方に今も昔もさほどの変わりはなさそうだし、周りがしてあげられることの限界もまた然りである。』
林幸司「ドキュメント精神鑑定」
今月の月刊誌もやっぱりどれも退屈。というか米澤嘉博氏のきちんとした追悼特集記事を組んでいたのが「創 12月号」だけ(いつも「創」べた褒めですけれど、こういうところも本当に好きなんで)。この歴史に残る出来事についての正当な評価が出来ないマスコミの見る目のなさに絶句、オタクに関するような特集ページを組みながら大月Pやら鈴木Pのつまらないインタビューにむしろ割いてしまう某誌とか大丈夫?そして読売の哀悼記事を改めて評価していたという点で、唐沢俊一、岡田斗司夫両氏を改めて見直しました。世界にはない場を作り維持発展させえたという点で、日本の文化史に燦然と残る後世でこそ正当な評価をされることになるのでしょう。日本ではパトロン的文化擁護者がいない以上、いかに「場」を用意しえるかということをもっと評価すべき(ひろゆき氏もね)。
【参考】
http://newmoon1.bblog.jp/entry/329002/
http://newmoon1.bblog.jp/entry/332330/
(読売の追悼記事!)
で、それだけで今月の各誌はまあ見るすら気しないんですが、上記特集で米澤氏が正当に評価されないことについても語られていてたぶん、漫画(オタ全般ですね)の揺り籠としてのコミケの価値を正当に評価するのは、同じオタそれもコミケがあることが当たり前という感覚のないオタに限られるかもとあってその通りなのかなと。客観的評価はともかくとして主観的な評価の部分では、それこそ多種多様であって当たり前なんですよね。
論座 2006年12月号
(なんだかんだで「創」を別格とすると最近は「論座」の記事のメモが多い?ちょい前まで圧倒的に「諸君」の方が面白かったことを思うと趣深い。)
「人口不均衡~移民をめぐる新たな対立~」石 弘之(北海道大学教授)
は、2005/11/10
にちょうどフランス暴動に関するニュースをメモしていることもあって楽しめました。ようはヨーロッパ社会の置かれている現実です。ヨーロッパ社会は既に共生の原理を貫くしかないという、選択肢がない状況にあるということ。かつて、不況時に移民を排出し、好景気時の労働力不足時に移民を積極的に受け入れ、その後慌てて門戸を閉ざそうとしても、既に自国民としての資格を得た人々が呼び寄せ続けており止めようがない。いくら排外的なことを唱えるポピュリズム的政治家がでてこようともいずれその数の力(白人の三倍の繁殖力でもって近い将来2割を越えることが確実視)に屈服するであろうことは、今のアメリカにおけるヒスパニックの政治的力の強まりを見れば分かります(これまた既に14%)。
この記事の結論はもっと単純にスラムでの人口は激増していく(現在ですら10億)、一方先進国は人口を減らしているとすればいくら摩擦があったとしても水は低きに流れるよね、帳尻あわせるしかないんじゃない?ということなんですが。治安だとか、あるいは共生の原理だとか、経済的観点とは別に非常に説得的な意見ですよね。
インタビュー「司法の論理とマスコミ・世論の狭間で」弘中惇一郎(弁護士)
はっと思わされたのは、被害者と権力が結びつくとエモーショナルに、国民含めて流されがちで危険だという部分。そしてそのような流れに一石を投じる、冷まさせる(山本七平氏風に言うならば「水を差す」)ものとして言論の力に期待しているという部分でした。弘中氏の弁護を引き受ける基準、被害者であることがそのまま弱者に繫がるかは、加害者を加味しないと分からない(弱いという概念は相対的なものだし)という考え方はとても頷けます…。
なんかバラバラと感想を書いているだけという気もしているんですが、言いたいのは一歩引いて、相対的にみつめてみようよという当たり前のことなんですよね。
そんなことをぼんやりと感じているのは、最近読んだ本がきっと同じことを指しているからかなと思います。つまり、なんか事件が起きるたびに大騒ぎしているマスゴミなんかの言説に対してそんなに大騒ぎすることかねと、まずは統計的、歴史的にみるのが癖になってきましたが本質はそこじゃないんです。なんで大騒ぎするのか、それは見方が一辺倒なんですよ、何に対して一辺倒なのかはここでは保留。
ただ、
http://newmoon1.bblog.jp/entry/293417/
(「ドキュメント精神鑑定」)
http://newmoon1.bblog.jp/entry/330033/
(「累犯障害者」)
http://newmoon1.bblog.jp/entry/335570/
(「刑務所の風景―社会を見つめる刑務所モノグラフ」)
の三冊を順に読まれればこの感覚は分かっていただけると思います。誰に対して感情移入するか、あるいはどのような見方から一歩引くかということについてそれこそ各々当事者(精神鑑定人、受刑者、刑務官)の視点を借りると。そしてこの三冊はどれも弱者としての存在をそれぞれピュアなものとして綺麗に描かない、汚れた部分、現実的な部分について、「だってこうなっているんだもん!」とばかりに淡々と記述している、そこがまた素晴らしい。当事者として一般人の理解を促進することで、某かを擁護するためにも書いているであろうに隠さない、書く。そのような誠実な姿勢のおかげで知らない世界を理解というのはおこがましいが垣間見せてくれる、これが一面からでない他面を知ったというだけでは、きっと逆に流されるだけで変わらない。重要なのは多面からの見方を知ることで初めてある程度の自由を手にいれられるのではないかと(それが中庸で妥当な見解かどうかは知りませんが…)。
最後にこれまでの断片的な呟き自体を相対化しておきます。
>『少年院長が少年の名前をすべておぼえられなくなったときが、教育から管理への分岐点ではないだろうか~どんなに優れたプログラムを受けることができたとしても自分を名前のある一人の人間として見ていない環境で人が更生意欲をもてるはずはない。』
浜井浩一「矯正に期待する」
- こんばんわー。
一方的な見方が蔓延っているのではないかとは書きましたが、一応保留した部分についてそこまであからさまに踏み込んだコメントをいただいても(苦笑)
拉致被害者家族の会が政治家やら内部でその運動方針を巡って内部批判、その後、外部批判などがでてきたように、まずは…その内部から抑制しよう、行き過ぎではないかという声が出てこないとなんともはや。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2006/11/13 23:23
- おはようございます。
>ハンナ・アーレント氏の問題意識に基づかれておられるんですね。
アーレントは同胞からたたかれましたからね。
『イェルサレムのアイヒマン』が「ニューヨーカー」に掲載され、一大アーレント非難が繰り広げられます。
「ハンナ・アーレントはナチか?」とかまでいわれています。
これは公然とは語られてこなかったヨーロッパのユダヤ人強制収容所におけるユダヤ人組織のナチスへの協力ぶりをはじめて正面から取り上げて、問題にしたこと。なぜ数千人の人員しかもたないナチスの機関がその都度、数としてははるかにまさる数十万人ものユダヤ人を収容所に送り込むことができたのか。
民族の娘ではないのか?といわれたアーレントはこんなようなことを答えています。
「あなたは頭のてっぺんからつま先までわが民族の娘、それ以外ではありえない人と考えています、ということですが、わたしはあなたのこの言い方に、奸計めいたものを感じます。真実をいえば、わたしはこれまで自分を自分ではない存在、ものだと主張したこともなければ、そういう誘惑を感じたこともありません。あなたの言い方は私に私は男であって、女ではない、というようなもので、つまりナンセンスな話です。」
「わたしは一切この種の愛には動かされません。私はこれまでわたしの人生で一度もどんな民族なるものもどんな共同体も「愛し」たことがありません。ドイツ人というもの、フランス人というもの、アメリカ人というもの。労働者階級というもの、この種のものすべてそうです。わたしは私の「友人」しか愛しません。ユダヤ人への愛というのもわたし自身がユダヤ人である以上、怪しげに思います。わたしはわたし自身を愛することはできません。」 - commented by 安原
- posted at 2006/11/13 12:23
- 安原さん、こんばんわー、いつもコメントありがとうございます。
>3名とも、すごく現実的で、イデオロギー色があまりない。左だの右だの何それ?ってかんじかと
本当にね、はっきりいってそれだけでも驚くべき稀有な存在ですよね。現場で一番悲惨な現実を知っているだろうに、それでもバランスを失さない、流されない。こういう方々がもっととりあげられればいいんですけれど。
林幸司氏はどのように精神鑑定がなされているか、またその限界や誤解について率直に明かし、変に精神鑑定が持ち上げられる風潮(内面を総て見通す)にも変に叩かれる風潮(あたら犯罪者を保護して刑罰を免れせしめているだけじゃないかのような?)にも釘をさされておいでですから、平然との自己否定に近いことをされていて読んでいるこちらがびっくりさせられてしまいましたよ(これは残りのお二方も同様ですが)。
>世界の人々に対してイスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていたという事情をフランクルは複雑な思いで見つめていたのではないだろうか
ハンナ・アーレント氏の問題意識に基づかれておられるんですね。実際問題、イスラエルへの入植者はヨーロッパから命からがら逃げ出したような人々ではなくて、ナチスの迫害以前からなんですよね(イスラエルはヨーロッパに対してこのカードを有効利用したと評価できる)。
無謬な被害者に対して同情なり共感するのは自然なこころもちかと思いますが、かといって彼らの主張が100%正しいかとなると全くの別問題なのに、その分離ってなかなかなされないよね。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2006/11/13 02:24
- おはようございます。
3名とも、すごく現実的で、イデオロギー色があまりない。左だの右だの何それ?ってかんじかと。全員マスコミとかの関係者とかではなく、内部事情をしってる関係者であるところもおもしろいです。アカデミックとも変なしがらみがない。林幸司さんも医療刑務所の職員ですからね。マスコミもへんな精神科医に語らせるよりは林さんにコメントとったほうがいいよ。
もうちょっと人を「言ってる内容」で判断すべきだと思います。そして大衆を無謬の存在にすべきではないです。
芹沢さんが以下ブログにあげてる林さんの発言貼っておきます。
「たとえば、精神科医の林幸司氏は『司法精神医学研究』のなかで、つぎのような例をあげている。
幻覚妄想状態下で「悪魔がすりかわっている」とじつの妹を殺害した女性。彼女は心神喪失により責任能力なしとされ、精神病院に措置入院となった。それ以来、20年近く入院をつづけているという。措置症状はとうの昔に消失し、病状も10年以上安定している。また、彼女の両親も受け入れに理解を示している。だが、本人が「自分は妹を殺したから、その罰として一生この病院で暮らす、家には絶対に帰らない」と主張して譲らないのだという。
こうした例をあげながら、林幸司氏は「触法行為を犯した精神障害者にとって、素朴に、精神病院で治療を受けることが善で、刑務所をはじめとする矯正施設で治療をうけることが悪なのだろうか」と問いかけている。刑事罰の機会を奪われた彼女は、禊の機会を失ってしまったのではないか、と。」
ちょっと話がズレますが、「夜と霧」(原題は心理学者、強制収容所を体験する)の新訳が02年に出版されましたけど、新訳者のあとがきを要約抜粋します。
長くなってごめんなさい。
「私自身も最初は荒唐無稽な話だと思った。遠く学恩に浴してきた霜山訳にそのようなことは断じてできない、とも思った。けれどこの本を若い人に読んでもらいたい、という編集者の熱意に心を動かされ、また霜山氏から思いがけない励ましをいただいて僭越は百も承知で改訳をお引き受けした。
けれどこれは訳すべきだった、というのが訳了した感想だ。なぜなら1947年の旧版とこのたび訳した77年の新版ではかなりの異同があった。
旧版には多出した「モラル」ということばが新版からはほとんどすべて削られている。
時をおいて旧版を検証したとき、フランクルは冷静な科学者の立場から書いたつもりが、その実、それらの箇所ではやや主情的な方向に筆がすべったと見たのではないか。しかし、私は旧版は旧版として擁護したい。これが書かれたのは、収容所解放後直後といっていい時期だ。「モラル」と書きたくなるのも当然ではないか。モラルの荒廃を目の当たりにした無惨な経験に、ここまで冷静に向き合った筆者の精神力には胸を衝かれるものがある。
旧版と新版の大きな違いは旧版にまるわる驚くべき事実から語り起こさなければならない。旧版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も一度も使われていないのだ。かつで何度か読んだときはこのような重大なことにまったく気が付かなかった。
フランクルはナチの強制収容所にはユダヤ人だけでなく、ジプシー(ロマ)、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人びとが入れられていた。
改訂版が出た1977年はイスラエルが諸外国からユダヤ人移住をこれまでに増して奨励しはじめた年だ。1973年3月10日の第4次中東戦争でアラブ側がはじめて勝利したことを受けて国力増強のためにとられた政策だった。
そう1948年の「イスラエル建国」と同時に勃発した第一次中東戦争から30年足らずの間にこの地は4度も戦火に見舞われたのだ。戦争とカウントされなくても流血の応酬はひきもきらず、難民はおびただしく流出しつづけた。パレスティナは世界でもっとも人間の血を吸い込んだ土地になった。
そのような同時代史がフランクルの目にどのように映ったかた想像に難くない。17ケ国に訳された「夜と霧」は、アンネ・フランクの日記とならんで、作者たちの思いとは別にひとり歩きをし、世界の人々に対してイスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていたという事情をフランクルは複雑な思いで見つめていたのではないだろうか。
だからこの時期、「夜の霧」の作者は立場を異にする他者同士が許しあい、尊厳を認めあう重要性を訴えるために、この逸話を新たに挿入し、憎悪や復讐に走らず、他者を公正にもてなした「ユダヤ人収容者たち」を登場させたかったのだ、と私は見る。
受難の民は度を越して、攻撃的になることがあるという。
それを地でいくのが、21世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が断ち切ろうとして、果たせなかった連鎖に終わりをもたらす叡知が今私たちに求められている。
夜と霧は過去のものではない。」
旧約と比較して、ほんとうに読みやすくなりました。この本はユダヤ人収容者を無謬の存在には決してしてません。現実をうつそうとした本だなと新訳読んで思いました。 - commented by 安原
- posted at 2006/11/11 09:39