今まででプレイしてきたゲームで最も好きなゲームはRPGシミュレーション「ファイアーエムブレム 紋章の謎」(任天堂)です。またその次の作品である「聖戦の系譜」も大好きでこの2つの作品に関しては何百時間を注ぎ込んだのか計算不能です。
しかし「トラキア776」「封印の剣」「烈火の剣」と続き、最新作の「聖魔の光石」に至ってFEは死んだという想いを禁じえない。自分が愛してやまなかったその魅力について余すことなく語るのは無理と思っていたけれど、「聖魔の光石」の不満点はそのまま裏返せば魅力の一端の説明になるのかなと思います。
ゲームの進化については、やもするとその華やかさ、分かりやすさから映像技術の進化ばかりに目をやられがちだが、ゲーム全体の面白さからすると映像など単なるおまけのようなパイの一部に過ぎない。それよりもここまでのゲームの発展に寄与してきたのはシステムやシナリオ等の進化・蓄積です。それは新しいジャンルの開拓であったり、ゲーム内での自由度のコントロールであったり、操作性の向上であったり、世界をより豊かに広げることであったり、データの共有、同時性の開拓であったりとするわけです。しかし、そのことを無視してとまでは言わないが、映像技術にばかり資源を集中する(しかもお金を食う)ようになったことが今のゲーム業界衰退の要因の一つ(もちろん、少子化によるパイの縮小や携帯・メールとの競争も原因だろうけれど、競争力を失ったのは、魅力・輝きを失ったからじゃない?)だろうと思います(だからスクウェアには映画の失敗と共に潰れて、反省の礎となって欲しかった)。
ゲーム創りのように創造性・センスが必須となる仕事には、鍵となるある特定のクリエイター個人の才覚・個性がそのままソフトの指向性をも左右するという悪しき例になったみたい。加賀昭三氏がごたごた
を伴って去った「トラキア776」以降、完全に停滞しそしてその魅力が一つ一つ喪失していくという悲しい崩落の過程を辿っている。
まずシステムに革新性、進化がなくなった。「紋章の謎」で成功を収めた次回作、「聖戦の系譜」において前作で緻密に作りあげた大陸(=歴史)を引き継がず、新たにまた大陸を作った。そして特定スキルの導入と親子世代の継承システムを導入することでキャラ育成について全く新しい魅力を導入した。中立軍の導入と1マップの広大化を利用して物語をゲーム内同時進行型、移動という戦略性をよりあげた。また…といくらでも思いつくほどの衝撃だった。そしてその中で変わらないものを明らかにすることでファイアーエムブレムの核は何かについても逆にはっきりしてくれた。それはペガサス3姉妹やマムクートのプリンセスを登場させる類の表層的な部分ではない。それはリアルな世界、歴史の構築と主要敵を主人公と全く同等に描くということだ。単にゲーム冒頭のモノローグで薄っぺらい大陸全体の歴史を繰り広げればいいというものではない。国ごとにきちんとした歴史があり、そして全体の歴史も正史だけではなく、敵からみた歴史と重ね合わせることで真の歴史が明らかになるというような深みが必要だ。主要敵を魅力的に描くということについては、かつて箱田真紀の世界
において加賀昭三氏の対談コーナーがあり、そこで主人公であるマルスではなく、主要敵である3王子こそが物語上の主役であるというようなことを述べられていた。ここではラスボスにも一理ありましたというレベルを軽々と超越している。これがゲームを終えた後にじんわりと広がる余韻の正体なんだろうと思う。ただラスボスを倒しました、ではなくその後この世界はどうなるのかと創造を広げることが可能になる。
そして何よりもゲームの難易度が必要だ(ハードモードを導入すればいいという問題ではない)。ただのRPGとの差異としてのシステム、経験値の振り分けをシビアに計算しながらプレイすることがキャラ育成に必要ということ、死んだキャラは蘇らないということの2点が特定のキャラに対する愛着度、キャラ選択という自由度を覚えさせ中毒性を生み出したのにね…。間口を広げるためかどうか知りませんが難易度を下げたことで(最新作などクリアまで10時間もかからないよ)ただのゲームになってしまいました。
他にいくらでも新たなファンを獲得する手段などあったと思うのに(裕木なえを使って話題となったCMのように魅力的な広告や旧作をリニューアルしてその面白さを知らない小学生世代に伝えるとかね)よりによって、最悪の選択だと思います。
そもそも最新作においてファイアーエムブレム(=炎の紋章)はどこに登場したのでしょう?よって結論としてはもはやファイアーエムブレムは死にました。その死因は1クリエイターの個性に寄りかかり、その精神の継承ができなかったこと。これはいつかゼルダやドラクエも辿る道なのでしょうか?