>『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』
親鸞
英雄とはその悲劇が宿命付けられているといっても過言ではない。私の座右の銘は「禍福は糾える縄の如し」だけれども、幸せがあれば必ず相対的不幸が訪れる(もちろん何を幸不幸と感じるかは個人に因るし、薬物やアナトミー手術といった脳を物理的に弄ることでえられる絶対幸福は可能だけれども)。その落差は山深ければ谷深し、必然的に絶頂期の高みに比例する。だからこそ英雄は必然的に悲劇の舞台に上ることになる。
そして悲劇的であればあるだけ英雄譚は人の心を掴んで離さない、古くはヤマトタケル、義経、信長、龍馬…。幸福の女神に寵愛され、ある日突然見放されるその人知ではいかんとも抗えない何かを人生そのものと重ね合わせる。自分では到底辿り着けない高みにある人物が、その落差において雲泥の差があるように見えても結局は大海に浮かぶ木の葉のような存在であること(もちろん底意地の悪い愉しみ方もあるでしょう)。
しかし「月姫」「プラスディスク」「歌月十夜」とプレミア価格がついているんですね、驚きです(移植も時間の問題でしょうが)。
※12月17日追記→ RE V の日記より"hollow ataraxia" 語源のコピペ
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
TYPE-MOONの作品(メルブラはアクション苦手で忌避、アタラクシアは…だったけれど)は、英雄の資質をもったものが英雄であることを否定し、日常を守ろうとするがゆえに立ち向かわざるを得なくなる英雄譚という構造をとっている。空の境界、月姫、FATEと主人公は非凡な生き方を選ぶことができる地点に立たされたとき、敢然とそれを否定し、日常を守ろうとただひたすらその身を傷つけていくというそのこと自体が非凡、まさに英雄そのものであるという悲劇的な構造。
空の境界と月姫を一対の作品と考えたとき、死がみえるという特殊能力を通して意識せざるをえなくなる世界。それは絶対的死というべき、本来生きていくにあたってできうるかぎり意識の外に追いやろうとするべきもの(生あるもの必ず死ぬ、それは身近なものに限られず自分自身を含め)。その儚さをしるが故に現在の、平凡な日常を愛おしむことが可能となるという悟りの境地に主人公は達している(達することになる)。特別であるがゆえに平凡を愛する、まさにこの主の物語を愛してやまないプレイヤーの意識とは真逆の境地。
月姫では正ヒロインとでもいうべきアルクルートと裏ヒロイン秋葉ルートが全くの等価に位置している(他のヒロインは…)。シキを追うという点では同じだけれども、両ルートは決して交わらない。両ルートをプレイした後にアルクルートをプレイし直した時に秋葉の態度から物語を読み取ることは可能となっているけれども。「痕」が嚆矢だと思うのだけれど、ゲームで物語を構築するメリットルート管理の徹底(ヒロイン別のみならず、トゥルーとハッピーエンド)でもって製作者の意図はより鮮明になっている。アルク、秋葉個別にハッピー、トゥルーエンドを抱えているけれども、大きくみれば秋葉ルートがトゥルー、アルクがハッピーエンドというように表現されている。日常を維持するためにわざわざ総てを暴露してひとつひとつ解決しなくても、大元さえ潰せばもんだいない。むしろ総てを解決しようとすればより血が多く流れている(ネロ先生に食されたものは無視して)。そして帰結してみればどちらが幸せ(誰にとってという問題は残るけれど)だったの?この解答は月姫全ルート共通(あるいはどのルートを選択しなかった可能性も含め)のファイナルエピソードともいうべき先生との再会できちんと語られている。それはどちらも同じように満足すべきもの(幸せとはいわない)であるということ。満ち足りていればこそ不死の存在となる、あるいは魔法の力でもって開放されるという可能性を主人公は一顧だにしない。
そしてだからこそ「歌月十夜」という夢の美しさが際立つ。誰の夢なのか(もちろん主人公のだけれども)、判別しない幸せな、そして儚い夢。夢だからこそ許される幸せな、そして夢であったとしても誰かが必死に守らなくては維持できないという現実。夢見ているときも夢から覚めたときも変わらなく続いている現実であり、夢。それは生そのものが夢のようなものということ、月姫が死と生の境界を直視させることで表現しようとしたものを見事に別の視座でしかもファンディスクというにはあまりにも豪華なつくりで訴えかける。
FATEでは思想がより先鋭化する。それは先に無視したネロ先生による大量殺戮の問題、つまりは倫理的問題です。セイバー、凛ルートはこれまでの作品で表現してきた枠内に留まっている(あえて月姫に準えるならばセイバーがアルクトゥルー、凛がシエルルート)が、最後に露にされる桜ルート(そしてボリュームとしてそれまでの2ルートをあわせたものに匹敵する)は倫理的問題を正面から問うている。そしてだからこそ桜のキャラ人気は一般的にあまり高くない、私のような人間には限りなく魅力的(藤乃静留会長好きならば理解できます)で萌え狂ってしまうのですけれど。英雄が日常を維持するために払われた一般人の死屍累々、それを英雄譚は一般的に包み隠して直視しない。なぜならば物語を彩る血は流されれば流されるほどに物語を魅力的なものにする宝石だから、血生臭いものであってはいけない。その血生臭さを直視させるという冒険を冒したのが桜ルート(そしてこれを表現したいがゆえに、奈須先生は商売であることを忘れず他の2ルートを入れたと考える)となっています。英雄であるということは自らの手を汚した、犯罪者であるということまさに英雄譚を否定しています。
だからこそアタラクシアでは桜と桜の罪をともに担うことを選択した主人公の贖罪の日々を淡々と描写するものが骨格(もちろん餌としての楽しい宴は加えられるとしても)になると予想していたのに…最悪な形で裏切られました。歌月十夜とシステムとしては同じ(より発展させた)であっても作者の思想が感じられない作品、細部の拘りは感じるけれども全体として脈絡のない作品…。
>『敵を一人倒せば勝者で、十人倒せば強者で、百人倒せば英雄で、千人倒せば支配者で、一人残らず倒せば神で、そして―自分も倒されればただの悪党だ。』
「魔女の悪意」