新刊漫画感想9月前半+橋本紡先生雑感 | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

…引き続き「つよきす」とまつりごとの熱気に当てられて、今月は手に取った漫画も少なく、補足の方がメインになってしまったのでいつもと構成を逆にしてみました。

単行本感想

【幸せを届けてくれた作品群】

「姫君の条件」6巻 朔野安子

迫り来る災難、いったい歴史の真相とは何か(パパリア女王が生きていながら身を隠したわけは?未だ登場しない光の精霊は?)?闇の精霊は姫君を女王とすべく守護するのか(精霊にとっての最大の愛情の証が守護であることは鰻やたんぽぽの精霊話のみならず何度も語られている)?丁寧に一巻から貼ってきた伏線を回収しながらラストに向けて動き出しました。

朔野先生の描くキャラは線が濃すぎるとか、造形として頭と身体のバランスがおかしい(頭が大きすぎる)という感想を抱く方もいるかもしれないけれど、そのような表層的な問題を補って余りある作品としての力強さが素晴らしいです。とりわけ画面から滲み出んばかりの女性キャラの眼差しの強さには圧倒されます。


【購入に値した作品群】

「デスノート」8巻 原作;大場つぐみ 作画;小畑健

ノートが3冊に増え(死神は1増1減で変わらずだけど)、ライバルはLの一人からNとMの2人体制とますます展開を複雑化させる材料が揃ってます。それなのに今巻の展開に不満を覚えてしまうのはどうしてだろう?もちろんこれまでの展開にハードルが上がっているということはあろうが、おそらく敵役が軽い(×役不足、○力不足)ことが要因と思います。今までは心理的駆け引きが中心だったのに、いきなり荒事になって戸惑っているというのもあるかもしれないがおかげライトまで情けない姿を晒しているように思う。この作品の魅力は常時緊張感のある、敵味方お互いに隙を見せないクールなやりとり(独りのときは別として)にあると思うのですがそれはNが台頭してくるこれからということなのかな?ノートが相手の手に渡り目の取引もした以上、あとでライトが付け足したルールを見破られる(=どうしてそんなルールを付け足したかという推理からキラへの手がかり)まではあと一歩です。

以前父親を殺すしかないのではないかと書いたけれど、ライトが家族のみならず、全員を冷静に天秤にかけているのは鳥肌がたった。とりあえずつれなく利用されているミサちゃんが切ない。


【暇潰しにはなった作品群】

「ペンギン革命」2巻 筑波さくら

芸能界ものとして手堅い作品だとは思うけれど…。せめて恋愛面で意外性のある展開にして欲しいな(例えば主人公は個人的な恋愛感情が希薄で、オーラの大きいもの、より大きいものへと純粋に惹かれ続けるとか)。


【惰性と言う慣性の法則が働いている作品群】

「セーラー服にお願い!」2巻 田中メカ

明らかに宮崎監督作品に影響受けていますねっていう展開に萎えました。前作も好きでなかったしもうこれで切ります。「お迎えです」では好意的に受け止めていたけれど、死についての軽~い考え方を他作品でも踏襲されると作者の死生観自体が軽薄なものだとしか思えません。

短編として併録されている「ふるふる、花火」はそこそこ楽しめましたが、主人公の恋愛感情が盛り上がっていく描写が弱いです(死生観のみならず、単に総ての感情表現が薄いのか?)。


以下 橋本紡先生、諸雑感

最近は数多くのライトノベル案内本が出ていますが、その歴史(大袈裟か)についてちょうど手ごろなものがあったのでそこから。

特集:ライトノベル進化論
>かつてのファンタジー・ブームのとき、あちこちの出版社が安易に新レーベルを立ち上げては、バタバタと討ち死にしたのである。まさに死屍累々(ししるいるい)であった。まあ、出版社がやけどするのは自業自得だが、そのおかげで中断してしまったシリーズの、なんと多いことか! あの惨劇が再び繰り返されないことを祈るのみである。

橋本先生の苦悩に重ねるならば、シリーズ化への動因はその方が売れる、売りやすいというただ一点に尽きるでしょう。シリーズ化すればそれだけ重版がかかりやすくなりますし、ある程度成功すればメディアミックス化によりパイを拡大することも可能です。一冊限りでは数多く出される本の中で即座に埋没して終焉してしまうのでこれは書店における本棚で目に付きやすいというメリットもあります(これは前に記した少女漫画論に重ねれば短編を書ける作家を育てないと愚痴ったこととも重なる問題で、要は単行本が売れるには…ということでもあります)。そして目論見が外れた際、あるいは作者の力量の問題で長編を書くことができないのに無理矢理書かせれば容赦なく中断という名の惨劇が起こるわけです。

>また、最近の傾向として、ライトノベルのアニメ化が加速していることも挙げられる。賀東招二の「フルメタル・パニック!」や、吉田直の「トリニティ・ブラッド」などは従来のアニメ化の流れに沿ったものであり、特に違和感はない。だが、「イリヤの夏、UFOの空」「撲殺天使ドクロちゃん」、あるいは木村航の「ぺとぺとさん」などは、ひと昔前だったらアニメ化など考えられなかった内容だ。こうしたアニメが当たれば、今後、さらにライトノベルを原作にしたアニメが増えるだろう。それはそれでうれしいのだが、一方で、ライトノベルがアニメ原作の草刈場になる危険性も感じる。

この疑問は単純にライトノベルの領域が豊饒化し多種多様な抱える作品を抱えるようになっただけではないか?草刈場という点で言えば、ライトノベル、漫画、アニメ、ゲームがお互いに結びつき、一つの作品が成功すればそれぞれのジャンルの空席を埋めていく。ライトノベル→アニメという一方向のみに焦点をあてるのはおかしい(アニメ→ライトノベルという作品だって数え切れないほどある)。

>さらに、最近の新人賞が、作家の登竜門としてきちんと機能しているのかも気にかかる。受賞したものの後が続かない作家や、デビュー作をそのままシリーズ化(現在はほとんどこのパターンである)したはいいが、それが完結した途端、人気が落ちる作家が、ちょっと多すぎないだろうか。もとより作家業は、才能と人気を賭けたラット・レースであり、基本的にすべての責任は作家に帰結する。だが、そうした作家の手助けをするのが、出版社の役割だろう。

最初に記したコメントに被りますが、出版社として作家名で売るというよりも、タイトル名で売るという姿勢をとり続ける限り変わらないでしょうね。ただ少なくとも現在は人材の流入が多いようなのでこのやり方でもいいのかもしれないとも思う。コンスタントに人気のある作品を提供し続ける力量のある作家が自然と残っていくという、ある種のジャンプ形式ともいえます。


「半分の月がのぼる空」のアニメ化 が決まった橋本先生の悲鳴。

ちょっとまじめな話。
>ここ数年、僕はひとつのタイヤ(半分の月)だけで走ってきました。半分の月を書くことは僕自身にとってもすごく刺激的だったし、冒険でもあったし、本当にやりがいのある仕事でした。この作品を書くことによって、僕はいろんなことを学び、成長できたと思います(物書きとしても、ひとりの人間としても)。ただ、これ以上、片輪だけで走りつづけるのは無理です。僕の心が持たない。

>ものすごく現実的な話をするならば、ハードカバーをやる必要なんてありません。部数(つまり読者数)は減るし、収入は減るし、時間はかかるし、商売としてのメリットはゼロです。デメリットしかない。けれども、そういうデメリットをあえて受け入れて、僕は猫泥棒(七曜日シリーズ)に取り組みました。なぜなら、七曜日のような話を書かなければ、僕はもう半分の月系の話だって書けなくなってしまうからです。

>これ以上、片輪では走れない……。

補足。
>以前にも書いたように、僕にとって、半分の月系と、七曜日系は、車の両輪です。どちらか一方が欠けても、走り続けることはできない。しかしながら、七曜日系の話を書ける状況はまったく訪れませんでした。半分の月を書くことは確かに至福であったけれど、強引な片輪走行に僕自身の心が耐えられなくなってきました。半分の月三巻を書き終えた興奮が去ったあと、僕は途方に暮れました。

>もう書き続けられない……どうすればいいんだろう……。
(中略)
>とにかく、現時点において、七曜日シリーズを書き続けるめどはまったくたっていません。そして以前書いたように、これ以上片輪だけで走り続けるのは無理です。半分の月系を書き続けたいという気持ちはもちろん持っていますが、それだけでは心が持たない……。もしこのまま七曜日系が途絶え、再開のめどすらたたないのなら、そのときは覚悟して筆を折ります。というか、折るしかない。それはまさしく、是非もなしという奴です。

これを作家としての真摯な悲鳴と受け止めるか、プロにあるまじき甘えと受け止めるかは人それぞれだと思いますが、私は七曜日シリーズが好きなだけに前者として受け止めています。↑でいうところの七曜日シリーズとは下の2作品です。

「毛布おばけと金曜日の階段」
「猫泥棒と木曜日のキッチン」

これらの作品のモチーフは「家族の崩壊と再生」ですと書くと、途端に安っぽくなってしまって嫌なんですが、依然記した「愛してるぜベイベ」7巻(最終巻)についての感想 をお読みいただければ私が言わんとするところは大体想像していただけるかとも思います。家族を既定の予め環境として存在するものととらえるか、環境の中から選択して作り上げていくものととらえるかの差です(そしてどちらにより親密感を覚えるかは各人の生育環境やパーソナリティーによるものと思います)。

また両作品ともに食事の場面を丁寧に、料理名などそこまでかというほどに詳細に描いています。これは家族とは共食の関係にあるものと橋本先生が考えられているからだと思います。そしてその説得力は食事の状況をある種歪んだ状況におくことで際立っています(狂人を囲んでの階段での食事、あるいは死体を埋めたあと調理した食事)。狂気あるいは死体といった、家族の欠落とはまた別次元の問題を据え置くことで家族の欠落というそれだけで充分に重い設定を中和して、それ自体は大した問題ではないと処理している点も巧いです。

ただやっぱりハードカバーの本は手を出しにくいと思います。それは値段が高いとか、挿絵がないという問題のみならず、保存の問題として大きさが異なるのが非常に困るのです。内容からすればとりわけボリュームがあるわけでもないし、今までライトノベルとして出していた作品と表現も変わらないし困惑します。そしてハードカバーで出すからにはライトノベルを普段手に取らない一般読者が対象となるかと思いますが、だとすると出版社として書店で並ぶ場所、宣伝についてもう少し考えてあげたほうが。

橋本先生の苦悩はおそらく本当に書きたいモチーフを中心に描いた作品が評価されずに、そうでない「ライト」なノベル(それでも充分にモチーフは窺えるし重いけれども)が評価されている状況にあるのだろうと想像します。今までの長編シリーズ作品「リバーズエンド」は同じような展開でもって数段クオリティーの高い「イリヤの夏、UFOの空」がある以上…だし、「半分の月がのぼる空」だってそのいまさら病弱少女との交流を描かれても…いまいちであるということを何より橋本先生本人が承知していること(1冊完結ものの方が向いているということも)こそが苦悩の核なのではないかと。

本を書くということについて真剣なんでしょう(もちろん純粋なギャグ、コメディー作品だってプロとして真剣勝負を行っていると思いますよ)。読者に楽しんでもらう以上に伝えたい何かをもっていること。それなのに売り上げという一番分かりやすい反応で返ってくるのは…。