放映からちょうど1年が経過した作品です。その販売手法(ゲームと抱き合わせることでゲームの流通経路にのせることを可能とし、広告代理店等の中抜きができた結果、その分良心的な価格設定となっている)ことでも話題になりました。
内容は、全体的に美しいセピア色に染まっています。
ハイデガーが「存在と時間」で著した、人はいつかは必ず死ぬ。そしてその必ず死ぬということを自覚することが生きるということを実感させるという逆説的な主題が通奏低音として流れています。
本来は病床で一生を人生を呪いながら終えるはずが、五体満足な身体を得る代わりに暗殺者としての役割と短い生(次第に記憶を失ったり、味覚が麻痺していく副作用つき)を運命付けられる。どちらが幸せなのか、それは何度も作中で繰返されるテーマとなっている。代償として失った過去の(=家族)記憶(それは家族に殺されかけたり、殺されていたり、枷となっていたり)は忘れられた方が幸せだったと割り切ることも可能だが、その安易な道も選んでいない。それは指導官との関係にも現れている。条件付けなのか、愛情なのかその不明瞭な境界線に皆(指導官も)悩み続ける。何かを悩みぬいても安易な答えは得られない、幸せの形は人それぞれだから。その悩む姿が本当に美しく描かれている名作だと思います。
そう皆が苦悩しているけれど、それは擬体という分かりやすい形として表されているだけで普遍的なテーマといえる。少女ものとして、カードキャプターさくらとは正に正反対の重い題材を13話できれいに表現した浅香守生監督に乾杯。
第1話「兄妹」、第2話「天体観測」
ヘンリエッタとジョゼの関係を描いている。擬体、兄妹関係のシステム的な説明及び、指導官の苦悩を2話使い丁寧に描いている。
第3話「少年」、第4話「人形」、第5話「約束」
リコ、トリエラ、クラエスという各擬体と指導官の話。兄妹関係は一様ではない(あくまでもいたいけな少女だから)から、その関係性において距離感をどのように掴むかをお互いに苦悩しながら模索する。ただクラエスについては全く別個の問題となっている。条件付けだけではない約束がけなげにたとえ表層的な記憶として残っていなくても、感情に刻印されている。最後のヘンリエッタの可哀相という不用意な発言を否定する姿は凛々しく美しい。
第6話「報酬」、第7話「守護」
暗殺者としての役割、仕事がメインストーリーとして表面的に進んでいく。そのアクションシーンに眼を奪われがちになるが(「もう撃って良いですか?」とか淡々と聞きなおすシーンはちょっと笑えます)、交わされる会話の重さがたまらなく深い。会計士がフィレンチェを見れたからもう悔いなく死ねるというある種のかっこいい言葉をはきます。しかし、リコの素朴な感想ともいえるものにあっさり覆されてしまう。それは同じ言葉でも抱えているものの重さ、覚悟によって言葉の力は全く異なるということ。
第8話「御伽噺」
副作用として、記憶喪失に陥ったアンジェリカと指導官の悲劇のお話。めでたしめでたしで大団円を終える寓話との対比によりその悲劇性がより鮮明になります。そして最終話への伏線が痛いほど散りばめられていきます。
第9話「彼岸花」、第10話「熱病」、第11話「恋慕」
兄妹関係の一つの到着点を表現している。社交的な指導官が招いた悲劇、人間関係の構築に長けているがゆえに、時の刻印を押された2者関係に踏み入らなかった。時の刻印を深く自覚するがゆえに、友人関係を排除し結果2者関係が100%になってしまったという悲愴さ。しかし、その悲劇は少なくとも擬体にとっては幸せだったという結論の説得力が素晴らしい。
ゲストキャラのエルザ(原作ではここまで描いていない)は能登麻美子。
第12話「共生」
第8話の続きかつ、これまでの暗殺者としてこなしてきた一連の仕事の収束。クラエスの用いた「一粒の麦」という言葉の重さは、単に危険な仕事においての囮というだけでなく、第5話で描かれていた実験体として酷使されている姿を思い浮かべると例えようもない。
第13話「流星」
ただただその美しさに絶句するのみ、流星と少女合唱の第九の組み合わせは最強です。年末になると第九合唱は恒例行事となっているが、初めて私にもその気持ちが分かった。
桜に代表される花、蛍などその生の短さとだれもを惹きつける美しさは表裏一体なんです。花は散るからこそ美しい。だからこそ、その短い命を燃やして美しく咲くいうこと。
2005.11.10追記ゾゾコラムさま 「白痴でいること」は不幸なのか、それとも幸福なのか
は原作である漫画についての評論だけれど、女性視点からの気持ち悪さを覚えると同時に魅かれざるを得ない点もあることを素直に記された素敵な文章です。担当者視点ということでいうならばジョゼが悩んでいるように、人である以上十全ではありえないはずだけれど、無償の愛情、信頼を正当化するために己に課されるものについて考え出すと、主客の立場は入れ替わります。とりわけヘンリエッタはジョゼに対しても愛情をそそぐように脅迫していますし。