イノセンス「絶対評価と相対評価」 | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

長らく待たれた押井守監督「イノセンス」、公開前のマスコミの高い注目に比していざ蓋を開けてみれば…その評価はカンヌはおろか、

こういう結果 で、こんな感じ

ただ「攻殻機動隊」も一般人(←選民意識丸出しの嫌な言葉ですね)に評価されるまでには、5年以上の歳月と外部からの経路(「マトリックス」という「攻殻機動隊」の内容を簡素化するとともに、90分の内容を6時間以上にするという密度を薄めたもの)を必要とした。

またハリウッドの誰かがこの内容を希釈化した作品を5年後位に作った時になってはじめて理解されるというようなこともいえるが、ことの本質はそのようなことではない。

先月のサイゾーでこの作品のプロデューサーもてがけた鈴木 敏夫プロデューサー のインタヴュー記事が掲載されており、そこではハウルに対するありがちな映画批評(戦争終結に辺りハウルは何もしていないみたいな)を苛立たしげに否定していた(このインタビュアー「キャシャーン」で紀里谷和明氏にも同じことを指摘されたのに成長、進歩のない人だ)。

既存の単純明快な二分法的シナリオを離れた展開、既存の価値観を超越する思想を含んだ作品が受け入れられない苛立ちはその革新性が分かる人間には初めは説明にいそしんでもやがてもどかしさしか感じなくなるということか。

ただこの作品「イノセンス」に関してはそのような批評すらも無効化するような猛毒が含まれている。それはこれまでオタクに現実への回帰を作品内のみならず、ことあるごとに言及していた押井監督がその思想を全面的に肯定したことだ。それは圧倒的大多数が認める価値観(=客観評価)と自分が認める価値観(=絶対評価)を対峙させ、そして後者を肯定した。

もちろん、これまで「ビューティフルドリーマー」「攻殻機動隊」そして実写「アヴァロン」で繰り返し主題においてきた、夢と現実という一見自明のものとしていた境界を崩すこともキムとの攻防を通して描いているが、草薙素子の登場によってその問いは無効化した。そうかつての彼女の口癖

>『根拠ですって?そう囁くのよ、私のゴーストが。』

バトーは夢か現実かという基盤を超越した、彼のゴースト(草薙素子)によって。それは自分がそうと信じるところ(リアリティーとは違う)を信じるということだ。

また「攻殻機動隊」の主題であった人間と機械の境界の揺らぎ。それは人の基盤を何におくかということ、その際には「ゴースト(魂)」におき、部品としての肉体と区別するというまさにデカルト的二元論を突き詰めた結論に落とした。今回も多数の引用や専門用語を散りばめて高尚な内容に思わせているが、その思想的帰結は実に単純明快になっている。それはバトーの揺らぎを通して描かれるが、要は人間>人形でも人間<人形でもなく、人間=人形(=機械その他)ということです。

バトーは人間>人形を自明のものとして意識もしていなかったが、ハラウェイ検死官(榊原良子さま萌え~)を通して問いとして認識し、その問いを突き詰めた結果、子ども(人間)<人形へと帰結している。それは前回、少女で姿を消した素子が人形の姿で、それも美しい姿として登場し、一方助けだされた少女、トグサの娘の顔が醜く描かれていることから明らかとなっている。

>『鳥の血に悲しめど魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。人形たちにも声があれば、人間にはなりたくなかったと叫んだでしょうね。』
                              草薙素子

ただ、本当の結論は人間と人形のどちらが美しいかなどという問いを超越している。それは素子がバトーに今幸せかどうかを問われた際にそのようなこともどうでもよいものと答えた上で好きに振舞っている。幸せかどうかなどというような他者、世間の評価(相対評価)など絶対評価の前では意識する必要もないということなのだろう。

他者がどう思っているかなどどうでもいいこと、自分が信じたこと、美しいと、幸せと感じることが総て…それはまさにオタクの生き方そのもの。ただ、大多数の感性を否定するわけだから現時点で評価されないのも当然といえば当然(一方ハッカーのようなIT時代到来に向けての最先端というクールな存在を描き、他方、現時点ではオタク、マニア、フリークスどれも日陰とされる生き方ですから)。

まあ、なにはともあれ二次元万歳!