巌窟王 その目指した地平 | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

『巌窟王』 が終わって2週間経ちました、深夜アニメに関わらず(「舞HiME」も)、エアチェックしたのは実に『serial experiments lain』 以来です。

ただこうして終わったあと改めて作品を想うと、内容に関する記憶は既に薄れ始めていて、人物の枠線(特に服飾)と背景、美術が一体化しているかのような斬新な映像イメージで一杯です。

りんたろう監督が今のアニメは物語ばかり重視しているが画の力、演出にもっと目を向けるべきだと述べられた文脈でいうならば、当作品はまさにその魅力を余すところなく見せ付けたといえる。1回目こそ絵全体の境界が定まらず総てがゆらゆらと動くような画に若干酔いましたが(何度も見直して2回目からは頑張って耐性つけました)、慣れるとこれほどの快感を絵単体から受けたのはこれまた「少女革命ウテナ 劇場版」以来のことでした。

ただ、深夜遅くまで起きて一刻でも早く見たいと思わせたのはそれだけでは決してなかった。「巌窟王」と銘打って原作ある作品にも関わらず、時代設定や視点(主人公)に大胆な変更を加えることで全く予断を許さない作品になっていたことにある。そして最終回直前までここまで詰め込むのかと息を飲むような濃密な話と、毎回、毎回ここで引くのかという視聴者を飢餓状態に陥らせてしまう(陥ったし)鬼演出(EDの歌がまたいい)こそが肝だった。

「巌窟王」を人間離れした悪魔との契約のようなものと位置づけ、本来の主役である伯爵をアルベールというちょっと頭の悪い純粋で一本木な若者から眺める。すると若者である未来の象徴から、復讐に囚われている過去の象徴である伯爵を眩しくみえるのだが、視聴者からは伯爵の意図が復讐にあることが分かっているのでその差により惹き立てられるわけです。

同じように出てくる大人側の登場人物のアクの強いこと、強いこと。一筋縄ではいかない人物ばかりです。そしてそれだけにいいように振り回される若者たちの幼さ、無力感がまたいい。そして最終的には大人の打算よりも若者の純粋な友情、愛情の方が強いということも(それらはかつて若者だった大人たちが捨てたもの)。

…総てが最高のクオリティーで最終話を見終わった後もその美しい映像、演出、そして締めの音楽と本当に満ち足りた幸せな気持ちになれたのですが、一から見直すたびに記憶に上書きされて映像の印象しか残らなくなっていく、それが何か?ということです。

きっとその答えはあまりにも美しく(微妙な表現だけれど映画的に)終わってしまったことにあるのかなと思います。2クールもの全24話という1~2話ほど少ない中で丸々1話を後日談に割いたことで完全に若者の話となってしまいましたが、この作品を作品たらしめていたのはいい意味で酸いも甘いも知り汚れているかもしれないけれど大人たちだったと思います。「巌窟王」が結局なんだったのか、どうなったのか(アルベールの愛の前に消えたとかでなくて)という点もあるけれども、大人がいざというところで余りにも脆く描きすぎたように感じる。それは伯爵の復讐がさんざん引っ張ってきた割にはあっけなく決着つけすぎたという印象を与えている。最後「渚にて」ということで伯爵、メルセデス、モンデゴ皆の若者時代を描いているが(もちろん「待て、しかして希望せよ」につなげる下りは感動的なのだが)、もしもメルセデスの女としての感情にもっと焦点を絞っていたらまた違った作品になったかもしれないと思います。

おそらくいかに美しい映像を描けるかが最優先事項であって、音楽、演出、脚本は画に従属する関係にあったということなのだと思う。そしてだからこそ「巌窟王」という傑作が残されたのだと。

前田真宏監督の溢れんばかりの光り輝く才能に乾杯を!