>現実と虚構が入り乱れる情報社会。
人は自分の存在にすら自信を失っていく。
その不安をかきけすようにつながろうとしている人々、
それがたいして意味がなくても…。
見えるはずもない新しい扉を見つめ、この世界を閉じてしまう
Close the world,Open the next
公式Webの冒頭に掲げられた文言は既に一部実現しつつあり、そして同時に未だ「予言」として効力を失っていない。この作品が7年以上も前の作品だということは、10年以上前に作られた劇場版「攻殻機動隊」と並んで奇跡としか言いようが無い。折に触れ見返しているがそのたびに新しい気付き(感覚)をもたらしてくれる。
コンピュータネットワークが張り巡らされていく社会で人がどのような存在になりうるかという点で、この作品が提示した指向性の前衛性は未だにその輝きを失っていない、それは科学技術の浮かれただけの表層的な作品ではないからです。
かつてSFというジャンルが創作において全盛を誇った時期があった。過去形になってしまったことには社会の変貌(例えば「ドラえもん」アトムからアイボヘ
の記事を参照ください)が根本原因としてあるとだろうけれど、もっと皮相的な見方をすれば単にSFというジャンルの流れ(才能)が停滞、もしくはスターウォーズに代表されるような作品の登場によって捩れただけのことではないだろうか。
私は源流たる小説について(ハヤカワ系の小説は読まないし)疎いので多分に推測の域はでないけれど、アシモフ、オーウェル(星新一でもいいけれど)などのそれこそ一般人(…あまり好きな言葉ではないけれど)でも知っている作家が綺羅星の如くいた状況と比べると現状は余りにも寒いように思う。
そしてこれは漫画、アニメでも全く同様のことだと思っています(漫画については別の作品「OZ」の感想にあわせて近々起こす予定、同時に記そうとしたらパンクしてしまったので分割することにしました)。アニメにおいても神たる手塚治虫に由来するのは当然のこととして、結局のところガンダムや銀河英雄伝説などの作品を分岐嶺として流れが定まってしまったように思います。つまり現時点では全く夢想の産物に過ぎないが、いずれ科学の進歩が実現してしまうであろう科学技術がもたらすであろう変化について、物語を通して警鐘を鳴らしたり、賛歌を贈ったり、今となんら変わることは無いという類の皮肉を込めたりするのがSFの全盛期の姿だったように考えるわけです。
それに対して前述した作品のキャラクター人気に由来する大ヒット(もちろんこれらイマジネーターたる作品においてはその強烈なまでに込められた作者のメッセージこそが、作品を魅力たらしめているのですが)が、単に舞台設定を宇宙、あるいは二足歩行のロボットを出すという方向に新たな才能を集結させ、SFが徹底的に侵蝕されたことが原因ではないかということです。
宇宙やクローンといったメインテーマに対する目新しさがなくったこと。それは科学技術に対する未来の喪失であると同時に、技術の進歩が大体普通の想像の範疇に留まるようなものに落ちてきた…そこに訪れたのがネットワーク関連の技術革新(第三の波でもIT革命でもeです)で、連鎖反応としての脳科学の発展です。例えば攻殻機動隊は一見ハードウェアの問題として人間と機械の境界を問うと同時に、ソフトとしての心の問題をメインに据えています。そしてこの作品では両者の本質を関係性の問題に過ぎないと割り切って並列化していることに他の追随を許さない魅力があります。
serial experiments lainの指摘はワイヤード(=電脳)によって明らかになった繋がりへの欲望は、リアルワールドであろうがなかろうが関係ないということ。そしてそれは社会や世界という大きなレベルに留まらず、繋がるものが情報だとすると、個人の脳内であっても記録を記憶と置き換えるだけで脳内のシナプスの繋がりに過ぎない。こうして総ての境界が次々と融解していく様を玲音という新たに降臨する神の目覚めの経過を辿ることでもって詳らかにしていく。
わざと不快感をもよおさせるノイズのような低周波を定期的に流し、意味があるのかないのか非常に分かりにくい情報という、視聴者に混乱をもたらすノイズも氾濫させ、そして同時にキャラデザは非常にシンプルかつその動は乏しく、実写めいた映像の数々を無意味に画面に散らばらせるあたりが非常に面白いです。計算なのか偶然なのかよく分からないけれど、あまりにも重い作品の哲学的テーマをその作品の在り方自体においても表現した大怪作だと思います。以下の各話感想は見た人が感じたことにこそ意味があると思うので言葉少なめで。
serial experiments lain関連商品一覧
(これまでに公式や小中千昭氏のWebは貼ったような覚えがあるので今回はこちらを紹介、ただしDVDについては近々廉価版が出ます)。
監督;中村隆太郎
シリーズ構成・脚本;小中千昭←この方の才能はこの作品で…
オリジナルキャラクターデザイン;安倍吉俊
第1話「WEIRD」
玲音の平凡でありながら微妙におかしさを孕んでいることを見るものに予感させる日常(学校・家族)を描いています。ただこの時点では他者と繋がるためにビルから「飛んで」自殺した友人が送るメールが誰とも繋がらないことから、ワイヤードとリアルワールドの間にまだ壁があるということを示しています。そして張り巡らせられた電線と、リアルワールドを侵蝕するかのような色つきの影(「忘却の旋律」で影の色によりモンスターの支配地域を識別するという演出を使っていましたね)が今後のテーマを明示しています。
第2話「GIRLS」
薬で「㌧だ」少年に対して、もう一人の(この時点では)玲音が吐く『どこにいたって人は繋がっているのよ!』なる台詞はこの作品のメインテーマです。玲音がパソコンの勉強を始めたとき、現実の壁が揺らぎはじめもう一人の玲音が顕在化(単なるアバターの魁以上のものです)をします。
第3話「PSYCHE」
誰が玲音の成長を見守っているのか、手助けしているのか、またその狙いは何であるのか…実は最後まで見るとその答えは却って混乱を来たします(色々な解釈が可能です)。そしてそれが監視している側が実は監視されている立場でもあるという監視の恐怖の連鎖へと繋がっていきます。
第4話「RELIGION」
神が初めて可能な場所としてワイヤードの可能性が語られます。神が人と人を繋げる社会的装置に過ぎない以上当然の答えといえます。パソコン技術の習熟(部屋の様相から既に逝ったレベルですけれど)につれ、リアルワールドでの玲音の常に自信なさげであった人格も変容していきます。それは技術に裏づけされたという浅薄なものではなく、繋がり(ワイヤードを介したものであっても)を保持したことによります。
第5話「DISTORTION」
姉が置き換わる話…かつてソビエト連邦においてある人を消すためには、ある人と繋がりのあった人を皆消す必要があるということを実践した例がありますが、人=記憶(=記録)という情報であると割り切ればコピーするのは容易いです。
ここでは父親(仮)との会話
>『一つだけ忠告しておこう。ワイヤードはあくまでも情報を伝達し、コミュニケーションするための空間、リアルワールドと混同してはいけない。忠告の意味分かったな。』
>『違うよ、そんなに境界ってきちんとしてないみたいだよ。もうすぐ中に入れるんだよ~心配しないで私は私だもの。』''
がリアルワールドの玲音の全く揺らぐことの無い確信の深さを示しています。リアルワールドを相対化するワイヤードの確信。
第6話「KIDS」
人の限界を試す脳を繋ぎ合わせた実験の副産物として神が生まれたことが明らかにされる。老科学者の安らかにそして満足げに眠りに閉じていく様子と、玲音のリアルワールドとワイヤードの人格が混在に由来する上部階層を問うさまは非常に見応えがあります。
第7話「SOCIETY」
ナイツという組織の力を表現した回ですが、玲音の前ではまさにどうでもいい存在に過ぎない。そして危うい緊張感が漂っていた玲音の家族が崩壊した瞬間。敵組織というのは曖昧であれば曖昧であるほどにその力が誇大化していく過程は何でもかんでもアルカイダという現実を見ればよく分かります。
第8話「RUMORS」
レイヤーを見通すもの、プロトコルをかいているものが支配者の地位に座るという…なんだかレッシグ教授か東浩紀氏か忘れましたが似たような言説を読んだ覚えがあります。
神がついに偏在化します。その偏在化した神は自分自身に過ぎないのだけれども。そして記憶=情報=記録としてカキコミも消去も自由自在に可能なことが描かれます。社会がそのようなものに過ぎないとき自分を担保するものは何?
第9話「PROTOCOL」
電柱シーンで有名な作品としてエヴァがあるが、こなた街にこめられた郷愁(リアル風味の記憶呼び覚まし装置)を呼び覚ます狙いがあるのに対して、この作品では即物的な繋がりを示しているに過ぎないのは興味深い。決まって流される電波音は、それら膨大な繋がりを介して流される情報の大半がノイズであることを示しているのだろう(この作品において情報はそれ自体の価値ではなく繋がって流されることに価値を見出している)。
直戴な説明による膨大な説明は繋がり=神ということを説明しているにすぎない。
第10話「LOVE」
絵コンテ;佐藤卓哉
英利が電車内で溺死体で見つかったのは、情報の渦に溺れたということなのでしょうね。どこにでも偏在したはずの玲音が周囲の者との繋がりを絶たれたとき無きものとして扱われる。逝ってしまった玲音の表情はたまらなく艶っぽい。どこにでもいるということは、どこにも居ないということを示しています。
神に対する報復が崇めるものの全消去とは荒っぽくていいです。神であろうとも繋がりを絶たれれば無力であるということ。
第11話「INFORNOGRAPHY」
総集編のように見えて情報をランダムに氾濫させ、この作品の本質を示している…こんな話の作りをできる作品は今後現れないような気がします。英利の肉体を持った実行プログラムなる人間に対する誤った理解、なぜなら玲音の全能の力を得るに至った動機付けはありすとの繋がりだから。
第12話「LANDSCAPE」
『いやなきろくなんてかきかえればいいの』の言に顕れるように、玲音が自分の力に酔い無制限に自分の力が偏在化するさまを描いています。「明知の踏み絵」の話題に絡んでその正統性を担保する条件の一つとなりえそうな醒めない夢であることの価値がありすによって語られます。そしてそのように弱いありすを自分を担保する存在として支えにしようとした玲音との距離は決して埋まらない。
参照;http://www.miyadai.com/index.php?itemid=281
第13話「EGO」
ワイヤードの神を介してリアルの神を予感すること。ワイヤードとリアルワールドの階層の上下を問うことの無意味さ、ともに関係性以外の何ものでもない。そして神としての歩みをはじめたとき、皆の幸せを祈ったがゆえに訪れた圧倒的な孤独(偏在の否定は無)。たとえ神の身たることを否定しただ見守るものを選択したとしても、神と同等の機能を果たしうることを否定することはできない。
DVDのジャケットに附せられているエッセーを読めばこの作品を作り上げた元ネタとしての思想、哲学、事件などが明らかになります。思想を作品化する創造性が垣間見れて(そしてその過程でより思想は先鋭化、深層へと辿りつく)とても幸せな気持ちになれます。
またこの独特のキャラデザが好きというのなら、小中氏の映像化に至るイメージを文字化したような短文も載っている画集も抑えておくべきアイテムです(先日、書店で在庫を見かけたのでまだ普通に手に入るみたいです)。そして今では入手困難が予想されますがゲーム版はかなりのお勧めです。それまでの既存のゲームの流れとは一線を画した異様な作品です。アニメではSF的発想に基づく猛毒思想を描いたわけですが、ゲーム版では玲音の人格に絞ったホラー作品となっています。見るものがいつしか見られる側に、そしてその心の内側に入り込んでいく様を、ゲームプレイヤーという第三者のメタ視点をも組み込むことで狂気をリアルに表現しています。
>『歩けなくなる絶望感を味わったことのある者なら容易に分かること、「運ばれる」のではなく「進む」というまさにその感覚だけが自分を自分で居させてくれるのだ。そのとき私たちは覚醒している。たとえ何かを間違えていても。そして私たちは…。飛ばない代わりにただただ見上げる。時々何かをふと思い出す。何かを受け入れた結果、私がある。そして延々と…重力を引き剥がしまたハリツケられ、ハリツケられまた引き剥がし…。そうして段々に辿り着いたちょっとした高みで、たまに風に吹かれたり見下ろしたりする。それで充分だ。この感覚さえあれば。すべてが醒めない夢だとしても。』
「歩く。感覚」