株)プロダクション・アイジー
【事業内容】(公開予定日12月21日!)
劇場、テレビ、ビデオ、ゲーム用アニメーション及びゲームソフト作品の制作事業並びに作品の二次利用により印税、収益分配金等を得る版権事業
ついにまえまえからいわれていたIGの上場キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!アニオタ+株オタとして目を瞑って高値掴み(どうせ当たらないし)する腹積もりです。せめてGDH(←バジリスク、巌窟王、ソルティレイなどの制作会社ね)くらい順調な業績推移を見せてくれれば、株価指標でみると到底買えない会社でも嬉しいんですがね…。見積書を読んだ限りここ数年の業績の右肩下がりぶりには泣けてきます。しかもアニオタとして「BLOOD+」「IGPX」の苦戦は火を見るより明らかですから…ドル箱だった「攻殻機動隊」の貢献も来期から消えますし…今から地雷踏みそうな悪寒です。おそらく公募価格で50万円前後(それでもPERで25倍!)、初値100万円強と予想しています。
アメリカでのDVD売上落ち込みとともに、アニメから撤退する店舗が増える?
>Goldman Sachsの報告によると、DVD売上は2005年度には10.2%の増えているが、それは2003年度の51.4%や2004年度の33.3%に比べると殆ど無いに等しい数字だ。そして予想では、2006年度の売上個数は1.2%しか上がらず、2007年度では8.2%下がるということだ。
相次ぐ米アニメ制作会社の今期業績不振ニュースでもDVD市場が曲がり角にきたのではと記したような覚えがありますが裏付けがきたみたいです。漫画よりも一足先に進出しただけに高成長限界も早かったということでしょう。これからは海外市場をターゲットといってもその他地域ヨーロッパなどを目指す必要がありそうです(GDHは決算単信をみると順調に万遍なく海外売上比率を高めている点が窺えます)。
光希桃さまのアニメ感想率調査
がでました(前回はhttp://newmoon1.bblog.jp/entry/226026/
)。
結果は、
見切り数/評価数:6 / 15
平均評価点:1.93 ( 276サイト中 8 位 )
平均評価点(見切りマイナス換算):1.10 ( 49 位 )
案の定、平均評価点(見続けた作品に対する評価)で辛目サイトに位置しています。それよりもこのデータでワースト作品に対する皆様の感想という名の誹謗中傷には大受けさせていただきました。
以下 『小寺信良:キモオタの発祥に見るコンテンツ社会の臨界点』
を部分引用しながらの批判なんで読まなくていいです。
>近年、「オタク」という語感の持つ脱社会的な部分が抜け落ちてしまい、次第に清潔なものになりつつある。だがこれは、名指ししていた層が変化しただけのこと。かつての「オタク」を指す部分に入るべき言葉――「キモオタ」について考えてみた。
また扇情的なタイトルだな~と執筆者を見たら…以前取り上げたオタクにかこつけた俗流若者論
の小寺氏ですか、またですかorz
>「オタク」という言葉が長く生き残ったのは、それに象徴される社会事件が、時折世間をにぎわしたからだろう。猟奇的な性犯罪事件は、ことごとく「オタク」のせいとされた。逆説的に言うならば、犯罪を犯すのは個々の問題なのだが、その背景を語るときに十把一絡げで「ああいう人たち」を総称できる「オタク」という言葉は、便利だったのである。
「逆説的に言うならば」以降が正論でなぜ逆説的となったのかという点を分析することこそ「キモオタ」なる言葉に含まれる自嘲を受け止める鍵だと思いますが期待していないのでいいです。ただこういった言説を書き散らすならばせめて大塚英志氏の「おたく」と「オタク」の差異に対するくどいほどの異議申し立てを一読しているのかと訊きたくなります。
>ただ近年、オタクによる市場経済効果を試算するなどの試みが行なわれていくに従い、「オタク」という語感の持つ脱社会的な部分が抜け落ちてしまった。以前にもブログのほうで書いたことがあるが、オタクという言葉は次第に清潔なものになりつつあるのだ。(字面的に「ヲタク」と書く場合は若干ニュアンスが違うのだが、ここでは話し言葉の発音として、「オタク」に統一させて貰う)。
自身でもその後に書いているように、オタクは最近になって生まれたものではない。オタクから負の印象をそぎ落とそうとしているのはマーケティングの要請にほかならない(電車男に明らか)。要は嗜好の細分化でもなんでもいいですけれど、マスマーケティングが不可能に成ったとき、単にマーケット規模としてオタク市場が相対的に浮かび上がったものにすぎない(ライトノベルやら漫画売り上げを見れば顕著)。つまりオタク側の変化ではない、そのおこぼれにあずかろうとハイエナが群がってきて言説を生産していく過程で、自己正当化か、自尊心を維持するためかしらないが今までのオタクをオタクではないプラスの評価を無理矢理付加し始めたということでしょう。もちろんメディアによって増幅され負わされてきたマイナスイメージ自体が不当なものではあったけれど。
>「オタク」という言葉が指し示す層が下へずれてくると、かつての「オタク」を指す部分が空白となる。そこに入るべき言葉をいろいろと考えたが、感覚的に近いのは「キモオタ」だろうか。
>その発祥時においては、「キモオタ」の指し示す範囲は狭く、アイドルや声優の過激なファンを指す言葉とされていた。それが次第に字面から解釈拡大が進み、かつてのオタクのポジションに収まりつつある。
>ただこの言葉が、これまでのオタクに類する言葉と決定的に違うのは、自称する言葉ではないというところである。むろんかつての「オタク」という言葉も、発祥当初は自称する言葉ではなかった。一般人から見て理解できない趣味の傾向に名前を付けることで、概念化したに過ぎない。
この点はキモオタ第一人者たる 本田透主催「しろはた」
を読めば「自称する言葉ではない」ということはないことが明らかなはずなのに。「NHKにようこそ」とか最低限の基本資料位目を通さないのだろうか?オタクの不当に課せられた宿命として負の眼差しを受け止めるのは今も昔も変わりませんよ。その中で他者からの嘲りと自嘲をあわせて用いられるのが「キモオタ」と解釈するのがむしろ一般なのではないですか?
>それならばキモオタは、なぜキモいのか。簡単に言うならば、社会との接点があり、その基準から外れた言動をするからである。もう一歩踏み込んで考えてみれば、キモオタの特徴的な行動とは、偶像と実像のメディアチェンジが行なわれたことに気がつかない状態であると言えるかもしれない。
>例えばある声優がいたとしよう。自分の部屋でその人をいくら応援しようが、キャラの抱き枕で身モダエしようが、本人の勝手である。マスメディアに乗って部屋までやってくる声優という存在には、実体がない。そんな中においては、自分自身の存在もまた、実体を失っていく。
はいはい、また俗流若者論の典型的な文章の羅列が始まりました。先に書いたように別にこういった存在が一定の割合は最近になって生まれたわけではありません。声優ブームはセーラームーンから(ちょうど中高時が重なりもろにその洗礼受けています)です、今さら擦り寄ってきたのは金の臭いを嗅ぎ付けてこんな言説を垂れ流している人たちでしょ?
文化人類学や歴史に対して無知な人はこれだから嫌です。新大陸は発見されたのではありません、前からあったんです。それを自分が見つけたときに出てきたような顔をして先住民に対してあーだこーだいう人。大虐殺しながら信仰を授けたと悦に入っている宣教師の姿が思い浮かびますよ。本当、無垢でいいですね?
>普段テレビを見ているときは、マスメディア上の「公」に対して、視聴者は「私」として接している。「公」の存在が目の前にあるときは、自分もまた社会人として、「公」の状態で接するのが通常だ。それをいきなりお茶の間で寝転がりながら尻掻いてるような態度でなれなれしくされては、「あの人だれ? キモチワルーイ」と思われても仕方がない。
>マスメディアのコンテンツが魅力的になり、影響力が増大するほど、虚像と実像、公と私を使い分けることが、難しくなる。
「キモオタ」を一般人の行動に対しても敷衍するのは一向に構いませんが、どうしてコンテンツの魅力の増加が虚実、公私の区別を難しくするのか肝心な部分が全く語られていませんが何か?どうして部屋で一人でいるときの行動がそのまま外にも向けられていくの?
この構図は、新・後藤和智事務所「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」
「都市が居間になる。」の項目にそっくりです。虚実の混同が未だ実証なき妄想であるのはさんざん記してきたのでおいておきますが、公私の区別がつかないのは今になってのことなのですか?だとすると会社という共同体に浸って法令違反を連発している連中はなんなのでしょうか?携帯をもった猿ですか?
>だがインターネットでは、相手の情報を捕捉できる限り、誰にでもいきなりダイレクトに意見を投げることができる。その利便性がプラスに機能しているうちは有効なツールなのだが、「公」に対して「私」のままで投げつけたり、実像に対して虚像で投げつけたりすると、マイナスとなる。
>直にアクセスできる手段があるからといって、それを実際にやってしまうのと、オフィシャルな連絡手段を介してアポイントを取って接近していくのとでは、その行動の社会性は大きく違うのである。
>キモオタ的言動は、その人の社会的な環境にも、そしてその愛情を注ぐ対象にさえも、深刻なダメージを与える。言動を「イタタタ」程度で笑える範囲に収めて引き返すことも、末永くコンテンツとその派生物を楽しむために、また必要なのである。
でどうやって題名に通じる本題が出てくるのかと最後まで読み続けての結語が↑です。これでは前回、まんま批判した通りのオタク批判+俗流若者論(ネット社会風味)で中身ゼロの構図をなぞって一歩も先に進んでいないと思うのですが。
あー今回は冒頭に↓の文章がおかれていて、あくまで個人の妄想であることが明言されている分はまだましになったのですかね。
>あくまでも筆者はこう感じる、ということなので、根拠を求められてもそんなものありはしないのだが、ここはもっともらしく説明してみよう。
コデラノブログ
でホワイトバンドに突っ込む前に自分の言説を何とかして欲しいものです。