こちらの記事は漫画放談 @ BLOCKBLOG 第2回テーマ「ドラえもん」
に送るためのものです。
少年期に触れていた「ドラえもん」とある程度歳をとってから(しかも改めてそのことについてじっくりと考えた)「ドラえもん」の違いについていろいろと書きます。
>『科学というものは古い時代の人類の夢を絶えず現実に満たしていってくれるものにほかならないと考える。新しい発明というのはどれでもそれ以前の一人の人間の単なる予感にすぎなかったものを現実のものとして見せ実際に証明している。いかなる時代でもおよそ行為と名付けられるものには必ず思想が先行しているものである。』
シュテファン・ツヴァイク「フランツ・アントン・メスメル」
小さい頃のドラえもんはまさに未来の象徴だった。大きくなれば(近い将来)科学の進歩があらゆる夢を叶えてくれると信じていた。そしてこの時代の空気は私だけが感じていたわけではないと思う。それは将来の夢として末は博士か科学者かと普通に受け入れられていたことからも分かる(ノーベル賞効果で再び浮上しているようですが)。
「ドラえもん」には二つの系譜があると思う。感動的なことで有名などらえもんが未来に帰る回に顕著に現れているように、のびたの成長や情緒的なつながりを中心に描くものと、未来の科学の進歩を垣間見せるものとしての道具の数々を中心に繰り広げられるドタバタ喜劇です。連載漫画はその二つの系譜を綾なしながら進んできたのでわかりにくいが、劇場版原作(長編)となると明確になっていると思う。
それはSF設定(輝かしい未来を彩る数々の道具や未知の不思議)中心→人間中心(現在)への流れです。例えば初期は恐竜が生きていたら、未知の地底や海底に別の文明があるのではないか、タイムマシンを駆使してタイムパラドクスや並行世界に思いを巡らせたりすることが作品の主題となっていました(もちろん問題解決は道具+仲間の協力によるものでしたが)。一方最近の結婚前夜のような懐古ものはともかく、その他も科学技術の進歩や未知の領域との連動のない軽いファンタジーものです。次回長編作品は声優の交代に伴い原点回帰となるので、その改変部分からその違いがより一層明確になるのではないかと思います。
ただ、この流れも致し方なかったのだろうと思います。科学技術の進歩に伴って地底も海底もどんどん明らかになりつつあった時分と、既に大半が明らかになって残りの部分についても大体の予測が成り立つ現在では同じ作品だとしても受け止め方は大きく異なります。
ここまで述べたようなこと、科学が輝きを失っていく経緯は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
にも詳述されています。科学技術の限界と可能性が大体共有されたことによりそんな驚天動地の発明などがもはやないこと(昔から考えれば携帯にせよ、新三種の神器にせよすさまじい技術が使用されているがもはや生活を一変させるというよりは、単に生活が少し便利になるという程度の扱い)、そして科学技術の進歩がメリットばかりでなく、未曾有のリスク(フロンや核技術)ももたらすことについて広く認識されたということです。
アトムは科学の進歩が総ての問題を解決する未来の象徴でした(動力源は核でしたし)、アイボは科学も癒しの一つに過ぎないという現在の象徴となっています。しかしドラえもんがかつて(そして今も?)小さい子どもに発信している科学技術の進歩に対する信頼は、科学技術への不信が行き過ぎている(遺伝子組み換え作物やクローン技術)今だからこそ逆にとても必要なことだと思います。いずれにせよ使い方(人間=のびた)の問題であって、節度をもって使えば生活を豊かにするものとしての作品の根本思想はこれ以上ないほどに正しいものであった(ある?)と思います。