今の【少女】漫画について想うことⅢ | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

紺屋さま「スポーツ漫画の変遷の中における『スラムダンク』」 をまずはお読みください。

今回は【少女】漫画について想うことと題したように、少女漫画に限定されず、漫画そのものについての文章となっています。


↑の内容を週刊少年ジャンプ(漫画放談 第3回テーマ) 用に4月12日補足。

4月13日更に追記(↓だけですので許して)
KIKIさま「少年マンガの主人公像の変遷─『週刊少年ジャンプ』の隆盛と失速─」

↑とても面白い論文ですので是非一読を。

スポーツ漫画の変遷と銘うってはいますが、少年漫画そのものの変遷と言い換えても問題ないでしょう。スポコン(努力もの)→ライト化の流れは漫画への敷居を下げるが結果的にカタルシスを生みにくくする。そして荒唐無稽路線は最終的にハイパーインフレ化して作品が陳腐化するという限界の指摘です。しかし、少数の例外的な作品を除けばライト化+荒唐無稽路線の上にほとんどの作品がある。

それは作品構築のノウハウがあまりにも出来上がっているからとしか言い様がない。「友情+努力+勝利」に代表されるキーワードに付随するお約束のイベントを順番に組み込めばそれなりの作品は出来上がる。特に少年漫画は週刊という時間的な制約もあるうえに、作家を使い捨ての消耗品としても扱える以上、独自の作家性や問題意識などに期待せずマニュアルを踏襲させることが経済的合理性がある。時代背景、問題意識、需要等についてはむしろ編集が考える問題なのかもしれない。

需要に応じた作品を送るということが、低学年向けの「友情+努力+勝利」を分かりやすくストレートに表した作品(「燃え」)であり、中高生向けのには+αとして少し背伸びした青春の情動鬱屈しつつエロスを意識せざるをえない内面表現であったり、自己投影モデルとしてのキャラクターを提示する作品(「萌え」)であり、それ以上の年齢層向けには性と暴力を全面に押し出した単なる暇潰し、娯楽作品となっていると思う。そして重要なことは各雑誌間を完全に分断せず橋渡しとなる作品を織り交ぜること(例えば、少年ジャンプの読者でありつつ、ヤングジャンプの読者へとなり、やがてヤングジャンプのみの読者となるというような流れ)。

前回、今の少女漫画について想うことⅡ で記したようにこの点が今の少女漫画に欠けている(つまり、リボンを読みつつ、マーガレットへ手を伸ばそうとするような流れ)ためターゲットを外れると同時に漫画を普通に卒業していくわけです。それで全く何の問題もないんだけれどね_| ̄|○

もちろん誰もが漫画と一生をともに歩む必要はないし、もしかしたらその方が幸せなのかもしれない。ただ昨今のアホみたいな純愛ブーム(韓流ブーム)とか、ファンタジーブームを見るともっと面白い作品が足元にあるのに…なぜ?と思ってしまうわけです。

>『闇の暗さに慣れれば慣れるほど、掲げられる理想の光の眩しさが私たちを幻惑する。そしてコントラストが強ければ強いほど、私たちは足下の現実をしっかりと見据えることができなくなる。』
(中略)
>『はるか天空に輝いているとばかり思い込んでいた理想の光が実は足下の闇の中にも潜んでいたことをようやく発見する。』

                     刈谷剛彦「教育改革の幻想」

先の「友情+努力+勝利」の順列組み合わせの話について中高生向けの+αの正体を「萌え」と記しました。少女漫画ならば何でも恋愛ですが、恋愛自体が恋愛対象キャラに対する萌えですから(+αすらない作品だらけなのがむしろ萎えなんですけれどね_| ̄|○)。この「萌え」は今までのデータからの順列組み合わせでを産み出せ、それと戯れ続けられるとするのが東 浩紀「動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会」 という名著です。そして私はその順列組み合わせだけ(もちろん順列組み合わせの仕方に既に作家性が宿っているという考えもあります)の行き詰まりが通奏低音として流れていると感じています。

飛び飛びで申し訳ないのですけれど、昨今の浅薄なブームはバブルから90年代後半の内面を軽視した反動だと思っています。鶴見済や宮台真司に代表されるように鬱々と内面を見つめなくても、性、薬、ダンスなど直接意識を変性させるもので、ごまかせば軽やかに生きていけるというものです(それが少女漫画における複雑な内面を語る表現の消失とも重なっているでしょう)。そしてこれから考えられる流れはは更なる回流がたとえ大きくは無くても一定の規模であるのではないかということです。自分がいかに傷付いているかとか、自分が何者であるのかもろもろのことを表現したいという根源的欲求が全面に押し出されるということです(このようなブログという媒体の流行自体がそうともいえます)。ただ今まで言語を軽んじすぎたがゆえに語るべき言葉を有していない。その言葉を供給するのが、あなたが表す術のない気持ちを表現できるように手助けするのが少女漫画だと思います、大分希望的観測が含まれますが…ね。

現状のキャラクター萌えで充たされている人が大部分を占めているのだからそんな小難しいことは必要ないという意見もあるのかもしれません。そうです、それは事実です。コンテンツ事業といってすぐ思いつくのは「キャラクタービジネス」ですし、周囲にキャラクターが溢れていますから。出版不況で苦しんだ中、ジャンプはキャラ萌えで息を吹き返したし、少コミも恋愛至上主義で一定数の読者を確保しました(ジャンプに関しては熾烈な競争原理を導入しているおかげで恐るべき才能が突然現れることもあるし、編集が意欲的に冒険するゆとりも生じているように思うのでもはや別格ですけれど)。

順列組み合わせによる「萌え」の飽和が一足先に訪れたのがゲームです。その点は今月のゲーム批評5月号 Vol.62 をお読みください。既に大多数の作品が一定の層に特化して1万本を売る作品として新奇の冒険をなかなかできない状況に堕しています。「ときめも」「サクラ大戦」は今や昔の出来事です。確かに新しく話題を攫っている作品もあります。しかしKeyの作品群は明確なメッセージ性をもっています、「月姫」、「ひぐらしの鳴く頃に」などは同人からのそれも単なる「萌え」とは一線を画した作品です。「萌え」はあくまでも隠し味として、あるいは読者が自分で見出すことに意味があるのでしょう。そのことを忘れると同じ隘路に行き着くことになってしまいます。

少女漫画は既になっていますか、そうですか_| ̄|○


↓追記はここから

少年ジャンプは90年代後半、600万部時代から少年マガジンに抜かれる過程で一度死んだ。それはスラムダンク、ドラゴンボール、ダイの大冒険、幽幽白書といった看板漫画が次々と終了したことが直接の要因ではあるが、単に他の看板を育成できなかったこと、そして実は皆荒唐無稽路線に飽き飽きとしていたというのが実情ではなかったかと思う(続いているから惰性で最後まで付き合っていただけ)。

ではどうやって甦ったのか?それはもちろん今までの作りをきちんと踏襲した「ワンピース」という作品の力は大きい。しかしキャラクター萌えを+αとしていれることが、パイ(=購読層、関連商品購入層)の拡大と言う点で女性層を取り込むことを明確に意識したことにある。

もともと「キャプテン翼」(←今期放映を開始した「ラブレス」の原作者である高河ゆんも同人時代はこれ)「星闘士星矢」そして「スラムダンク」ですらキャラ萌えとして読み替え消費するという層は確実に存在したが、明確に意識してその層に向けて商品を供給するということはしていなかった。

私はそのキッカケは藤崎竜『封神演義』 のヒットの分析にあったのだと思う。苦境であればこそ、売れている作品の分析を真剣に行い、その分析をその他の作品に活かしていった結果が「ヒカルの碁」「テニスの王子様」へと続いていくこととなった。こうしてジャンプは今までの基盤であった小学生から中学生までの男子向け「友情・努力・勝利」漫画に加えて、中学生以上の女子をも基盤と加えることに成功した。ターゲット層を広がることでより多種多様な漫画を提供するゆとり、そして受け入れられる下地ができた(例えば現在の「デスノート」などは現在では看板に育っているが、一巻発売当初はこれほどの反響はなかった)。できるだけ多くの読者を、そして層もどこか一つに偏らないように抱えることが作品の豊饒化につながり、読者もその実りを享受できるということです。