「ぼくの地球を守って」日渡早紀先生
(ちなみにアニメ版は作画・楽曲クオリティの高さは折り紙つきですが、肝心の話がぶつ切りであまりお勧めしません)
「見る」という言葉には古文で習ったように、見る、何かを意識して見るということから転じて「見守る」更には「守る」という意味がある。月からそして過去から、地球を、未来の自分たちを羨望と祈りを込めて見続けた物語。
ぼくたちは亜梨子(木蓮)に輪(紫苑)に自分自身を重ねて、現在にそして差し迫った未来にばかり追われるばかりの時代の中で「見る」ことができたもの。その奇跡。
新居昭乃「月からの祈りと共に」
に静かに耳を傾けながら
9月29日 文末にリンク及び雑感追加
この作品が示したもの(テーマという言葉では軽くて言い尽くせない)は何だったのでしょうか?それは「見る」という行為に引きつければとても美しく纏められると思う。それは新たな眼差しの設定、「見るもの」と「見られる」ものの位置の転換、そして混濁の果てに溢れ出す、ただただ愛しき眼差し。
「転生」を軸に、過去が現在に影響を及ぼすと同時に、現在が過去に影響を及ぼしていたことがやがて明らかになる。そのとき各々の現在という時点が過去の直接の影響の下にあり、そして現在が未来に直接影響を与えていくという一般的なイメージとは異なる時間軸が紡がれていく(もちろん現在は現在という一点でもって独立した概念ではなく、現在をもたらした過去、そしてあるべき未来という時間の流れの中で生成から死まで引き継いでいくものだけど)。それは「転生」が過去から未来へという一方向のものではなく、「転生」を前提とするがゆえに現在が過去へも未来へも開かれていることにある。輪が、亜梨子がそして仲間たち皆が悩まされる過去生の現生の呪縛感、綿々と受け継がれる罪の意識…。もがき悩み苦しみ抜いて、いかに記憶を受け継ごうとも現生ではなく現在であるということ。懐かしい「過去」であると同時に懐かしき「未来」を同時に受容させることで、相対化し現在の生を豊饒化する方向に統合することが最後に提示されている。
同じ構図は故郷にも現れている。『なれし故郷を放たれて 夢に楽土を求めたり』第一部(1~5巻)が「月への望郷」でもって現世に転生した仲間たちが集う過程を描き、やがて過去生の中で見守る対象に過ぎなかった「地球への望郷」が形成されていく。そして最後には月からの眼差しと地球に生きるものとしての感情が入り混じった果てに「地球(=自身)からの望郷」とでもいうべき新しいエコロジー観が成立していく。過去生の中で観察対象という「上」から見た意識に育まれたとでもいえる地球管理の発想(現在のエコ運動に類するものも見られますねorz)と、植物も人類も地球の一部として「横」から見た地球観。
ただ今、改めて読み直すと当時は興奮していて見えなかったものが見えてくる気がする。日渡先生自身がたわごととして書いておられるように、キャラクターが勝手に動いていく(これはままあることとして)、始めから逆算して作っていないこと(描きながら創っていく)が、第1部、第2部の密度(第2部のシ=オンとラズロ、キャーの78日間のエピソードは震えます)に比べると、第3部、第4部で薄さ(現生の一つ一つのエピソードの必然性、とりわけ田村が絡む襲撃やピアノ教師のエピソードがよく分からない。大ゴマの多用など)に繋がっているのではないのだろうか。それは第3部(13~14巻)が唐突に終わったように見て取れるように、あまりにも盛り上がった空気の前にどのように手繰るかを必死に考えていたことに由来するのではないだろうか?
ツヴァイクの小説「人類の星の時間」
に「たった一夜の天才」というものがある。これは現フランス国歌たる革命歌「ラ・マルセイエーズ」を、たった一夜で作曲した一市民の奇跡、そしてその才能がその一夜、一曲限りに終わったことを淡々と描いたものです。
ノストラダムスの大予言が大真面目に信じられていて、「MOO」というオカルト雑誌が一定の位置を占めているという時代の空気の中で「前世」という新しい世界への扉を開いたこと。その影響はこれまた著者自身が8~9巻のたわごとで懸命に否定せざるをえなくなるほどに大きかった(直接にこの作品の影響下にあったわけではないけれど、実際に前世を求めての自殺未遂もあったし)。作者と読者の幸せな同調連鎖(読者は物語の終焉を望まないがゆえに、その収束が若干もたついたようにも思える)が成立しえた奇跡(ふんだんにもりこまれた超能力設定、聖矢ネタとか)、読者がフィクションをフィクション以上のものとして受容し、それを直接作者が受信しえたと思うのです。
しかし、時代と適合し異様なリアリティー、空気を醸し出した奇跡に立ち会えた喜びを差し引いてもこの作品は燦然と輝いています。サージャリムに感謝!!!
ここから追記
パペッティア通信さま なぜ「ぼく地球」以外は駄作なのか 日渡早紀 『ボクを包む月の光 「ぼく地球」次世代編 』
でどうしてこれ以降の作品がダメになったのかの分析を行われています。新刊感想にも記したように、私がこの記事を書いたのは「未来のうてな」「宇宙(コスモ)なボクら」で見限ったはずの日渡先生が、墓を掘り返して泥を塗りたくる暴挙に出たことに対し悲嘆に暮れたことにあるわけです。私がその理由を偶然の時運が重なったと評価したのに対して、登場人物の分析からたどり着いた結論が
>ニセモノにまどわされ、ニセモノにしがみつき、ニセモノの下にうごめく「本当の欲望」にたどりつく物語。
であり、そのことに批判的に自覚的であったがゆえに
>彼女の以後のあらゆる作品は、ウソくさくなってしまった、「ぼく地球」の敗者復活戦として存在しているのではないのか?。
>彼女の作品を読むたびに、感じてきた違和感は、今回の読み直しでやっと理解できたようにおもえた。イデオロギーをいかにウソくさく見せないかという究極の試み。でも、あらゆるイデオロギーとは、所詮、ウサンくさい代物ではないのか。
となったと記されている。この分析に頷くと同時に、私はむしろ日渡氏の恐怖を感じる。それは物語が作者の手を離れて暴走することを恐れているのではないかということ、彼女のエコ思想はせいぜい大地に足を~程度の軽いものであったに関わらず「ぼく地球」の中で勝手に高みにまで届かんとしてしまい制御不能に陥ってしまった。だからこそそれ以降の物語は「セカイ系」とは言いたくないが、世界を描くにしても半径100mレベルの制御可能なレベルで勝負をしているのではないだろうか?分かりやすいイデオロギーを掲げるのもその範囲をはみ出さないようにあらかじめ扱う思想の防衛ラインを敷いているのではないだろうか(「宇宙」ではそもそも思想といえるような大層なものもない)?
イデオロギー単独ではなんらリアリティを担保できないがゆえにうさんくささが付き纏うがように、予め死んでいる(作中で独自の発展を遂げない)イデオロギーを掲げるがゆえにうさんくささを払拭できないのではないかとぼんやりと思います。