今回とりあげるのは麻生みこと「天然素材でいこう。」全10巻
>『大和の国は 皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 言霊の幸はふ国には きっとあの人が住んでいる』
1巻の始まりから10巻の終わり(完結まで6年もかかっているし)を想像できた人は決していなかったでしょう。まさに新進作家の処女作(厳密に言えば初めての単行本)から、その成長、進化を見つめ続ける喜びを体感させてくれます。
表紙カバーの法則について正解をご存知の方はなにとぞご教授のほどを!
以下 ネタばれ注意、読後にお進み下さい(当作品は少女漫画好きにとって読んで損はありません!)
麻生先生は一言で言えば、オシャレもしくはクールいう方向に特化して深化を続けておられる方です。おそらく80年代に隆盛し、メディアに露出させる人選を間違えたかいまや一般人の印象としてはキワモノに近い位置に堕してしまいましたがウーマンリブ、フェミニズムにシンパシーを抱いていた人(おそらく今の負け犬とか韓流などの敗北宣言に背を向け、気を張ってプライド高く生きてきた人にはとりわけ)には理解できる漫画となっています。「理解」という言葉を使ったのは、少女漫画でとりわけ重視される文脈から漠然と「感じる」という心象操作をも「言語化」でもって明確化させる作品を生み出し続けています。主人公が強固な自我をもち能動的、自立的であることを第一にしているという、今の少女漫画の潮流に背を向けているがゆえに「甘さ」がないと、共感できないと倦厭してしまうならばおそらくそれは一漫画に限らず「価値観」「生き方」という点で有力な選択肢の一つを失っていると残念でなりません。
絵の洗練のされ方も現在独特の方向に進んでいます。当初がりなちゃ系(目を強調しすぎてバランスが異様になる)のキャラデザ、太線を多用、コマワリがごちゃごちゃと、情報過多という印象を与える絵から始まり、顔の造形はシンプルかつ表情豊かに、細い線をメインに背景との一体感をも利用、そしてコマワリでもって心象をあらわし、ファッションなど小物へのこだわりもと…どうしてもっとメジャーにならないのか不思議でなりません(その理由は上記の通りと分かっていても)。かつて自立的であるということ、他者に依存せず一人でも生きていけるという覚悟、別に無条件に賞賛するつもりはありませんがあまりにも安易にその流れにのり、そして手放してしまった人が多いのではないでしょうか?
この作品(BELLを除けばどの作品でも同様だけれど)では主人公は徹底的に女性、それも亀岡二美と北大路理々子という全く異なる両者の視点から同等に描かれます。これはおそらく描き続ける中で意図的(そしてその時点から作風に確信を得たのだと思っています)に立場を割り振ったのだと思いますが、客観的(容姿、知的・身体的能力)な月とスッポン(一般人とスター)から、主観(精神的な人生観・恋愛)を通してその輝きが逆転していく様を残酷に描いています(当初北大路と並んでいたはずの嵐山美晴の凋落については目も当てられません)。おそらく北大路を主人公にすればもっと一般人にとっかかりやすい漫画になったであろうし、あるいは亀岡を受動的な人格にすればよくある一般人がスターに恋されて~(べたべたと嫉妬されたり誤解したりの甘々恋愛漫画)みたいな漫画になったと思います。早々に脱落した嵐山のような生き方も幸福だと思いますし(その他大勢の少女漫画の結論がそうだし)、亀岡の選んだ生き方が美しく見えて続けるのは正直しんどくて、誰もがそんなに強くないということ。それを両者の差異を自覚的にそれだからこそ苦悩して見つめる北大路でもって相対化しています。
>『誰からも言われたわ、私なら頑張れば何にでもなれるって、私もそう思ってた。でも二美ちゃんみたいな子には頑張っちゃうとなれないんだよね。』
理々子のこの言葉は例えば小さいときに無邪気に周囲の大人から可愛がられる人間と、それを冷ややかに見て甘えるという行為に負い目あるいはぎごちなさを生じてさせてしまう可愛くない人間の差とも言えるかも知れない。
男性ならば主役であったはず(ここがあったはずとなる過程を楽しむのもオツです)の高雄ではなく、三千院及び一乗寺の強さと弱さが女性によって炙り出されていく過程を自虐的に楽しむことも可能です。どうして高雄が最後へたれたのかその解は大雑把に述べるならば女性に対する幻想を最後まで捨て切れなかったことにあります(その点はそれまでにも再三指摘されていたに関わらず)。おそらく通常の少女漫画であるならば最後まで高雄勇を巡る三角関係についてドロドロと情念たっぷりに描くことになると思いますが、溜め込んで引きずるのではなく、ひとつひとつ女性陣は言語化して相対化することでドロドロさせません(あえていうとしているのは男性視点だけ)。これが最後の本来なら驚くべき結末に対する伏線であると同時に爽快感を漂わせています。同様にして三千院真の片想いを核に続けられる恋愛遍歴をも女性側の言語化により同様の帰結(但しその結末は違う)をもたらしています。
一乗寺春彦、有栖川百合、真弓加奈子といったあくの強い登場人物も魅力的(巻末おまけ漫画で更に光る)ですが、基本的に弱い人間が登場しないこと。そのことが「女の子」「普通」「可愛い」といったことへの敏感さ、そして逆説的に負い目を生じさせ、一方で「オットコマエ」であるという魅力を付加します。
極度なまでに心的状態を言語化しようと努めるその姿勢がたまらなく魅力的です。そしてそれらを彩る小道具である「ドラマの種」、「エントロピー増大則」、「言霊」、「エンドルフィン」、「秋桜(コスモス)のような人」、「アルファベット・コネクション」、「モーゼの十戒(すべて汝の隣人のものを欲するべからず)」などの用語の数々。ここまで言葉でもってあふれんばかりの情報量を描く作家は現在ほかにおられないのではないでしょうか?
>『たくさんの映画でたくさん教わって怒って笑って泣いてたけど、いつも私は観客で私は私自身の現実に感動したことがあっただろうか。』
>『私山程映画観て、山程人生のサンプル見たつもりで正しい方向とか、「こうあるべき」って行動とか分かった気になっていた気がします。』
という二美の言葉は私にとってあまりにも痛く、そして同時に自分だけではないという甘美な想いを抱かせてくれました。
>『じゃあ最後に恒例の!全員の無事卒業と輝かしい前途を祝して!生温かい籠にサヨナラ』
学帽を全員で一斉に飛ばすということは自分もやったんですが、そのときは特になんら感慨を抱くことなかったんですがこのシーンを見て思い入れを抱くようになりました(←既に「観る側」の人間として確信犯なので全く進歩なし)。