「今日もみんな元気です」~人と同じってそんなにえらいモンなの?人を蔑む権利をもてるくらい~ | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

この五ヶ月間、たっぷり堪能した少女革命ウテナの実況も終わったので久方ぶりの比較的最近かつ、お勧めの作品のご紹介。

猫山宮緒「今日もみんな元気です」(全6巻) (この後、猫山先生は小学館に移籍し、「瞳をそらさずにいて」を発表されていますがこちらはその…あまりお勧めしません。子どもの「残酷なまでの一途さ」というものを主題とするという点では本作品と同様なのですが、個人的な趣味と混同してのフィジカルな領域への進出は、それこそ少年漫画と区別がつかなくなっていく罠。筋肉質というよりきちんとした骨格が美しい画というのが魅力ではあったのですけれど、そのまま表面的な肉体美に主題ごと絡めとられてしまったような気がします。

脱線ついですが、少女漫画とスポーツの組み合わせはともかく、武芸との食い合わせの悪さは一体何に由来するものなのでしょうか?前に(ちらっと書いたことは覚えているのだけれど、見つからない…)書いたのは、少女漫画のキャラクターが激しく動かすにはむいていない、少年漫画のようにシルエット、骨格でもって表現しうるいい意味での粗さをもてないことにあるのではないかと記したかのように記憶しています。ギャグ絵としての崩し顔は少年漫画と同様に確立されているけれど、少女漫画はキャラ造型において顔命というか、瞳への異様なまでのカキコミを中心に成されていて、その他の身体はあとからついてくるというか…等身とかその辺に鍵があるのではないかと想像します。

そして言うまでもないようにそのような絵の技術的な差異とは別に「拳で語り合えば理解りあえる」という類の言葉を介さない直情・原始的コミュニケーションが説得力をもちえない繊細な世界を形成していることがありますが…。だからこそ、近代小説が個の確立・孤独において世界に挑戦すべく利用した「恋愛」という狂気、禁忌への越境といった、暴力的なまでに内的世界へ深化しえたのでしょう。日本の小説が結局のところ私小説にとどまり、担いえなかった(と私は思っていますと留保つけておきますね)表現可能性の魔力に一度でも囚われた人間はもう磁場から逃げられない。

閑話休題というかその延長線上の話題として書評日記  パペッティア通信さま「豪華絢爛、ホスト部へようこそ 葉鳥ビスコ 『桜蘭高校ホスト部 7 (7) 花とゆめCOMICS』」 をお読みください。

ここで春秋子さんは「性」という(そして必然的に「自己」をもね)垣根を乗り越える瞬間に抱かざるをえないためらいについて言及されています。こう書くと同性愛こそ近代の産物ではなく、歴史的に古くから許されてきた所作に過ぎないと系譜学的には思われるのかもしれないけれど、近代社会化した際の断絶云々のようなつまらないこととはまったく別にあくまでも「女性」の目を通した妄想の産物に眼差しを同化させるという点で別物だということです。男性が少女漫画を愛好したさいに拓ける地平とでもいいましょうか?自分のリアルな性癖としてホモになるということではなくて、男性をも妄想の対象として消費できてしまう眼差しを手に入れてしまうこと。要は眼差しの中性化というか、快楽(≒美)の最大化の為に自分の性を放棄、都合に応じて変化させることができてしまう。

女性が少年漫画を愛好して同じ眼差しを手に入れることができるかという点については、その心理描写の粗雑さから難しいように思います(むしろライトノベルこそが可能としている?)。

そこまで説明するのは面倒なので単に繊細さが好きだからと少女漫画を愛好する理由を説明してお茶を濁していますがね(この快楽についての説明は共感よりも生理的嫌悪こそ抱かせるでしょうし)。ピーターパンシンドロームなる言葉が囃されたこともありますけれど、個人レベルで何も社会に働きかけずとも大人になることを否定できるのと同様に、性的秩序をも否定することが可能なんです。否定することが可能ということはそのまま肯定することも選択肢としては十分にありえるのですけれども、「世界の果て」を知ってなお体制派、お約束に組するという退屈な選択のなんと色褪せてみえることか!それが可能性を知ってしまったものの悲劇というか、悦びというか…。

兄妹愛という禁忌に抵触するテーマの魅力について記そうと思ったのに、遠くにきたものです…そして結論などないままに脱線終了し、以下「今日もみんな元気です」に雪崩れ込みます。

姉弟愛と書いても、今は既に「僕は妹に恋をする」「罪に濡れた二人」のような有名な作品があるので別に目新しさは感じないかもしれません。ただいきなり発情して、あとは嫉妬と新キャラでループ展開の両作品とは違って、この作品では子どもから少年、少女への身体的・精神的成長にあわせて感情の深化を同時に描ききっている点にあります。

この作品も実は3巻まではふつーの甘酸っぱい恋愛メインのそれだけにありふれた少女漫画かと思わせていました。主人公が草太、早絵の姉弟とも確信もてなかったし。ただ、6巻巻末作者あとがきでも明らかにされていますが1巻最後の「新宇宙交響楽」から、描きたかったことが一貫していることは彼ら、彼女主役の話だけを繋いでいくと非常によくわかります。双子としてお互いが別人格、別姓であることを意識しない状態から身体の成長に伴い否応なく世界が分離されてしまうことから始まっています。

「ねえ、あなた」
「ん?」
「草太たちの部屋のこと ん-----・・いつ言いましょうか?」
「なんだか言いにくいですね 言ったら天使に性別を与えてしまいそうで…できるものならこのまま-----子供のままでいて欲しいと思うのは親のワガママですかねぇ?」

一般には女性のほうが身体も精神も成長が早いものなんだけれど、この作品では男の草太のほうが早絵よりも一歩も二歩も先をいっています。その動因は偏に早絵に対する激情としかいいようのない感情によるもので、野生的なものとして作中では描いているがそれがまたうまく表現されている。

そして2巻、3巻に挟まれている双子の物語は、性差の意識から、性(セックス)への関心へと、他者を鏡とすることで学習していく過程が描かれている。決してきれいごとではないが、だからといって思春期特有の潔癖症から拒絶するものでもないものとしての「性」。そしてこの段階で草太は早絵に対する感情を明確に意識し終え、以降まったく揺らぐことはない。

好きになったら----- 触れたいと思うのだろうか 触れられたいと願うのだろうか 感触を愛おしむのだろうか?


そして4巻からは怒涛の展開が続く。題名も「pure」と「たけくらべ」(タイトル名もまた良いです)、ここから先の帰結まで記しては未読の人にとっては完全なる興ざめなので記しませんがもう一点だけ。この作品を魅力たらしめているのは、近親相姦というタブーに繋がる双子の関係を安っぽい倫理観でもって頭から否定するのでなく、見守るものが側にいること。松波そして、貴巳の眼差しそして策謀が深化にどのような影響を及ぼしているか、あるいは及ぼしていないのか…冒頭で延々と記した自己を開放された眼差しの同化の快楽はここに一応繋がる。そして開放された眼差しにまた囚われるという自己に気付かざるをえなくなるという皮肉にも…。作中で言うならばこの双子は松波に対して野生的な本能からそれをあっさりと看破している。


「オレは自分の人生はオレだけのためにあるんだとは思うけど そいつら(=犬と飼い主)が大切にしあう様は何故か心に残っているんだ」

「‘いい’とか‘悪い’とかいうことを超えてお互いを大切に想い合うのはすごくキレイだよね」


Comments
クリフさん、百合姫読まれたんですか…。あれ全部に目を通すと確かに幻滅するでしょうね。

>同性愛を利用して自分の表現したいことを表現しようと言う気持ちが現れていて、嫌な気持ちになりませいた。

この点、竹宮先生も含めて24年組の表現は同性愛のひとつ上のステージからの恋愛の解放を図ったとみるほうがいいのではないでしょうか?つまり同性愛を正面から主題に据えてヘテロセクシャルからの解放をという戦術をとったのではなくて、ヘテロもホモも含めて性愛そのものを愛に純化させることで開放させるという…。

だからこそ真剣に同性愛をやってる方にも、一般のヘテロの人間にも等しく絶大な影響を与ええたのではないかと。また、その影響があるからこそ、「ホモが嫌いな女子なんていません(AA略)」ではないですけれど「同性愛」を表現として享受できる土壌が出来て、先鋭的に対立することなく社会が受容できるようになったのではないでしょうか(リアルに地に足がついた地平では差別が横行しているとしても、社会問題化するには至っていない)。この点、フェミニズムの失速ぶりに明らかですが、あまりハードに対立を迫るよりもソフトパワーとして浸透してしまったほうがよほど社会変革に資するのではないかと。
commented by 遊鬱◆jnhN514s
posted at 2006/05/31 23:09
遊鬱さん、こんばんは。

>「同性愛」そのものを描くというよりも「同性愛」を通して別のものを(それが単なる萌えにすぎなくても)表現する方向に少女漫画は進化したように思います

 そのことこそが問題に思えるんです。真剣に同性愛をやってる方から見れば、おそらく「同性愛を利用するな!」と言う気分になっても仕方ないでしょう。竹宮恵子先生の本の中での「ジュネ(やおいのようなもの?)」に対する竹宮先生の見解には、同性愛を利用して自分の表現したいことを表現しようと言う気持ちが現れていて、嫌な気持ちになりませいた。
 ちなみに僕は異性愛者なので同性愛者の方々の内面については想像の域は出ませんけどね。

 余談ですが、シムーンの漫画版が百合姫に載ってたので読んでみたのですが、シムーンが少女漫画かどうかが疑問に思えるんです。漫画版第二話には戦闘シーンがないにもかかわらず少女漫画に見えませんでした。少女漫画と戦闘機も相性が悪いなと思います。もちろんロボット、戦車なども同様なのでしょうけど、ヒロインが乗り物に乗って活躍すると少女漫画でなくなるような気がします。
commented by クリフ
posted at 2006/05/31 20:53
クリフさん、こんばんわ。

>もっとも少女漫画を特別なジャンルとして区別してしまうこと自体おかしいのかもしれません。

そうなのかもしれませんね…。また少女漫画には少女漫画しか書けない世界があるのだからと考えることも可能だし…。ただジャンプに連載されている漫画を女性が享受しているさまとか、鋼錬が女性漫画家の手によるものというようなことがあると読者層の厚みを増やすチャンスなのにもったいないと思っただけです(武芸≒アクション、格闘として)。

>那州雪絵の「天使とダイヤモンド」という野球少女漫画

私もこれ未読ですが、「おおきく振りかぶって」のような野球漫画(これも女性漫画家でありながら青年漫画の媒体なんですよねorz)が人気ですし、スポーツそれ自体は女性が忌避するようなジャンルではないということでしょうね。

>少女漫画の中で「ホモ」という言葉には差別意識がこめられてるような気がしませんか?ホモ漫画を描いてる「つだみきよ」さんの「プリプリ」でもホモという言葉が差別的に使われていて嫌な気がしました。

以前、百合にあわせて少女漫画における「性・同性愛」について書いた覚えがありますが差別意識は特にないような…。もちろん無自覚にネタとして扱うことで結果的に差別化に加担していると指弾することは可能かもしれませんが、「同性愛」そのものを描くというよりも「同性愛」を通して別のものを(それが単なる萌えにすぎなくても)表現する方向に少女漫画は進化したように思います。

>真剣に同性愛者の人権を考える土壌

リンクを飛ばさしていただいた春秋子さんが紹介されている「ニューヨーク・ニューヨーク」は真剣に同性愛について考えている漫画です、お勧めします。羅川先生は「いつでもお天気気分」でも同性愛について主題に据えた話を作られているので問題意識として抱えておられるということだろうと思っています。

つだみきよ先生はまさに同人誌畑の方なんですから娯楽以上のものを要求するほうが間違っています(笑)
commented by 遊鬱◆jnhN514s
posted at 2006/05/29 00:04
>遊鬱さん
 少女漫画と武芸の相性の悪さと言うと、「やじきた学園道中記」などは、少年漫画といっても通用するような作品になってしまってることでも格闘と少女漫画の相性の悪さを感じます。まるで舞オトメや風の谷のナウシカのような女性を主役にした漫画と区別がつきにくいです。もっとも少女漫画を特別なジャンルとして区別してしまうこと自体おかしいのかもしれません。ホスト部もスクールランブルもARIAも一緒の雑誌に載るような状況こそが正しいのかも知れません。

 スポーツと少女漫画の組み合わせで言えば、槇村さとるの「愛のアランフェス」は素晴らしいと思いますが、フィギュアスケートを題材にしているから、スポーツと言うよりダンス漫画に近いかもしれませんが。
 
 那州雪絵の「天使とダイヤモンド」という野球少女漫画はまだきちんと読んでないのですが、このサイトhttp://homepage1.nifty.com/akiopage/nasu.html で高く評価されているのでスポーツと少女漫画の高度な融合でもしてるのかな?とちょっと興味はあります。

 少女漫画の同性愛描写のことですが、少女漫画の同性愛って荷宮和子さんの言うとおり「妊娠の心配がないから」男同士の性愛を書いているだけの場合が多いと思うんです。だって、少女漫画の中で「ホモ」という言葉には差別意識がこめられてるような気がしませんか?ホモ漫画を描いてる「つだみきよ」さんの「プリプリ」でもホモという言葉が差別的に使われていて嫌な気がしました。欧米のように真剣に同性愛者の人権を考える土壌を日本の少女漫画やホモ漫画は育てられてはいないでしょう。だから日本のホモ漫画はあまり評価できません。
commented by クリフ
posted at 2006/05/27 19:07