緑川ゆき「緋色の椅子」~ファンタジーならぬなにか~(+獣王星雑感) | あざみの効用

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個人的には大満足だったアニメ版「獣王星」だけど、冷静に振り返ると原作未読者には優しくない(まあ、原作既読者にも( ゚д゚)ポカーンだった「西の善き魔女」とは較べようもないですが)出来でした。尺の問題として削除された設定が、展開に対する唐突感、違和感を拭いがたいものとして覚えさせています。特に原作のギリング元帥の存在を完全に消去したことが、サード、ロキ博士そしてなによりオーディンの存在を軽薄なものにしてしまったのが痛かった。理性のいきつく果てに訪れる野生=生命力の減衰(種の滅び)は理性ではどこまでいっても取り戻せないというのが真のテーマであるこの作品(オーディンとトールという北欧神話の主神名を考えると明白)において、オーディンを軽く描いてしまったことは失策であったかと。ちなみにサードはその両者の間で揺れ動く存在、野生と理性の確執を一人で歩むことで作品のテーマを簡明に示す存在であったと考えています。

出来れば原作を読んでいただきたい作品なので、これ以上は控えますが今回アニメとして見返していて気付いたことをあと一点だけ。この作品において恋愛というものが報われることのない、読者にとっては徹底的にフラストレーションを覚えさせるものであるというのも上記のテーマに沿うものとして理解すべきということ。つまり、惹かれてしまったらそれで敗者、どこまで理不尽に扱われようが、他にもっと自分のことを想ってくれる人が現れようが感情はどうにもしようがない。惹かれるというのは本能に根ざす部分であって理性で持って左右できない領域のこと。で、どうして樹先生がこんな少女漫画を根底から否定しかねないテーマを掲げたのか、表現しえたのか…ということを考えたとき、個人的経験として離婚を経験なされていた(「八雲立つ」の取材エピソードで描かれていた)よなーとぼんやりと想ったりしました。

『さようなら さようなら私の「獣王」 永遠に そして君は降り立つ 最後の「獣王」として どうか忘れないでくれ この星系に生きたもうひとつの「種」を 君達の もうひとりの 兄弟達を―――』

                         オーディン


緑川ゆき「緋色の椅子」(全3巻)

『まだ存在してない言葉、存在してない夢---それだけでは何の力もないもの。しかしこの世のすべてはそういう根拠のないものに突き動かされている。そう‐‐‐それは冷たい月の下であろうが、せせこましい現実の日々であろうが関係なく、誰の心にものしかかってくる呪いのようなもので、人はそれのことをこう呼んでいる---想像力(イマジネーション)と。』

                         水乃星透子


個人的に今現在連載されている少女漫画家のなかで一番新刊を待ち焦がれているのが緑川先生です。これが緑川ゆき「あかく咲く声」~声ならぬ声に耳を澄ませて~ に続き二回目の紹介(紺野さん への催促含みw)

心的言語はただ心中の茫漠とした印象、感触といった状態に留まるだけでは存在しない。言語化し、外部世界に射出することによって初めて明確に認識され、「ある」存在になると記すのが構造主義の文脈としては正しいのだろうか?(苦笑)しかし、心的言語は言語化することなくしても「ある」ものとして認識することは可能、そしてそれこそが芸術鑑賞の魅力の一つであると愚考する。

言語化は「その」概念に枠を与え、同時に他の言語との関係により新しい「その」言語を既存の言語体系の中に位置づける。しかし、それは同時に「その」概念を殺す行為でもある。曖昧であるがゆえに許された豊穣な可能性を剥ぎ取る行為でもある。だからこそ、詩、比喩表現や誤用からの新しい意味の付与といった填め込まれた枠を超えんとする作用により、言葉は絶えず息を吹き込まれる必要があるのかもしれない。そして間や、ふきだし、コマワリといった表現技法の差異を利用し、心的言語を心的言語としてあるがままに鑑賞することを可能にするのが、少女漫画の魅力である。とまあ、少女漫画を賛歌せんが為だけの分かったような分からないような漫談はこれにて終了(言語に頼らない表現という点で緑川先生が現在、明らかに抜きん出ていると感じているとそういいたかっただけです…まわりくどいことこのうえなし)。

ちなみに今回はいつもと違った切り口から紹介してみようと思います。

この作品がファンタジーなのかと言われれば、世界設定や旅の目的が失踪した想い人の捜索であり、彼に纏わる謎であったりと形式的には間違いなくファンタジーであったと思います。ただ実際はどうであったか?世界の謎を解明、救済、あるいは主人公の成長がテーマであったか、もちろんそれらも十分に成しているけれど…という読後感を抱いてしまう。それは決してつまらないとか、失敗しているという意味ではなくもっと違う…世界はなべてこともなし、そのようにしてあるというような淡々とした感情としか言いようのないもの。これが作者が柱で零しているようにもっと連載できていれば明確に形作られたものと思うのだけれど、とっても不思議な気持ち。「あかく咲く声」が決して恋愛の激情を主人公に投影させて激情として描かず、客観的に淡々と描いたことがここでもなされている。

セツ、ルカ、サキの主人公たちを始めとして、クレア、ドリィたち子どもが世界の欠陥を修正、受容しようという現実的選択をなすのに対して、大人であるナギ、キラがむしろ現実を否定していることがとても面白い。

で、今回は緑川先生ご自身の言説を柱から抜粋。

01(1巻)
>今回はデビュー後初の脱制服ものです。心象として集中線に近いような効果が狙える教室や廊下が背景の学校モノと違って、人物達が背景に埋もれぎみでなかなか悪戦苦闘しておりますが、逆に心軽く描けるところもあってとてもとても楽しいです。

心象として集中線に近いような効果がえられるものとして学校という容器を認識されているというのも興味深いところですが、人物達が背景に埋もれないようにという心がけた結果なされた表現はどうなったか。学校という狭い枠を取り払って世界にまで枠を拡張しても、見事に群集含め世界を総て同等のものに貶めえている。

02
>デビューしてからずっと学生さんを描いてきたので、異世界モノを描くということはちょっと意外というご意見も頂きました。思えば投稿を本格的にはじめる少し前まではこういうのや、異国風の魔法使いの話などもよく描いていました。

おそらくどのような世界を舞台にしても心象風景を徹底的に客観的なものとして表現しえる方ですので、いろいろなものをもっともっと読んでみたい!

>けれど投稿するなら入りやすく読みやすい学生さん達を使って普通の日常とは少し違うカンジのほうが、編集の方の目にとまるかもと(というか本来そういうのが大好きで)学生さんに絞って作品を創っていくことにしたのでした。

これがね…多様性を失わせている元凶!

05
>80ページについては研究したことなかったので、何ページ内に何を入れ、緩急のペースはどれくらいなら弛まず、きつすぎないのかなど、大慌てで戦略を練りまくりました。

短編、長編のいずれも書ける方なんて本当にいないですからね。緑川先生が満を持して長編に乗り出される日を楽しみにしています。

03(3巻)
>読切は最近、感傷的なものが増えてしまったので、ぼんやりした絵が多かったのですが、動ける「緋色」は規定枠外まで描き込んでしまうことが多かったです。

こここそが緑川先生の強みなのに「ぼんやりした」とか自己卑下にもほどがある!

07
>くぅ~!またしても三巻越えならずでした。やりたいことがたくさんあったのでページを勝ちとれなかったことがとても残念です。

。・゚・(ノД`)・゚・。

>1話を描き終えた後、恥ずかしながらはじめて「続きを描かせてください」と言ってしまった作品でした。当時の担当様が「むずかしいかもしれないけれど、いつか前号をひっぱり出してまで読んでみたいと思ってもらえる作品が創れたらいいですね」と言ってくださり、うれしくて帰りの新幹線で水っパナを流しながら帰った思い出深い作品です。

>それぞれの人物がたてる仮説を、ひとつずつ打破する過程、個々の過去や繋がり、対決、ニアミス、感情の吐露などもう少しやってみたかった。