DEATH NOTE+ひぐらしの鳴く頃に解~誰が駒鳥殺したの?~ | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

『シャーロック・ホームズ小説で大事な鍵が犬が吠えなかったちう事実にある―――つまり、重要な証拠は何が起きたかではななく何が起きなかったかにある。』

クルーグマン「どうして為替レートはこんなに不安定なんだろうか」

両作品そのものが死んだ、殺されたのはいつか、誰かというミステリーを解いてみようという試みです。その推理がどのようなものかはこれまでも断片的にあちこちで書き散らしているような気もするので、ここではその断片、TIPSを整理して簡易に纏めてみようというもの。

推理そのものはいたって単純で両作品ともに、その大ヒットによる商業的な、あるいはファンによる期待値の押し上げという圧力の下で脚本が急遽変更され、当初想定されていたであろう幕引きができなかった。結果、脚本が水増しされる中で必然的にサスペンス、ミステリーであるということを放棄した際に死んでいったというもの。分かりやすく、他作品に例えるならば、戯言シリーズが3冊目を境に、ミステリーを軸にキャラクターを特徴付けるものとして異能力という設定を付加していたものが、次第にミステリー要素が薄まり、単なる異能力者バトルものになり下がってかわっていったのと同じことが起きたということ。ただし、西尾先生は異能力を導入することで既存のミステリーのトリックが木っ端微塵になることは重々承知されたうえで、選択されていることは確かですが。

【DEATH NOTE】

まずは、分かりやすい逆算から。8巻以降の第二部とでもいうべき、ニア・メロ編が単なる駄作蛇足であるということについては検証の必要性すら感じないほどです。しかし、それだけに逆にそのつまらなさ、不満を見ることで何がDEATH NOTEたらしめていたのか、その本質という解が容易に見えてきます。

登場人物で誰に感情移入したらいいのかがわからない。

一部では月もしくはLのいずれかに感情移入することが可能だったのがそれができない。単に正義と悪の対決という構図が成り立っていないというようなことではない(ラストの図にも分かるように善悪の基準を大衆の欲望という深層的な地点で建前と本音を暴くというものがテーマでもあるし)。つまり、月は太陽の光を借りてその輝きを示すように、月が輝くにはLという光源が必要だったということ。比してニアもメロも月の輝きを借りる小人物に過ぎない。

対決構造に関連して、直接対決そのものがない(ラスト込みでも)。

命を賭けたギリギリの緊張感が全くといっていいほどに醸し出せていない。月とニアの会話自体に特徴的だが常に月、ニアともに安全地帯からの間接的なあるいは他者に対する指示を通してのものばかりで、一応対決構造は維持しているという程度の確認しか意味をなしていない。

対決構造が安全距離でのものであり、ニア、メロが小物である。

対決において繊細な心理的やり取り、駆け引きがまったくない!銃をかってのアクションとか、暴徒をなだれ込ませる、カーアクションといった大味なものばかり。

心理的駆け引きの存在しない展開では死神が空気。

第一部においては第三者でありながら緊張感を増幅したり、水をさしたり、笑いを誘ったりとここぞというところでその存在感を示していたのにまさにいてもいなくてもどうでも良い存在に過ぎなかった。目の取引や死後の脅迫など散々匂わせておいて拍子抜けもいいところ。

①~④と一応分割してみたけれど、どれも絡み合っていることは一目瞭然。どこか一部が致命傷となったというわけではなく、むしろ全体的に壊滅したというところだろうか?しかし、死に至る病は突如、第二部から始まったのではなく、これらの要素だけを眺めても第一部に兆しがあったように思われるということ、それを徐々に遡っていこうというのがここからの試み。つまり、これらの欠陥は一部という比較対象があってのものであってなおかつ、月とLの天才同士の直接対決に呑まれていただけで要素としては萌芽があったのではないかということ。

その観点からすると第一部におけるヨツバ編はまさにその宿痾がみてとれる。月とLが対決構造を放棄して、小者が跋扈するそしてその状況を引きずったままメインディッシュたる月とLの対決に終止符をうってしまった。月とLの直接的な心理的駆け引きではなく、本来、第三者の位置にあるべき死神レム(この死神がでしゃばる展開は第二部メロとの対決でも見られる)のでしゃばりをもって幕が引かれてしまった。当時のファンの間におけるL死亡の衝撃は、L自体が死んだということよりもこんなくだらないことでLが死んでしまったという茫然自失に近いものがその本質ではなかったか?

そして、死神のでしゃばりそれ自体は海砂に由来することを考えると、そもそも論として彼女の登場が、メインキャラクターとして物語に噛んできた地点、月とLの綿密な繊細な間合いを計りながらのやりとりを一挙にぶち壊した瞬間が始まりだったように思います。最終的に第二部で彼女の活躍の場はなし。彼女が寿命を四分の一としたということはなんのフォローもなく、あるいはLの拷問に耐えた彼女からノートを預かるだけならともかく、所有権そのものを全くの他人に付与(そしてそれが致命傷になった)というリスクを負った月はどこか間が抜けています。第三勢力の登場という海砂の登場自体は物語に深みを与え、展開を複雑化する要素足りえそれ自体が致命傷とまでは言いませんが、月とLの対決を次々と第三者を乱入させることで展開させる嚆矢となってしまいました。

脚本の水増しという観点からのポイントは2点、How to useとノートの増量。これは第二部ラストつまり最後に思い出したようにその設定を使っていますが、第一部においてはHow to useこそが物語進行の要でした。月が各種実験を施しながら慎重にその使い方を探り増やしていき、そこから逆にLは死神能力を推理する展開。第二部ではこれが皆無。ノートの使い方は枠が嵌められ、その能力も既知のもの…推理を加味する要素を放棄しています。

で、これはおそらくそもそも第二部は想定していなかったのだろうと愚考するわけです。設定が練りこめないままだらだらと進んでいる。その地点を辿るとこれまた眼の力でもって、間合いを測った月とLの駆け引きをぶち壊した海砂の登場が契機。ここで新たに登場した、そして最後のHow to useが、第二部も含めてメインとなったのがノートの持ち主をあれこれ移動、弄るという小手先のわざ。これならば単に展開につまったら新キャラクターを投入するだけでいくらでも物語を水増しできる(更にいうと、最悪展開次第ではさらに新たな死神、ノートをもってくれば続けられた)。

つまり、設定ありきのキャラクターであったはずが、海砂の登場を契機にキャラクターありきで設定不要でも話が紡げる展開に堕したのではないかと。しかし、そのように考えると全体の三分の一にも満たない地点で死に始めていたことになるの???

では変わりにどうすれば良かったのかということで妄想ですが、例えば同じ絶対正義のテーマを示すにあたってLに月と同じ道を歩ませる、そういう気付きを与える覚悟の死を月が選択させるような展開とか、逆に緊張関係を維持したまま望んだ世界を実現したはずが、単なる嫉妬塗れの醜い不自由な世界であることに月が気付き絶望する展開とかどうでしたでしょうか?推理ということでも最初に使ったように、犯罪者をLが使って月を挑発、罠を施すとか…。まあ、完全な妄想の類ですがね。


【ひぐらしのなく頃に解】

発熱地帯さま「ライブ感コンテンツの最先端『ひぐらしのなく頃に』、ここに完結」
>実際、羽入のデザインはファンが想像して生み出していた「オヤシロさま」の要素を取り入れていますし、赤坂のあの台詞は2chのひぐらしスレのAAで使用されていたものです。『祭囃し編』が鷹野と羽入の物語になることは決まっていたとしても、この2人が前話で不人気だったことを受けて、当初の予定以上に、描きこんだ可能性は高そうです。またファンの間でヘタレキャラとして定着しつつあった魅音に不自然なまでの活躍の場を与えたのも、前話のラストのヘタレぶりの反動でしょう。おかげで前話までは、主役とヒロイン的に奮闘していた圭一やレナの出番が減って、能力もかなり低下しているように思えます。

いちいちネット上で評価を目にしては愚痴を零したり、言い訳を展開していたのもそのレスポンスの裏表の関係にたつということでしょう。良い意味でも悪い意味でもプレイヤーとの距離が短かったと。公式ページでの掲示板こみでの作品だったと、そういうことだったのでしょう。

>ライブ感という点で、『ひぐらしのなく頃に』は明らかに時代の先駆をいっていると思います。

その楽しさを最初にメモしていたんですよね…。だからこそ、当時の面白さは保証できても、その後の解決編以降は微妙と記していたわけですし。

>リアルタイムでつき合った人と、後から知った人で、楽しさにかなり差が出るかもしれません。例えば、『DEATH NOTE』にしても、リアルタイムに連載を追いかけている人と数年後単行本でまとめて読む人では、明らかに楽しさが違うはずです。

>両作品とも、この時代の特性をよく反映しています。コンテンツの「消費」がますます加速していき、内容以上に話題性、話題の持続性が重視される時代には、このような作品が大きな成功をおさめるのでしょう。

これが時代的特性なのかについては判断つかない。同じような言説は80年代後半ぐらいからあったように思うし。消費が加速しているか、どうかはそのコンテンツの魅力いかんという気がします。息の長いコンテンツはとことん長いし、短いコンテンツはとことん早い。

grevグループさま「同人の流行年表」 のようなものを見るとそれほど消費速度は変わっていないような気がします。

>最近、プロセッサ性能至上主義の崩壊がよく話題になります。しかし崩壊もなにも、こういう決して上手いとは言えない絵のゲームがいちばん口うるさそうなオタク層の間でヒットした2年前の時点で、見えていたことでしょう。絵の品質は面白さやライブ感(お祭り感)に比べれば、たいした価値は持たないのだと。変化は常に辺境で先に起こるものです。同人ゲームや携帯ゲーム機という辺境で起こった変化が、据置ゲーム機という中央に伝播する。そして辺境と中央のパワーバランスが揺らぎ出す。それが自然の流れです

この辺りがソニー関係のニュースに粘着している理由の一つ、ゲームを殺しかけた主犯(従犯がスクウェア)と思っているからです。


で、肝心のゲーム内容についてですが、

こちらは死んだ瞬間がプレイしている最中に明確に分かった(思いっきり冷めた)のでそれから記すと罪滅ぼし編の屋上でのレナと圭一の安っぽい決闘。ここにおいてミステリー、ホラーのぎりぎりの狭間を放棄し、同時にそれまで有していたリアリティーをも放棄し安っぽいつくりものの物語に堕しました。

つまり、レナパンチやら沙都子の罠特性にしろ、あくまでもギャグだったはず。だから日常たる部活シーンなどでオチとして利用する分にはなんら問題はなかった。しかし、それがメインたるシリアスパートを浸蝕し、ギャグがギャグではなくなったとき、ホラーとミステリーの境界を漂うことで成立させていたリアリティーが瓦解しました。つまりいきなり稚拙になったということです。

これまた、製作者の苦肉の策であったであろうと。つまり、それまで引っ張ってきた「謎」という部分を明かすにあたって一話ならばそれを解いて終了と幕を降ろせただろうに、アニメ化やらコンシューマ化やら漫画化などの展開の中で導入部と同じほどのボリューム、つまり宴を勝手に終えることができなくなったことにあるのだろうと思います。では、どうやって緊張感を維持させるか?それが謎に変わって直戴的に緊張感をつくりだせると考えた格闘シーンだったのではないか?

そのとき主人公の座から圭一が転落することはそれこそ「約束 された 勝利 の剣」くらい確かなことで、口八丁が特技の彼には主役は貼れません。仲間を信じることの大切さが~というテーマをいうならば、それこそ皆殺し編で部活メンバーの勝利に終わらなくてはならなかった。つまり、結果的に美味しいところは全部大人に攫われた大人の物語になってしまった、そういうことです。そこにあるのはミステリーでもホラーでもなくたんに安っぽいSF設定に拠った物語。物語の魅力が失われたからこそ、ピース集めなんていうゲーム要素を必要とすることになったのでしょう。


【参考】
ひぐらしのなく頃に推理暫定版
ひぐらしのなく頃に推理暫定版VER2
皆殺し編プレイ後の感想
祭囃し編プレイ後の感想


『経験の教えるところによれば、善良な人間にとって最大の成功の日が運命の日であることが多いのです。また、成功の日にやってくるより大きな栄光への邪悪な誘惑に堪えられる人は少ないのです。』

                     「マクベスについて」