私にとって最も理想としている思想家が活躍していた時代も宗教戦争の真っ只中でした。そのような凄惨な時代を経て、屍の上に築かれたのが近代法の原則たる信教の自由であり政教分離でした。
しかし現在、日本ではこれらの原則を全く無視して、政権与党として堂々と宗教団体が権力を振るっています。それに対して民主主義、自由選挙を通してのものであるから何の問題もないという考えも確かにありうる。が、その場合でもこのような人々
が苦しんでいるという事実を忘れてはいけない。上記ページに以前書き込ませて頂いたのだが、個人の信教の自由は最大限に尊重されるべきだが、その子どもはどうなるのだろうか…という問題だ。
ただ日本の場合の救いはまだ信者の割合がせいぜい1億2000万のうち800万程度で7~8%を占めるに過ぎず、その割合も現在の趨勢を見る限り、減少こそすれ増加する可能性は低いということだ。まあ、それに何より信仰の内容も日本教だけあって所詮生々しい現世利益中心ですからね。
一方洒落で済まないのは、世界の覇権国たるアメリカを制圧したキリスト教原理主義者の現状だ。その問題点は日本と比較すれば非常に分かりやすい。
①現在で、全国民に占める割合が3割前後という圧倒的な分量(しかも現在も増加中)。
②そして信仰の中身が文字通り聖書を信じる原理主義者であるということ。これは例えば、外交政策としては、イスラエルのユダヤ教原理主義者を支援→エルサレムに地の雨が降って死体山積→キリスト再臨という構図を本気で信じている点。内政政策としては切実な経済・社会問題を軽視し(来たるべき世にくらぶれば…ということ)、倫理問題という個人的関心事を最重要課題に掲げ、同性愛、中絶や胚の医学的利用そして教育問題において、これからの文系・理系を問わない統一理論としての役割を果たすであろう進化理論の否定に結実する。
このような時代の中でどうすれば良いのか、それは狂信が疲れ果てるまでひたすら遠巻きにして時の恵みを待つことしかない。なぜならば彼らは科学的事実や論理で持って論駁できるようなホモサピエンスではないから。それが過去の歴史の教えるところ、狂信という圧倒的エネルギーが散逸するその日を祈りを捧げて待ち続けましょう。