暗いニュースリンク様の記事に基づく論考
「宗教はたとえ悪しきものであっても、人間のモラルを律するという意味で貴重であり、したがって無神論は偶像崇拝にも劣る。一方で宗教の内部にある狂信は罪悪の動機となるから無神論に劣る。つまり狂信よりは無神論が、無神論よりは偶像崇拝がましであり、これを超えたところに真正の宗教があるというわけだ。」
工藤庸子「ヨーロッパ文明批判序説」
ここまで色々と投稿している論考を読んでいただいている方ならば、おそらく承知のことと思うけれど、私は進化生物学に統合されつつある様々な知見を思考の核の一つしている。それだけに進化生物学の盛んなアメリカにおけるこの世論調査結果は衝撃が走った。冷静に考えれば、今回の米大統領選において再選の原動力となったキリスト教原理主義者とは文字通り聖書に書いてあることを信じている人々のことなんだから当然の結果なんですよね。つまり、この調査は「あなたは原理主義者ですか?」と聞いても同じ結果となると予測される。
別に信仰自体は個人の信教の自由なのでどうでもいいのだが、近代人である以上最低限の科学的知見は認めてくれないと、議論の前提が成立しなくなってしまう(ローマ教皇ですら既に進化論の正しさを認めたというに)。
問題を解決するには問題の所在・問題自体を正確に把握する必要がある。そして人間に係る諸問題を解決するに際しては、進化生物学の名の下に統合されている知見がそのものといかないとしても、大前提としなくては事実を把握できない事例が圧倒的に多くなることは予測される(当然のことながら人間も類人猿としてまごうことなき動物であり、その感情も含めて進化の産物に過ぎないから)。
理性でなく直感であるからこその信仰であるとしては、信仰を違える(悲しきことにアメリカでは少数派になっている)人々とコミュニケーションは不可だ。そしてこの点こそが私にとって無神論こそが多数の人々とつながることを可能とする宗教と考える点でもある。それは理性と論理性が柱ならばその反駁可能性は広く開かれ、その書き換えをも覚悟している柔軟性である。
だが悲しきことに確固とした何かであることこそが、死すべき人間にとっては宗教が心の拠り所たりうる点であり、大多数の人々にとって「死ねばそれまでよ」のような物理的虚無には耐えられないんだろうね。まさに0か100であり、中間を考えない素晴らしき世界。
「ブランクスレート(=空白の石版)が擁護者の心の中で神聖な教義となり完璧な信仰をもって公言するか、全面的に棄てるかのどちらかでなくてはならないものになってしまったことである。このような白か黒かの考え方をもっているのでなければ、行動のある面は生得的であるという見解を行動のあらゆる面が生得的であるという見解に転換したり、遺伝的特性は人間にかかわる諸事に影響をあたえるという見解を人間にかかわる諸事を決定するという見解に転換したりはできないだろう。」
スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える」