無神論(仮)
の続き
ロラン夫人ならばさしずめ「神よ、汝の名の下に如何に血が流されたことか」というところだろう。現在のアメリカの机上の空論に近い中東戦略がいかなるものかはさておいても、対抗するアラブの民衆(テロリストと言っても良いが)の旗印はイスラム教だ(聖地エルサレムを巡るユダヤ教との争いも現在続行中)。カシミール紛争に集約されるがインドとパキスタンの争いも、イギリスの分断統治が発端としてもヒンズー教とイスラム教だ(エルサレムを巡る問題もイギリスの三枚舌外交に基づいているけれどね)。卑近な例だが日本ならばまだオウム真理教の記憶は風化していない。
過去にも世界史を紐解けば、ブッシュが軽率に口走った十字軍という名の宗教戦争、一説によればドイツ全土で3分の1~2の民衆が死んだといわれている30年戦争、中国で政権転覆のきっかけをつくるのも新興宗教の蜂起(黄巾・白蓮・太平天国…)、新大陸で原住民を虐殺する大義名分になったのもキリスト教徒以外は人ではないとする当時のローマ教会のお墨付きだ。
神の為にという純粋無私な態度こそが、冷酷無比な振る舞いを正当化するというわけです。
悲しいことに宗教の名の下に行われる惨劇は一方が他方を殲滅するか、狂信が疲労困憊するまでただ遠巻きにしているしかないのです。なぜならば彼らに中庸を説いても無意味であるし、教義の穴や矛盾点をつこうものならむしろ火に油を注いでしまう。
「地上の正義という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味であるとともに、神の至上性を侵すことになる。」
マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
というわけです。だからこそ聖書の記述と矛盾する進化論は無視するか、葬りにかかるかということになる。認知心理の問題としても認知的不協和は精神衛生上よろしくないですから。
「私は無神論者だがそのことを神に感謝している」(バーナード・ショー)