無神論(仮)
及び、無神論(続)
の更に続き
あなたが、そして人類がその営々と築き上げてきた全文化とともにやがて宇宙の星屑と消えるという自然科学が教えるところの事実に耐えられないというならば、最後の最後で生の意味を担保する神、宗教がどうしても必要とするならば、せめて一神教ではなく多神教を選択して欲しい。とりわけ手近に溢れている世俗にまみれた日本教(神道と仏教と儒教と…のちゃんぽん)はお勧めです。
多神教は他宗教との共存が容易だ。自分が信仰する神様以外の神様の存在も、そのような神様もいるよねっと容易に受け入れられる。更には単なる並存状況から融合状況へとより宗教を豊饒にする形へとも進化することも可能だ。有名なところではローマの平和を実現したローマ帝国(衰退期のキリスト教国教化以前)においては、征服した土地の神を次々と取り込んだ(ユダヤ教・キリスト教を除く)。また英雄を代表として人も次々と死後神として取り入れていった。
…というのは一般論で、一神教だからといって他宗教との共存が不可なわけではない。かのイスラームにせよ、現在のスペインをも含む大帝国を形成していた中世において信教の自由に対し寛容であった。ヨーロッパにおいて迫害されていたユダヤ教徒も普通に暮らしていたし、キリスト教内部の争いで異端として放逐されたキリスト教徒も普通に暮らしている。逆に仏教とバラモン教をちゃんぽんした形で登場した多神教であるヒンズー教もイスラム教との対立の中で今では争いの種となっている。
要は民族紛争などと同じで一度宗教の相違を元に紛争が起きると極限まで妥協点が見出せないということです。紛争の火が消えかかったとしても扇動者にとって何度でも煽れる永久機関でもある。そのときにはお互いに多神教同士の方が妥協点を見出しやすいのではないかという可能性の問題ともいえる。
おすすめの日本教とは、バラモン教に近い六曜(大凶とか友引)を気にし、結婚式・クリスマスはキリスト教、死んだら葬儀やお盆を含んで仏教、長幼の序は儒教、そして祭りやお参りは神道という具合に教義を切り離してそのイベントのみをとりいれるという鵺のようなものだ。現世利益を第一としいかに面白おかしく生きていくために宗教を利用するというもの。そうその態度は無神論と変わりない(「女神転生」シリーズのようなゲームソフトは良い意味でその典型例)。
ただそのように空疎なるがゆえに生の意味を問おうとする者におもしろおかしく暮らすこと以外の答えを与えられないというのが難点と…振り出しに戻った。