無神論(4) | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

無神論(仮)無神論(続) 無神論(3) の更に続き。


「もし神が存在しなければ、それを発明しなければなるまい」
                         (ヴォルテール)

あらゆる社会にアニミズム的なものを含めば、神・宗教が普遍的に存在する。その究極要因(=進化的に適応を向上させたもの)と至近要因(=文明が築かれてからのたかだか3000年で人を心理的に動かしたもの)で考えてみる。

究極要因は、ここまでの考察とも重なるが不安を低減するためだろう。不安・悲観主義も慎重に生き残るという進化的メリットがあり残った性格であることは確かだが、度を越せば適応度を下げる。特に原始においては科学的知識もなく合理的に納得する術をもたない。それは自分が幼児の頃を思い出せばある程度想像できる。メカニズムも分からない天災(地震・雷・洪水)の恐怖にどのように立ち向かうか、そして容赦なく襲い掛かる病気(大規模な流行病は都市の誕生を待ってからというべきか)や怪我や死に対してどのように向かい合うか?
そもそも人は集団で互恵しながら生活することで生存競争に勝ち抜いてきた。進化は種単位ではなくかく個体で働く。そして互恵原理が働くには他の個体を信頼できるという能力が必須だ(もちろんその信頼を裏切ったものには報いるというしっぺ返し原則を含む)。この進化過程で育まれた信頼がほとんど同じ部位で働いているのが信仰と想像する。つまり対人に働いていた信頼を上述したような外部の不安に対処するために信仰として用いるようになったということ。そしてその信頼はもともと血縁→顔見知り程度にしか働かないような希少なものであるがゆえに、外部への信頼も少数の何か、すなわち神にシワ寄せしたと考える。これが神・信仰発生の起源ということ。

至近要因は、農耕が始まり定住できるようになった結果以降のことだ。メカニズムは同じだ。富・権力の偏在に始まり統治の側に立ったときその正統性を容易に担保するのが信仰ということ。統治の正統性や不平等な地位を恒久的にかつ合理的に納得させる他の政治的資源が他にあっただろうか?信仰はその点本尊が不条理の塊なので不変かつ、その正統性についての説明を一切不要なものとする。あとはその神輿を誰が(権力者か、反逆者か)担ぐかの問題にすぎない(新たな神輿を担ごうとするパターンも含めてね)。
祭政一致のヒメヒコ制、スルタン-カリフ制、バラモン教により育まれたカースト制度、王権神授説に支えられた絶対王政…歴史を辿ればそんなものばっかりだ。

「反逆の論理は怨霊信仰に集約的にうかがえるように仏教の洗礼は受けつつも、世俗の論理を全面肯定する密教に支えられて加害者としての王権と、その配下の者への復讐の観念で貫かれており、王権と世俗社会を乗り越えた高次の論理で統合されておらず、その結果最終的には王権の抱き込みに屈する。あるいは食い入るという道を辿ります。」
                       義江彰夫「知の技法」

この推論にはあまり穴はないと思うけれど、所詮は推論で研究もなされることはないでしょう。それに文献学研究と同じでたとえその系譜を暴露したとしても、「だから何?」と問われれば、事実と評価が乖離する性質のものである以上無意味かもしれない。ただこれも神の相対化には役立つ考えではないか(あるいは宗旨替えしてくれれば)と願ってやみません。近代人(「カラマーゾフの兄弟」のイワンの言う所の人神)としての矜持をもって生きてください。

「鈍感な感性と信仰者のおめでたい理性のみがこの虚無に耐えうるであろう。」
           見田宗介「価値意識の理論 欲望と道徳の社会学」