パスカルの賭け | あざみの効用

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電網山賊さま  思考のメモ - 「神殺し」の後始末 をまずは参照ください。

ここまで時間論 無神論というカテゴリー でいろいろと人が有限の存在であるということから神、宗教について試考してきた。

山賊様では自己規範を究極的に担保する存在として「神」を把握されている。そのような当人の価値観、総ての動機付けの源泉ともいうべき存在としての神が変更にさらされたときに、どうなるか、そして現在どのように感じているかを「神殺し」の過程として正直に吐露しておられる。

私がくどいほど繰り返してきた死すべき存在である人間(自分)がどこに「有意味」なものを見つけるかという話と重なって見える。他者との出会いによって死んだ神がどのようなものだったかは知らないが、その過程だけは痛いほどに共感できるからだ。

自己と世界が永遠のものであるのが当たり前すぎて、そのことを疑うことすら知らなかった頃の素朴な感覚は今でも時折懐かしく思うことがある。「神殺し」という言葉には単なる転回、転向と違い決して元の自分には戻れない(限りなく近づくことは可能としても)というくびきをも意味しているように思われる。


パスカルの賭けとは、神はいるかいないかのどちらかであり、その確率は2分の1。神がいるほうに賭けて実際神がいなくても何も失わないが、神がいないほうにかけて神がいれば総てを失うことになる。よって神がいるほうにかけるべきという論理である。

ただ、パスカルは

>「神を直感するのは心情であって理性ではない。これこそすなわち信仰である。」(パンセ)

とも述べている。パスカルのような天才でも理性と感情の狭間で揺れ動くさまがみてとれる言葉。感情のみでは自分を納得させられないからこその理論武装であり、理論武装に違和感を覚えざるをえないからこその感情論の吐露である。

神がいようがいまいが関係なく、神がいないことに賭ける覚悟こそが眩しく見えたのではないだろうか?同様にして神がいようがいまいが関係なく、神がいることに賭ける人はいるだろうか?

>「自分は喜んで神を認めるし、神が世界を創造したことも認めるが、罪なき者がいわれなく苦しむ不合理に満ちた、神の創ったこの世界だけは絶対に容認することができない。」
               ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

狂信的、妄信的に神を信仰すること、他者の神を遮二無二否定することは恐怖に基づく。一度でも「神殺し」を容認することは、新しく手に入れた「神」もいつでも殺されうるということだからだ。そしてそれは自己が変わりゆく存在であること、より高い自己への成長を欲することともいえる。

>「イエスにふさわしい言葉は天才や英雄ではなく白痴である。」
                     ニーチェ「アンチクリスト」

他者は「神殺し」の契機は与えるとしても、自己の内側に住まう神に直接手を下すのは自分自身以外にはありえない。神は殺せるそのような発想自体を否定し今あるところに安住し続けることも選択出来る。それに神を殺しても幸せになれるとは限らない。

>「私、どっちへ行ったら良いのか、教えてくれない?」
「それはにゃー、お前さんがにゃー、どっちへ行きたいかで決まるにゃ」

>「どっでもいいのよ、ただー」
「それじゃあ、どっちへ行こうと関係ないにゃ」

>「どこかへ着きさえすればね」
「それならにゃーきっとどこかへ着くにゃ、ずーっと歩き続けていけばにゃ」
               ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」